第一章 二つの遺言状⑦
それから二日。
比較的穏やかに日は過ぎた。
エミルナールとタイスンは、休みをいただいた翌日からは『待機』となったので、さすがに出かけることは禁じられたが、公爵邸の敷地内で限りなく休みに近い時間を過ごした。
エミルナールは、屋敷の書庫から軽めの読み物を借りて読書を楽しんだり、公子の紙将棋(子供用の将棋。盤のマス目と駒の数は通常の半分、駒は紙製)の相手をしたりした。公女に付き合って庭の散策をしたり、タイスンの息子であるルクリエールを含めた三人の子供を探すかくれんぼも、タイスンと一緒にさせられたりもした。
「しっかしあのお子様方は親父さんに似たのかねえ、かくれんぼがお好きだよなあ。ウチのガキも一緒になって喜んでるから、子供ってのはみんなそうなのかもしれないけどよう、王都へ戻ってくるたんびにかくれんぼの鬼をやらされる、いい歳したおっさんの身にもなってくれや」
情けなさそうに口をひん曲げてぼやいているタイスンが、妙に可笑しかった。
うららかに晴れた秋の午後だ。
エミルナールは、寝泊まりしている部屋の寝台に寝転がって読書をしていたが倦み、窓辺に寄って何気なく外を見た。
少し離れたところでタイスンが、ルクリエールに剣の鍛錬をしてやっていた。
子供用の木の両手剣をやや持て余すように振り回しているルクリエールに、短い言葉で根気よく、姿勢の正し方や腕の振りを教えてる様子だ。ちょっと教えるだけで素人目にも格段と動きが良くなるのに、エミルナールは驚いた。こう言ってはなんだが、タイスンを見直した。
不意に、どこからともなく竪琴の音が聞こえてきた。涼やかなその音色を頼りに、エミルナールはふらりと部屋を出た。
中庭に設えられた小さな四阿に、公爵一家が集まって遊んでいた。
部屋着の上にショールを引っかけた公爵が、優しい笑みを浮かべて竪琴を奏でていた。玄人はだしのなかなか聴かせる演奏で、エミルナールは驚いた。
レライアーノ公爵が竪琴の名手だったとは知らなかった。
将棋はまだしも、こういういかにも貴人らしい嗜みを心得ている人だとは、正直思っていなかった。
子供たちはキラキラした目で父親の演奏を聴いていたし、毛糸でざっくり編んだあたたかそうな上着を着た夫人も、静かに耳を傾けていた。
エミルナールは自分に絵の才能がないことを、生まれて初めて悔しいと思った。
秋の陽射しの中、四阿でくつろぐ一家の様子は、永遠に画布に閉じ込めたくなる素晴らしい光景だった。
旋律が不意に変わった。小川のせせらぎか森を渡る風かとでもいう雰囲気の流麗な曲が、明瞭で単調な、童謡じみた曲に変わった。
(あ、これは……)
童謡じみたではない、童謡だ。ラクレイドに住む者なら誰でも知っている『暁の歌』だ。
ポリアーナとシラノールが嬉しそうな声を上げる。公爵の奏でる竪琴に合わせ、夫人が透きとおった声で歌い始めた。
「ラララ ララ ラララ ララ
ラララ ララ ラララ ララ
ラララ ラララ ラララ ラララ
ララ ララララ……」
歌詞の半分以上が『ラララ』だという単純さから、子供が初めて覚える歌として広く知られている。
公女と公子があどけない声で続きを歌う。
「おやまに あさひがのぼったら
あたらしい いちにちだ
だいすきなひとたちと おはようの ごあいさつ
ラララ ララ ラララ ララ……」
冒頭と同じ『ラララ』が最後にも歌われる。
冒頭と最後は同じなので、何度でも好きなだけ繰り返して歌いやすいのがこの歌の特徴だ。繰り返しを好む、まさに子供向けの歌と言えるだろう。今度は公爵も声を合わせる。
「……ラララ ラララ ラララ ラララ
ララ ララララ……」
