第九章 乱⑧
ざわめきの気配に、クシュタンは静かに立ち止まった。
どうやらその角を曲がると、怪我人の手当てをする部屋があるらしい。生臭いような異臭が混じった、消毒薬のにおいがする。
先程とよく似た感じの、やはり若い兵がこちらへ来た。手に汚れた布のような物を抱えている。おそらく衛生兵なのだろう。
目が合った刹那、彼は息を引き込んだ。
しかし悲鳴を上げる暇はなかった。
クシュタンのナイフが閃き、鈍い音と共に彼は絶命した。
不穏な気配に、わらわらと人が集まってくる。
『ラッククレイ!』『ジーター!』などという叫びが切れ切れに聞こえてくる。『ラクレイド人』『穢れた異教徒』とでもいう意味合いの言葉らしい。
おそらく『ラクレイド人だ、忍び込んできやがった、穢れた異教徒め!』とでも叫んでいるのだろう。
意識の隅でそんなのんきなことを考えながら、クシュタンは我が身を守る本能のまま手足を動かす。
三人、四人。
徹底的に無駄を排した、殺人に特化した動き。
襲って来る者の動きを見極め、過たず急所だけを一撃。おそらく痛みを感じる暇もないまま彼等は絶命した。
誇り高いルードラの戦士たちもさすがに竦む。
返り血を浴び、無表情に立つ異教徒の男。手にある得物はナイフのみ。
「鬼神……」
誰かのつぶやきは、その場にいた者の総意に違いない。
異教の神は誘惑する。
ある時は甘い言葉で。
ある時は美しさで。
そしてある時は、圧倒的な力を見せつけて。
経典にある有名な言葉だ。それを今、皆、目の当たりにしている。
返り血を浴びても表情一つ変えない、冷たく整った顔の異教徒の男は圧倒的に強い。息をするほどたやすく人を屠る。
動くことも出来ずに竦んでいるうち、興味を失くしたように鬼神の化身は、きびすを返して来た道を戻った。
「追え、追えええ!」
たっぷり五秒は経ってから、彼等の上官は裏返った声で叫んだ。
クシュタンは甲板にいた。
空気の悪い船底の船室から出ると、冷たい風が心地いい。ゆれる足許にも慣れてきた。
ナイフを袖で丁寧にぬぐい、鞘へ戻す。
(まさかとは思ったがあのうろたえぶり。慢心のはびこる部隊なのか?)
それでも、ここまでたやすく忍び込めた上、ここまでたやすく相手できる者ばかりだとは思わなかった。
世界最強の軍団ではなかったのか?ルードラントーは。
萌す違和感が不気味で仕方がない。
乱れた足取りがこちらへ向かってくる。
(やっとか……。遅いな)
舌打ちする気分で、クシュタンは腰の剣を抜く。
『剣ひとふりあれば鉄壁の防御が可能』
『護衛対象は元より、自身さえ傷付けられることなどあり得ない』
現役護衛官時代、クシュタンはそう称えられてきた。
称える言葉はやや大袈裟だが、『受動的な剣』の使い手でここまでの者はいないと言われてきたし、それに関しては自負もある。
『攻める隙さえ与えない』と称えられる当代随一の『能動的な剣』の使い手である、『荒鷲のタイスン』と双璧をなす自負。
(悩むのは、後)
呼吸を調え、手になじんだ柄をクシュタンは握り直す。
「なんだ?あれは」
艦橋で司令官がつぶやいた。
暗い甲板の人だかり。平海兵のなりをした古風な剣を振り回す一人の男へ、向かってゆく複数の平海兵たち。
船室へ撤収の命令はまだ解いていないのに、内輪もめか?
苛立ちを噛みしめ、彼は目を凝らす。
そもそもラクレイドの海軍は、中央から疎まれている弱小海軍ではなかったのか?
王弟に当たる人物が将軍に就任して以来、この国の海軍の結束は固まったという話は聞いていた。
が、軍船も装備も武器も粗末で、最新鋭のわが軍の足元にも及ばないと聞かされていたのに。
(鼠どもめ!)
ちょろちょろと煩わしい。
大砲を作る技術もないくせに、弩で槍だけなく、爆弾まで投げる技術を持っているなど!
簡単な戦いだと思っていた。
乗り込んでゆき、フィスタを制圧するだけでいいと。
後は手筈通り中央を崩せば、ラクレイドは『ルードラの王国』になると。
「閣下!」
艦長が悲鳴のような声を上げた瞬間、扉を蹴り破った平海兵たちがなだれ込んで来た。
「動くな!動くとこの導火線、火をつける!」
どこかたどたどしい言葉遣いで真中にいる男が叫んだ。同時に、周りにいた士官たちが瞬きをする間に拘束された。
「誰か!誰かいないのか!」
司令官は叫んだが、それきり口をつぐんだ。
両腕を後ろ手にひねり上げられ、床に押し付けられるようにして拘束された。痛みと息苦しさにうめく。
「兵は来ない。怪我人と、後の者は甲板へ行った。こちらへの通路は、障壁を作った。簡単には来られない」
たどたどしいルードラントー語を話す連中の頭は、よく見るとちょうど司令官の息子ほどの、まだ若い男だった。
妙に生白い顔色の、色素の薄い髪と瞳が認められる。
「言う通りにしてもらう。逆らうと、命の保証、出来ない」
(この……異教徒め!)
ぎりぎりと司令官は奥歯を噛みしめた。




