第九章 乱①
夜明けの冷たい風に、男は顔を上げた。
明け方の砂浜。ラクレイド本土に比べればかなり暖かなこの島でも、さすがに朝夕は少し冷える。
起き抜けに浜へ出、朝日を眺めるのがここへ来てからの彼の習慣だった。冷たい風は、身体と共に頭の中まで引き締めてくれるようで、心地いい。
浜風が弄る彼の薄茶の長い髪は、無造作のひとまとめにされている。光の加減で黄金に見えなくもない薄茶の瞳、品のいい顔立ちの美丈夫だ。
彼が身に着けているのは鮮やかな青の軍服。
鮮やかな青はラクレイド海軍司令官の色。肩章と襟章は銀。
彼は将軍の補佐を務める副官の一人でシェンタノ侯爵の庶子 デュ・シェンタノ大将だ。
ラクレイド最南端であり、デュクラとの国境近くに位置する小島・通称『果ての島』。
起伏の少ないなだらかな小島は、死んで砕かれた珊瑚が積み重なった地盤で出来ている。
島の周囲は透明度の高い浅瀬で囲まれていて、そこだけ特別に海の女神に守られているかのように、美しい。
美しいが、ただそれだけの島だとも言える。
珊瑚の砂は土地としては痩せているので、まるで海風に押さえつけられたかのような背の低い薮と、数種類の草くらいしか生えない。
深く根を張り、大きく伸びる木々……つまり森が育たないのだ。
森がないということは必然的に真水も少なく、つまり人が住むにはあまり適さない島である。
そういう、普段は漁師が休憩に寄るくらいの静かな場所が、ここしばらくは違っていた。
入れ替わり立ち代わり本土から軍船が来て、何やら運び込んでは設営と組み立てを行っている。
「閣下」
淡い水色の制服を着た海兵が小走りでやってくる。
そばに来ると海兵は踵をそろえて直立不動の姿勢になり、敬礼する。
「報告いたします。先程フィスタとラルーナより、知らせがありました」
生真面目な瞳でこちらを見ているまだ若い海兵へ、デュ・シェンタノは口を開く。
「まずフィスタからのものを聞こう」
「将軍レライアーノ公爵閣下がフィスタへお戻りになられた、とのこと」
間に合ったか、と、デュ・シェンタノは頬をゆるめる。
「で……ラルーナの方は?」
ゆるめた頬を引き、彼は問う。
訊くまでもなかろうが確認しなくてはならない。
「船籍不明の船団が、日付の変わる頃、ラルーナを発ったそうです」
そうか、と口の中でデュ・シェンタノはつぶやくと、一瞬きつくまぶたを閉じた。
「いよいよ、だな。おそらく昼前にはこの海域へ至るであろう。総員に告げよ、可及的速やかに朝食を終え、第一の配置に就くようにと。私も今から戻る」
海兵は短く返事をし、来た時と同じように小走りで戻る。
(いよいよ……だ)
大きく息をつき、デュ・シェンタノは水平線へ目をやる。
赤く染まった冬の太陽が、うっそり昇り始めている。
(光の神・ラクレイアーンよ。……ご照覧あれ)
太陽が高くなった刻限。
物見やぐらで望遠鏡を覗き、東の海を見張っていたひとりの海兵が、驚きと緊張にぎくりと肩をゆらせた。
(なんだこれは……)
船影なのはわかる。
しかし、こんなに巨大で黒い船など見たことがない。
彼は思わず望遠鏡の倍率を確認した。
あちらの軍船はラクレイドの常識以上に巨きく、薄い鉄板の装甲をまとって黒光りしているとは聞かされていた。
しかし実際目にするまで、それがこんなに巨きくて化け物じみたものだとは想像していなかったし、出来なかった。
海上を静かに進む複数の巨艦。さながら覇者の行進だ。
生理的な恐怖に、思わず彼は竦んだ。
だが、それもわずかな間だった。
すぐ兵士の顔に戻ると、彼はきびきびと次の行動へと移った。
浅瀬の外で待機していたラクレイドの軍船が一隻、黒い船団を迎えるように動き始めた。
軍船はデュクラとの国境ギリギリの海域まで進むと、甲板で発煙筒を焚いた。デュクラとの決め事で『停止』を意味する三本の煙が、鉛色めいた空へと立ち上る。
縹色の軍服の将校が舳先へ進み出て、拡声器を手に怒鳴る。
「船籍不明のそちらの船団へ告ぐ。これより先はラクレイドの領海である。速やかに停止されたし」
三度警告したが、黒い船団から返事はない。将校は歯噛みした後、念の為に習い覚えたルードラントー語で、同じ内容を三度告げた。
しかしやはり返事はない。
拡声器を下ろし、将校は、振り向いて部下たちへ告げた。
「作戦『最初の一撃』を開始する。総員即時、作戦行動へ移れ!」
「了解。即時作戦実行!」
「作戦実行!」