その時、早足で公爵邸の老執事が公爵に近付いてきた。二言三言、執事は主人の耳元でささやく。公爵の顔色が変わった。
事態を察し、エミルナールも頬を引いてきびすを返した。
休暇は終わったのだ。
エミルナールが着替えていると、部屋の扉を誰かが合図した。手を止めて出てみると、すでに着替えを済ませたタイスンだった。
「おう。わかってたのか、コーリン。公爵の支度が出来次第、春宮へ向かう。陛下がご危篤だそうだ」
「は……い」
返事をしながら、エミルナールは思わずまじまじとタイスンを見てしまった。
何と言うか……タイスンのたたずまいがいつもと違うのだ。
近衛隊精鋭・護衛官であることを表す紺色の制服が、まるで彼が生まれた時から着ていたように身体にぴったり貼り付いて見えた。
「なんだ?」
立ち去りかけていたタイスンが一瞬足を止め、怪訝そうに眉を寄せて問う。
「あ、いえ。こうして見るとタイスン殿、護衛官の制服がよくお似合いなんだなと思いまして」
タイスンはきつく眉を寄せた。
「あんまり嬉しくはないな。要するに、王宮詰めの護衛官の感覚が俺の中に戻ってきてるんだろうよ。俺は今後、安全とは言い切れない王宮でウチの公爵様を守らにゃならん。フィスタの町でかくれんぼしているヤツを、酔っ払いやちんぴらから守るのとは訳が違うからな。ちんぴら相手の方がずっとすっきりしてる。王宮での護衛は質が悪い」
言い捨てると、タイスンはきびすを返した。足音らしい足音もなく静かに彼は去る。
『野卑』という単語が服を着て歩いているようないつもの雰囲気ではない。狩りに出る獣を思わせる独特の静謐が、歩み去る彼の背にある。
(……『荒鷲のタイスン』)
彼が本当に凄腕の、飛び切りの護衛官なのだと、エミルナールは初めて実感していた。
着替え終わって玄関広間へ行く。
タイスンが、主に夫人をはじめとした公爵のご家族の護衛を務めている私服の部下たちに小声で指示をしていた。
上官の緊張感が伝わるのだろう、彼等にもピンと張りつめた空気がある。
タイスンには現在、若い護衛官の部下が五人いる。
彼等は大抵公爵邸に詰めていて、ご家族と屋敷の護衛を務めている。公爵が、自分の護衛より家族の護衛に力を注いでくれと命じているからだ。
「それでも、タイスン護衛官ひとりの方がよりよくご家族を守れるのかもしれませんが。人数が多いという利点を家族の為に使ってくれと、閣下は仰せられたのです」
部下の中で最年長であるクラーレン護衛官がいつか言っていた。
『タイスン護衛官ひとりの方がよりよくご家族を守れる』とは、ずいぶんな買い被りだなとその時は思ったが……あながち、買い被りではないのかもしれない。
(なるほど、タイスン夫人が惚れたはずだな)
部下に指示しているタイスンを見ながら、エミルナールはそんなのんきな感慨にふける。
いつもの、さながら寛いでいる大型犬のようなタイスンには憎めない愛嬌はあるものの、格好いいとか頼もしいとかいう感じはない。
しかし今の、遠くの獲物を狙う肉食獣を思わせるタイスンはきりっとしていて、いつもよりずいぶんと男前に見えるし、清新な色気すらある。若い娘がぐらっときても納得できる男ぶりだ。
ふとエミルナールは我に返る。
切迫した事態から、どうやら己れの心は逃げようとしているらしい。大きく息をつき、エミルナールは背筋を伸ばした。
公爵が現れた。
焦げ茶の高襟の上着は、私的な用で王宮へ伺候する高位の臣であることを表す。
「待たせたな。参ろう」
そう言って歩き出す公爵の頬はあの日のように青く、背中には漆黒の、例のつけ毛が揺れていた。
春宮はいつになく人が多かった。
