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幕あいの章 凪④

 その頃。

 レライアーノ公爵の馬車に同乗していた医官長ラン・グダは、窓越しに薄闇を見つめていた。

 公爵は簡易の寝台に横になり、静かにまぶたを閉じている。


 乗り込んですぐ、ラン・グダは、彼の上着を脱がせて横になるよう指示した。

 苦笑はしたが、公爵は素直に指示に従った。

 本音を言うなら彼はまだ、長い時間身体を起こしたままでいるのは辛い筈だ。

 ラン・グダは近くに座り、息子ほどの年齢であるレライアーノ公爵の顔を改めて、しげしげと見た。

 伏せられたまぶたが時折細かく揺れる。

 眠っているとまでは言えなさそうだが、覚醒しているとも言えない様子だ。

 横になるとすぐに眠くなると、彼は先日、秘書官にぼやいていたが、要するにそれだけ身体が弱っているということだ。

(……この人はひょっとして、死にたいのだろうか?)

 意識と無意識の、あやういはざまで。

 ラン・グダはふと思った。

 いくら例のない国難へ対する為とはいえ、彼の行動は常軌を逸している。

 小さく息をついて視線を逸らし、窓越しに薄闇の向こうを見つめた。



 ラン・グダはかつて、フィスタの下町で暮らしていた。

 船医くずれの気のいい老医師が、さほど儲ける気もなくやっている診療所の手伝いをしていたのだ。

 手伝いといっても雑用だけでなく、馴染みの患者の診察もしていた。

 もっと言うと患者の半分……時には丸一日、ラン・グダは診療所の仕事を任された。

 任しても大丈夫だと、院長である老医師は判断していたらしい。

「あんたのお陰で楽が出来るから、俺としては大助かりだね」

 彼はニヤリと笑い、昼間から蒸留酒の湯割りをすすって言った。

 昼酒が飲めるなんて今まで苦労して生きてきた甲斐があるねえ、などともよく言った。

 半分は本音かもしれないが、半分はラン・グダに遠慮させない気遣いだろう。

 自分がさぼる為にラン・グダへ仕事を押し付けているような言い方をしていたが、院長はラン・グダを信頼し、医師としての能力を認めてくれていた。


 黒髪に褐色の肌、造作の大きないかつい目鼻立ちという外見なので、彼はどうしてもフィスタで目立った。

 港町らしい開放的な気風のお陰で、さすがにあからさまに疎まれるようなことはなかったが、じろじろと無遠慮な視線を浴びせられたり距離を置いた接し方をされたりは、やはり否めない。

 フィスタへ流れ着いた当初は、仕事ひとつ住まいひとつ探すのにも苦労した。


「兄さん、俺んところを手伝ってくれないかい?」

 フィスタに流れて来て一、二年経った、酒場の下働きをして糊口をしのいでいた頃だ。

 店の裏手などで、喧嘩で怪我をした酔っ払いの手当てや悪酔いの客の介抱などをちょいちょいやっていたが、それを見ていた店の常連である老人に、ある日、ラン・グダは声をかけられた。

「あんた医術の心得があるんだろう、それも並み以上に。手際を見てりゃわかるさ。せっかくのその腕を、食器洗いやツマミの下ごしらえで腐らせるなんざ、もったいねえ話だぜ」

 酒くさい息だったが、老人の目は静かで理性が感じられた。

「ウチは貧乏医院だけどよ、それなりに患者が来るんだ。ジジイひとりじゃそろそろ手に余ってきててね、あんたさえよけりゃ明日からでも頼みたいくらいさ」

 突然の話に躊躇するように瞳を揺らすラン・グダへ、酒焼けしたしわがれ声で老医師は続けた。

「給金はここの下働きよりちっとマシな程度しか出せねえけど、当面住む部屋と日々のメシくらいは用意できるぜ。どうだい?」

 ただ寝るだけの小部屋に、ここのまかないより粗末かもしれんメシだけどよ。

 言って、老医師はからりと笑った。


 確かに老医師の言うのに近い待遇だったが、習い覚えた医術の知識や技術を使う仕事は、やはり性に合っていたし楽しかった。

 店や厨房の掃除をしたり、積み上げられた食器を洗ったり芋や玉ねぎの皮をむいたりという下働きの仕事が、心底嫌だった訳ではない。

 が、さほど若くもない身で一日中、追い立てられるように身体を動かして働く日々は、本音を言うならきつい。

 老医師はさっぱりした気性の憎めない男で、ラン・グダはすぐ好きになった。

 彼は、ぐじぐじと身の上話をしたりこちらの身の上を聞いてきたりという類いの鬱陶しいことは、一切しなかった。

 酒を飲むと船医時代の馬鹿話を披露することはあったが、笑って聞けるような話ばかりだった。

 あっさりとしたその付き合い方が、ラン・グダには心地良かった。

 人生の半ばに身一つで異国に流れて来ざるを得なかった男には、言うに言えない事情がある。

 元船医の彼は、その辺の機微をよく知っていたのだろう。



 ラン・グダ・ルガーシオ。

 ラン・グダの正式名であり、捨てた名でもある。

 ルガーシオとは『ルードラの医術の徒』という意味の古語であり、ラン・グダの家名だ。

 代々、医術で人々を救うことで神に仕える、そういう家だった。

(……今更だ)

