第九章 乱⑥
クシュタンは思わず鼻の頭にしわを寄せ、軽く咳き込んだ。
すでに夜、辺りは真っ暗だ。
海の方を透かし見ると、対峙している複数の船影が爆発の度に閃く光に、さながら幻影のように照らし出される。
閃光に少し遅れて爆音。
立ち上る煙。
濃くなる硝煙のにおい。
「ルードラントーも我々の意外な粘りに、苛立ちや戸惑いを感じてはいるようです。ですが我々の戦力では、相手をゆさぶって士気の低下を招く以上の事は、なかなか難しいのが実情です」
青年下士官の言葉に、クシュタンはうなずく。
事前に聞いていたラクレイド側の武器の特性から考えても、敵艦の頑丈さや大砲の破壊力を考えても、彼の言わんとすることはわかる。
「それで?」
なんとなく察しているが、クシュタンは続きを促す。
「まず一艘。敵艦を一艘、完全に制圧したいと考えています」
「君は俺の前職を知っているかい?」
はぐらかすようなクシュタンの問いに、青年は生真面目に諾う。
「はい。『赤銅のクシュタン』……ふたつ名持ちとして名高い、セイイール陛下の正護衛官でいらっしゃった、と」
クシュタンははっきり苦笑いする。
「その名に過剰な期待を持っているなら、今すぐ捨ててくれよ。そもそも護衛官は、貴い方の御身を守る技術をたたき込まれた武官だ。同じ武官でも、君たちのような軍人さんとは違う」
ひとつ息をつき、青年の目を覗き込む。
「君らの作戦のあらましは、大体察しが付く。俺は君らの部隊の護衛を務めよう。君らの作戦を邪魔するものは、出来得る限り排除する。それでいいかな?」
ありがとうございます、と頭を深く下げる青年を、クシュタンは複雑な思いで見下ろす。
おそらくこの青年は、人を殺した事がない。
優秀だろうし、並み以上に戦える技量はあるだろう。
だが人を殺したことはない。
この先の修羅に耐えられるのか、と、クシュタンは密かに思う。
もし耐えられたとしても何かが必ず歪んでしまう。
クシュタンにはそれが、手に取るようにわかる。……自分が、そうだったから。
セイイールの刺客を初めて討った日のことを、彼はふと思い出した。
セイイールに激しく懸想していたがすげなく振られた、まだ若いとある未亡人がいた。
恋に狂った彼女はある日、偶然を装って近付いてきて、セイイールに刃を振りかざすなどということをしでかした。
当時セイイールは十七歳、未婚で婚約者もいなかった。
憐れなまでにやつれていた彼女は、てのひらに収まるほどの儚い刃物を握っていた。
すでに色々な意味で、尋常な判断力を失っていたのだろう。
愛しいセイイールが手に入らないのなら、いっそ殺してしまいたい。
可能不可能は度外視して、彼女にはその瞬間、確実に殺意があった。
訓練されたクシュタンの身体は、勝手にその殺意・殺気に反応した。
なんとも言い表わし様のない、生身の肉や骨を断つ手ごたえ。
訓練時に感じる防具の堅い手ごたえとは、明らかに違う。
その違和感にクシュタンははっとし、刺客……くずおれる彼女を、初めてちゃんと見た。
足元に出来た血だまりの中で、壊れた人形のように倒れている彼女。
全身が訳もなく、がくがくと震えた。
教わってきたあらゆる知識や心構えなど、初めての殺人の経験に圧倒されて吹き飛んだ。
その後、丸一日何も食べられなかったし、ろくに眠れなかった。
護衛官として間違ったことをしたとは思わなかったが、人間として間違っているような気がしてならなかった。
何の感情もなく、さながらばね仕掛けのからくりのように反応し、人一人切り伏せて殺す己れが恐ろしかった。
心を見据え、整理し、自分の中で折り合いをつけるのにしばらくかかった。
クシュタンは小さく息をつき、追憶を押し込めた。
感傷にひたっている場合ではない。
ここは、戦場なのだ。
『海蛇屋』経由で用意された、あちらの平海兵の制服を模した服に皆で着替える。
作戦の実行は、青年下士官の一個分隊八名とクシュタンの、計九名で行われることになっている。
小舟に乗り込む。
さすが海兵たち、舟は滑るように暗い海を進む。
海は決して穏やかではない。
そもそも巨艦からの横波がすごい。が、彼等は難なく櫂を操る。
作戦はこうだ。
まずは残っている味方の艦の内、一番小さくて一番小回りの利く『つばす』に乗り込む。
『ほうせんか』で揺さぶりながら『つばす』は、敵艦のひとつにあえてぎりぎりまで近付く。
当然あちらは大砲を撃ってくるだろうし、被弾した『つばす』は航行不能になるかもしれない。
が、敵が大砲と弩の応酬に気を取られている間に、作戦の実行部隊が忍び込んで、敵艦を中から制圧する。
「隊を四人ずつの班に分けて、左右に分かれて忍び込みます」
下士官の青年は言う。
「それぞれが密かに艦橋を目指します。落ち合い、一気に指揮官たちを押さえて制圧します」
元々こちらは勝ち目が薄い。
肉を切らせて骨を断つ覚悟でぶつからなければ、活路は開けない。
この作戦は、敵がフィスタの近海まで来たら実行すると当初から計画されていたのだそうだ。
「わかった。では俺は君たちが出来るだけ素早く、出来るだけ無傷で艦橋へ行けるよう、的になろう」
ぎょっとする彼等へ、薄く笑んでクシュタンは言った。
「陽動をする。俺が暴れて、出来るだけ敵を引き付けよう」
しかし、と言いかける下士官の青年……分隊長へ、クシュタンは首を振る。
「逆に言うなら、俺に出来るのはそれくらいなんだ。向かってくる敵を排除する、それが護衛官の剣だ。大丈夫、簡単にやられないよ。これでもふたつ名持ちだったんだぜ、俺は」




