幕あいの章 凪③
その頃。
フィスタ領主邸の裏庭で、トルニエール・クシュタンが軽い鍛錬をしていた。
朝凪の時間帯なのか、風がない。
風がないと、フィスタが王都よりかなり暖かいのが実感としてよくわかる。
手を止め、彼は軽く汗の浮いた額をぬぐう。息をつきながら中空を見上げ、無意識のうちに神の峰の姿を探す。クシュタンは思わず苦笑いをした。
ここは王都ではない。
ラルーナでもない。
緯度としてはフィスタとラルーナは近いが、神山との距離はかなり違う。
ラルーナにいる間は北西に頂を仰ぐ状態になかなか慣れなかった。しかし、神山ラクレイがまったく見えないフィスタに比べれば、まだしも違和感が少なかったかもしれない。
(神山ラクレイがない、それが日常の日々に俺はまだ慣れないのか……)
王都生まれの王都育ち、それも王宮以外で暮らした経験のほとんどない自分。
第二王子の乳兄弟として、物心が付いた頃には春宮にいた。
幼馴染のマイノール・タイスンは、どういう訳かごく幼い頃からの記憶をしっかり持っている男で、睡蓮宮で暮らす前の記憶も漠然とながらあるようだ。が、クシュタンは父と暮らしたであろう日々の記憶が、まったくない。
父と母はクシュタンが生まれた頃に不仲になり、やがて父は、自殺同然といえそうな事故死をしたと聞いている。
寡婦になった母は、父の上司でもあったリュクサレイノの伝手で宮仕えをするようになった。ちょうどその頃王妃(当時は王太子妃)の懐妊がわかり、お生まれになる御子の乳母として務める話が来たのだそうだ。
その当時の大人たちにどんな事情があったのか、クシュタンは知らないし別に知りたくもない。
ただ、母は少しばかり誤解されやすい女性だとは思う。本人の容姿が、並みより美しかったせいもあるかもしれない。
彼女は年齢を重ねても美しく、青い瞳は涙を湛えているかのようにいつも揺れていた。人と話す時は相手がたじろぐくらい真っ直ぐ、そのうるんだ瞳で見つめる癖があった。
美しい彼女からうるんだような瞳でじっと見つめられると、男女にかかわらずそわそわした。もしかして気があるのかと、誤解する者も少なくなかった。
そもそも父が妙な死に方をしたのも、トルニエールは本当に自分の子なのだろうかという疑いを、密かに持っていたせいではないかとささやかれている。
もっとも彼女自身は真面目で律義、どちらかといえば大人しい人だった。が、子供のクシュタンでさえぼんやりと、もやもやとした不思議な色気のある人だなと感じていたくらいだ。たとえ本人にその気はなくとも、ランタンの灯りに羽虫が寄ってくるように『その気』の男が彼女へ寄ってくる。
質の悪いことに彼女には、好意を示されると無下に出来ないという中途半端に優しいところがあった。
母の意識には、第一には仕えているセイイール殿下があり、その次に今現在口説いてきている、あるいは付き合っている男の存在があるようだった。
息子はその次か、次の次くらいの優先順位だろう。忘れている訳ではなかろうが、自分が『トルニエール』という名の息子を持つ母だという意識が希薄そうだった。
確か六歳頃だった。
ラクレイドで、例年以上に雪花熱が流行した。
宮殿中に雪花熱は猛威をふるい、シラノール陛下とセイイール殿下がひどい雪花熱を患った。
その当時、王宮内で雪花熱の猛威を奇跡的に免れていたのは、レーンの方とアイオール殿下がお住まいになる睡蓮宮だけだった。
まだ幼いクシュタンを病魔から守る為、侍医たちの勧めで春宮から睡蓮宮へ移ることになった。
しかし、その時も母はセイイール殿下のそばに張り付いたままで、息子を見送ることすらしなかった。
母としては、病の篤い主から離れて息子を見送るなどという行為は、王子の乳母として身勝手だと判断したのかもしれない。
しかし六歳児のトルニエールにとって、その仕打ちは残酷だった。
セイイール殿下の遊び相手を務める自分は、セイイール殿下がご病気になってしまわれたらする事がない。役立たずの自分はいよいよ母から見放され、春宮を追い出されたのだと思った。
これから先、自分はひとりで、ずっと睡蓮宮で暮らすのだろうかと思うと心細くて泣きそうだった。
あの時の寂しさ心細さは、思い出すと今でも切なくなる程だ。
そんな、ある意味薄情な部分も含めて母という人を、諦めまじりでも受け入れられたのはクシュタンが二十歳を過ぎてからになる。
母より十も年上の、春宮の侍従を務めていたある男爵の後添えにと望まれ、再婚して彼の領地に行ってしばらく経った頃だ。