 ため息をついて小さく首を振る。

 診療所で働くようになって一年ほど経つと、どういう訳か昔を思い出すことが増えた。

 これまでは生きるのに精一杯で、思い出に耽る暇も余裕もなかったのだろう。

 包帯や薬品の在庫を数えている時、熱や腹痛で瞳を潤ませている子供を診察している時などに、閃くようにあちらでの見習い時代の日々を思い出す。

 見習い医師だった頃の忙しくも楽しかった……そう、今思えば楽しかった日々の、何気ない日常。

 王宮で侍医をしていた頃のことは、不思議とあまり思い出さない。

 そしてちょうどその頃の、まだ初々しさの残る妻、幼かった息子や娘の面影が追憶の中で鮮やかに浮かぶ。

 胸がぎゅっと締め付けられ、目頭が熱くなる。

 手が止まっているのにハッとし、自嘲する。

 懐かしい面影を、彼は胸の底へと押し込める。


 あの日。

 ルガーシオの一族は国から追われた。

 つまらない勢力争いの余波だ。

 ぼやぼやしていると命までも危ぶまれる状況だったので、ほぼ着の身着のままで逃げた。

 以来ラン・グダの家族は散り散りになり、行方どころか生死も定かではないのが現状だった。

(……医術の徒の末裔・ルガーシオに連なる者たちに、何卒ルードラの恵みあらんことを)

 無意識のうちに彼は、胸の内で神に祈る。

 国から追われたが、ラン・グダにとって『神』はやはりルードラだけだ。

 異国にいても、祈るのはルードラ以外なかった。

 正直本当にルードラを信じているのか、自分でもよくわからない部分がある。

 ルードラの存在さえ知らない人々が一概に不幸せだと言えないことも、流浪の暮らしの中で知った。

 ラクレイドの神であるラクレイアーン(その裏側の存在レクライエーン)の在り様はとても興味深かったし、漏れ聞くレーンの神の在り様に至っては哲学的ですらあった。

 それでも骨の髄まで染みこんいる信仰は、たとえ自分たちが国から捨てられても、自分の中から捨てられないらしい。

 ルードラそのものを信じる信じないではなく、己れの血肉は捨てられない、そういうことなのだろう。

 おかげで死にそびれ、今に至る。

 ルードラの教え十二の戒めのひとつである『苦難から逃れるための自死は、絶対に認めぬ』が、自分へ向けようとした刃をとどめ……異国の港町の小さな診療所で、雇われ医師をしながらだらだら生き続ける結果となった。

(せめて、子供たちがどうなったかわかればいいのだが……)