焦げ茶の上着を着こんだ男たちがそこここにかたまり、ぼそぼそと何やら話している。
「レライアーノ公爵閣下。こちらへ」
春宮侍従長・ロクサーノ子爵が早足で寄ってくる。
かたまって話している者たちは一瞬口を閉ざし、そろっと、うなずきながら侍従長に導かれる公爵をうかがった。
王の寝室だ。
寝室には医者の他に、王太后カタリーナさま、王妃アンジェリンさまと王女フィオリーナさまがいらっしゃった。
カタリーナさまは寝台の枕元でしょんぼりと立ち尽くしていらっしゃい、アンジェリンさまとフィオリーナさまはそのすぐそばで、互いに抱き合うようにして静かに泣いていらっしゃった。
カタリーナさまは顔を上げると、寝台に向かってこうおっしゃった。
「陛下。陛下、アイオールが来てくれましたよ。目を開けて下さいませ」
言葉が終わるまでに嗚咽が漏れる。少し乱れている結い上げられた髪は、元は王と同じ輝くような銀色であったろうが、今はぱさついた、力のない白髪であった。
「つい先程……」
医師の声に、公爵の顔から表情が消えた。
「陛下……」
よろめくように寝台に寄り、公爵は声を絞り出す。
「陛下、アイオールでございます」
寝台に横たわる、決して返事をしない兄へ公爵は必死に話しかける。
「陛下……兄上……セイイール兄さま!」
悲痛な叫びに、室内にすすり泣きが響く。
「……レクライエーンよ。わたくしは……よほど前世で罪深いことをしたのでしょうか」
ハンカチを握りしめ、カタリーナさまがうめく。
「夫のみならず、二人いた息子にまで先立たれるなど……あまりに、あまりにむごうございます……」
「おばあさま!」
フィオリーナ王女が涙でぬれた顔のまま、一回り小さくなってしまった祖母を後ろから抱きしめた。
「……セイイール」
王太后のつぶやくような呼びかけ。エミルナールの目頭も熱くなった。
部屋の外で気配がした。侍従長の声。扉が静かに開かれ、公爵と同じ焦げ茶の上着を着た老人が入ってきた。
「陛下に……最後のお別れを」
つぶやくような声。老リュクサレイノだ。
寝台に身を投げるようにして泣いていた公爵は立ち上がり、片手で顔を覆うようにして脇へ下がる。
寝台に寄った老リュクサレイノはしばらく放心したように、まぶたを閉ざした青黒い王の顔を見ていた。
「陛下……何故。まだこんなにお若いのに。レクライエーンのお召しが来るのは、この年寄りが先でなくてはなりますまいに……」
ぶるぶると身を震わせ、老リュクサレイノはうめくように言う。隠しからハンカチを取り出し、わななきながらそれで目をぬぐった。
「早い。あまりにも早い。早すぎます陛下……」
ハンカチをくしゃくしゃにしながらひとしきり嘆き、老リュクサレイノは涙をぬぐう。
しかし涙をぬぐい切った彼の顔は、すでに孫息子に先立たれた哀れな老人ではなかった。
彼は泣いている王太后を小声で慰め、王妃と王女に悔やみを言うと、こう続けた。
「お二人の今後はこのシュクリール・デュ・ラク・リュクサレイノが、残りの命のすべてを捧げ、お守りいたします。我が息子リュクサレイノ侯爵も同じ気持ちであります。どうぞご安心を」
そして、そばにいるレライアーノ公爵には形だけの悔やみすら言わず、まるで誰もいないかのように無視をして部屋を後にした。
「……コーリン」
小声で呼ばれ、足音を忍ばせてエミルナールは公爵のそばへ行く。
「敗北は即、死につながる、無謀な競技将棋が始まった」
ささやく公爵のぬれた目は、しかしながら不思議なほどに冴えていた。
「早速君にはやってもらうことが出来た。追って指示する」
「承りました。何事も御心のままに」
涙を完全に追いやり、エミルナールは、ささやき声でそう答えた。