クシュタンは母から乞われ、挨拶がてら義理の父親の領地へ行ったことがある。
母は夫に大事にされているようで、この上なく幸せそうだった。
満たされた彼女の顔を見ているうち、母には母の人生があり、息子だからと彼女へ深く関わる必要はないのだ、と、クシュタンは知った。
彼女は彼女で幸せに暮らしている。なら、自分は自分で好きに生きればいいのだとも。
諦めたと言えるし、割り切ったとも言える。
寂しいが、暗くよどんだ部屋に陽射しと共に爽やかな風が吹き抜けたような、清々しくて明るい気持ちにもなった。
クシュタンは首を振り、一緒に鬱陶しい追憶も振り払った。
今更だ。
三十面下げた男が、うじうじ考えるような内容ではなかろう。
ため息をついて顔を上げ、中空に神の峰を探し……再び苦く笑う。
神の峰が見えない日常。それは主たるセイイールがいない日常に、似ているのかもしれないなとふと思う。
猛威を振るったあの年の雪花熱も終息し、ようやく春になったある日。
クシュタンは、睡蓮宮から春宮へ連れ戻された。
睡蓮宮の居心地は決して悪くなかった。
同じ年頃の子供がいるし、何も言わなくてもクシュタンの好きなお菓子や美味しい食事を作ってくれる、老爺の料理人もいた。
そもそもレーンの方ご自身がお優しい方で、クシュタンを含めた子供たちが笑顔で過ごせるよう、常に気を配って下さっていた。
主のお心が従者たちにもいい影響を与えるのだろうか、睡蓮宮の大人たちは皆、率先して子供たちの面倒を見てくれる、気のいい者ばかりだった。
だけどほぼひと冬を睡蓮宮で過ごし、クシュタンは子供心にも、ここは自分の居場所ではないと思うようになっていた。
アイオール殿下とその乳兄弟のマイノール・タイスンは、本当の兄弟のように隔てがなかった。時々けんかしたりもしていたが、それを含めて二人はとても仲が好い。
彼等の間に自分が割り込めないことなど、ひと冬共に過ごせば自ずと知れた。
それでも、自分を待っていてくれる者などいない春宮へ帰るくらいなら、ずっと睡蓮宮にいたいと思った。
明日には春宮から迎えが来ると聞かされた日の夜、帰りたくなくて、クシュタンはこっそり寝台で泣いた。
翌日。
腫れぼったい目でクシュタンは、春宮へ戻った。
戻ってすぐ、セイイール殿下の寝室へ導かれた。
寝具の中に沈み込んでいる、可哀相なくらい青白い顔の、目だけをぎょろっとさせている幼児がセイイール殿下だと気付くのに、しばらくかかった。
「トルーノ!」
寝台の幼児がはね起きた。
「おかえり、おかえり!トルーノ、おかえり!」
叫ぶようにそう言うと、セイイール殿下は咳き込んだ。周りにいる者たちが慌てて背中をさすり、ご安静にと制したが、セイイールはかまわず話し続けた。
「雪花熱はもうとっくに治ったんだよ、ぼく。なのに、いつまで経ってもトルーノったら帰って来ないんだもの!」
咳き込みながらセイイール殿下は一生懸命そう言う。咳き込んだせいだろうが、顔が赤く目もうるんでいる。
「もう帰って来ないのかと思ったんだから!シンパイだったんだから!トルーノ、お願いだよ、もうどこへも行かないで!」
あの瞬間。
クシュタンの居場所は、セイイールのそばなのだと確信した。
「トルニエール・クシュタン。最後の願いと最後の命令だ。聞いてくれないか」
レライアーノ公爵が帰ったすぐ後、死の床にいるセイイールが言った。
「私の亡き後、色々と混乱するだろう。一度だけでいい、私の大切な者たちへ、お前の力を貸してやってくれないだろうか?」
「もちろんです。私に出来得る限りのことは致します」
そう答えたクシュタンへ、セイイールは複雑に顔をしかめた。
「そしてこれは最後の命令だ。……お前は多分、宮廷が治まるべき形に治まれば、自ら命を断とうと思っていないか?」
思わず絶句してしまう。セイイールは困ったような顔をして苦笑いをした。
「やはりそうか。だがそれだけは許さないぞ、トルーノ。私のように、生きたくとも生きられない者もいるのだ。命を……無駄にするな」
刹那逡巡したが、クシュタンにはこの答えしかなかった。
「御心のままに、我が君セイイール・デュ・ラク・ラクレイノ陛下」
(セイイールさま。神山ラクレイのない日常に、私がどれだけ耐えられるのかはわかりませんが。今は、迫りくる国難に対することだけを考えます)
この戦いで生き延びられれば、クシュタンの中で何かが変わるかもしれない。
生き延びられなかったら……。
(あなたのおそばへ行く、資格が出来ますよね?)
見えない神山へ向かい、クシュタンは薄く笑んだ。