 見習い医師を始めたばかりだった息子、まもなく嫁ぐ予定だった娘の顔が、美しい夢のようにまなかいでゆれる。

 晩酌で一杯だけ飲む湯割りの蒸留酒が、日に日に濃くなった。



 転機が訪れたのはとある初夏の午後。

 老医師の下で務めるようになって数年経っていた。

 診療所の前に、(ひら)の海兵が着る水色の制服をいい加減な感じに身に着けた、若い男が立っていた。

「どうなさいましたか?」

 たまたま近くの店へ使いに出ていたラン・グダは、診療所の扉の前でうろうろしている海兵らしい男に声をかけた。

 声に振り向いた海兵は、真っ直ぐラン・グダの顔を見た。

 兵士らしく短く刈った黒髪の、はっと息を呑む整った顔立ちの若者だった。

 瞳の色は生粋のラクレイド人には珍しい、濃い紫色だ。

 混血の子供は港町では珍しくない、彼もおそらくそうなのだろう。

 いや……彼の美貌やラクレイドでは珍しい髪や瞳の色など、大きな問題ではない。

 不躾なまでに真っ直ぐこちらを見る彼の視線には、畏敬すら感じさせる不思議な圧があった。

 ラン・グダは思わず瞳を逸らしていた。

 本能でわかる。

 少なくともこの若者が、ただの平海兵ではないことを。

「あなたがルードラントーから来られたというお医者様ですね?下町に異国から来た名医がいらっしゃる、そんな噂を聞きましたので」

 若者は響きのいい声でそう言った。

 状況がわからないまま、ラン・グダは曖昧にうなずく。

「名医かどうかはともかく。この辺りでルードラントー人の医者は、確かに私だけです」

 答えると若者は破顔した。初夏の陽射しにも似た、明るくまぶしい笑顔だった。


 この若者が、レライアーノ公爵だった。



 低いうめき声に、ラン・グダはハッと我に返る。

 身を乗り出し、彼は自分の患者を観察した。

 患者の伏せられたまぶたは震え、眉はきつくしかめられている。

「閣下、閣下」

 呼びかけると、深い息をつきながら患者は、薄く目を開けた。

「……ここは?」

 寝ぼけたような声で問うのへ、安心させるようにラン・グダは笑みを含んだ声で答える。

「馬車です、閣下。今、フィスタへ戻る馬車の中ですよ」

 少し考えるように患者は、遠くを見る目を天井に据え、ああ、と声を上げた。

「そう……そう、だった。フィスタへ戻るんだ。戻らねば。あとどれくらいでフィスタに着く予定だ?」

「王都を発ったばかりです。まだまだかかりますよ」

 子供をなだめるように言って聞かせると、患者は納得したのか身体から力を抜く。

「そう……か」

 焦りの中にもどこかしらほっとした様子がほの見える、複雑なつぶやきをもらすと彼は、再び静かに目を閉じた。



 その日以来、レライアーノ公爵はお忍びでちょいちょい、この場末の診療所へ来た。

 驚いたことに、彼はごく基本ながら医学の知識を持っていて、ルードラントーの医療技術についても断片的ながら知っていた。

 彼の質問は鋭く、かつて王宮で侍医を務めていたラン・グダでさえ一瞬、詰まることがあった。

 王子だった少年時代に、招聘した学者から他国の最新技術や知識、情報を学んできたのだと彼は言う。

「ラクレイドの王族は幼い頃から、あらゆる情報に精通するよう育てられるのですよ」

 医学に限らず、彼の興味や教養の幅はかなり広かったので、その言葉に嘘はなかろう。

「しかし王族の中でも私は、雑多な知識持ちかもしれませんね」

 彼は笑う。

「結局首をつっこんでみるだけですから、どうしても半端になってしまうのですが。お陰で遠慮のない従者から、器用貧乏の汚名をいただいてますよ」

 ラン・グダはいつしか、この初夏の陽射しのような笑顔の青年と話すことが、晩酌以上の楽しみになっていた。

 彼と交わすような知的な刺激に満ちた会話に飢えていたことを、ラン・グダはようやく気付いた。


 公爵と出会って一年ほど経ち、海軍所属の医官として迎えたいと誘われた。

 診療所の馴染みの患者や世話になった老医師の今後を思い、かなり悩んだ。

 だがそんな日々も今となれば懐かしい思い出だ。

 尻を蹴飛ばすような勢いで、院長はラン・グダをフィスタ砦へ放り込んでくれたのだ。

「あんたの知識や技術は、風邪引きや腹下しや下町のガキ共の喧嘩傷を治すだけじゃあもったいねえよ。ラクレイドの医術は停滞してやがるんだ、あんたは医官どもの中へ乗り込んで行って、今までの知識で満足して胡坐かいてる野郎どもの横っ面を、思い切りひっぱたいてやんな」

 暴れてこいや、応援してるぜ。

 敵の縄張りに乗り込む子分を煽る、不良少年のような目をして老医師は笑った。

 

 自分の死期を覚った老医師がラン・グダの今後を慮り、かなり早くから昔の伝手を辿り、領主であり海軍将軍であるレライアーノ公爵へ話を通していたと知ったのは、彼が亡くなってからだった。

 診療所は彼の亡き後も存続できるようにと、レライアーノ公爵に託していたのも後で知った。



 激しく窓がゆれる音に、ラン・グダは再び我に返る。

 彼の患者……レライアーノ公爵は今、うつらうつらしているようだ。

 彼のそばで務めるようになり、レライアーノ公爵が一見したより複雑な内面を抱えているらしいのに気付いた。

 初夏の陽射しにも似た明るい笑みの裏に、昏く深い影がわだかまっているのも。

 むしろ彼の明るさは、己れの影を気取らせない為の仮面なのかもしれないと思うようになった。


 どんな人間にも、人に見せない影や醜悪な部分はあるものだ。

 十年以上生きてきて、曇りなく明るい者など却って不健康であろう。

 ただ彼の抱える影の質は、ありきたりのものではない印象を受けるのだ。

 何と言うのか……裏切られ、理不尽に踏みにじられた者が持つ、独特のにおいがする。


 ラン・グダ自身が持つ影に、近い、においがする。



 馬車の窓が再び激しく揺れた。

 どうやら、風が出てきたらしい。 

 

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― 新着の感想 ―
ピースがかみ合うような知的な話は楽しいでしょうね (*´艸`*)
ここまで読みました。 いいなあ。。 深カッコいい。
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