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幕あいの章 凪②

 その頃。

 春宮の王女の私室でフィオリーナは、寝台に横たわったまま大きく目を見開いていた。


 ここしばらく、フィオリーナは臥せっている。

 熱こそないが身体がだるくて起き上がる気力がわいてこないし、食欲もない。

 侍医は、虜囚になっていた頃の心身の疲れがラクレイドに戻って落ち着いた今、一気に出たのだろうと言っている。

 そうかもしれない。

 ……違うかもしれない。



 そもそも公爵邸に近衛隊が迎えが来た段階で、嫌な予感はしていた。

 護衛官たちは見知らぬ者ばかりで、フィオリーナの正護衛官であるデュランの姿すらなかったからだ。

(あの日森で戦闘になり、皆、ひょっとすると大怪我でもしたのかしら?)

 自分たちの身の上に起こったことでいっぱいいっぱいだったから、あの日一緒にいた武官や護衛官、側付きの者のことを思い出す暇はほとんどなかった。

 が、その後彼らがどう行動したのかなど、考えるまでもなかろう。

 近衛武官や護衛官たちが、フィオリーナと母が連れ去られるのを黙って見ていた筈などない。

 特に実直で職務に忠実なデュラン護衛官なら、命懸けで職務をまっとうしようとしたはずだ。

(命懸け……)

 ひゅっと胸の底が冷たくなったが、最悪から二番目をあえて考え、この場で問うこともあえて避けた。


 夏宮でカタリーナお祖母さまに会い、円卓の間にいる貴人たちの前でフィオリーナと母はあちらのことを証言した。

 ラルーナでの虜囚生活やルイの様子、フィオリーナたちの目にした範囲でのデュクラとルードラントーの結びつきやルードラ教の影響の深さなどについてだ。

 フィオリーナに対してはまだ遠慮もあろうが、母へは隔てのある冷たい態度を隠さない者も少なくなかったが、それは想定していた。

 母は、証言の最後に背筋を伸ばし、デュクラにいる兄と甥は今や他人以上に他人でまぎれもない敵だ、と言い切った。わたくしの祖国はこれまでもこれからもラクレイドで、デュクラは不俱戴天の仇だ、とも。

 が、その言葉を信じた、あるいはそこまで言う王妃に心を動かされた者は多くなさそうだった。

 これまで誠心誠意ラクレイドの王妃として務めてきた彼女に対し、フィオリーナの想像以上に宮廷は冷たかった。

 他国の宮廷に嫁すということがどういうことか、フィオリーナは改めて知った。

 こういう反応はある程度覚悟をしていたものの、覚悟以上に現実は厳しく、己れの覚悟の甘さ、見通しの甘さを痛感した。



 ようやく春宮へ戻る。

 目を真っ赤にしたジャスティン夫人を筆頭に、王女付きの侍女たちが感極まった顔で出迎えてくれた。

「姫さま、姫さま……」

 うめくようにつぶやき、後は立ち尽くしてただ泣いているジャスティン夫人の手を取る。

「戻りました。心配をかけてごめんなさいね」

 幼児のように首を振るジャスティン夫人の背を、彼女と同年配の王女付き侍女の侍女頭がそっと撫ぜる。

「あの日以来、ジャスティン夫人も我々も、生きた心地が致しませんでした」

 ため息と共に侍女頭は言う。

「森に行った者は全滅したという知らせを聞いた瞬間、我々は目の前が真っ暗になりました」

「ぜん、めつ?」

 問い直す王女へ、侍女頭は目頭を押さえてうなずく。

「ええ。武官もお世話係も侍医も、森に行った者は皆、亡くなったと……」

 その後の記憶は曖昧だ。

 ただ、立っていられなくなって膝を折ったこと、ジャスティン夫人や侍女たちが慌てたようにフィオリーナの名を呼んでいたことは覚えている。



 あれ以来、フィオリーナの頭の中は空白になった。

 何も考えられないし……考えたくない。

 色々な思い出が脈絡なく脳裏に浮かび、茫然とその追憶を眺めているだけの日々。

 今はもういない人々の顔が鮮やかに浮かぶ度、フィオリーナは泣いた。


「私にも娘がおりまして」

 フィオリーナの正護衛官に就いてしばらく経った頃だ。

 何かの折に、デュランはそう言った。

「姫殿下と変わらない年齢です。兄たちの影響なのか、暇を見つけては木の剣を振り回すような乱暴者の娘なのです。女の子に必要な勉強や訓練も、それなりにやってしまった後なので文句をつけにくいのですが、父親としては娘の将来が少しばかり心配ですね」

 困ったように笑うデュランへ、フィオリーナは言ったものだ。

「あら、じゃあ王女付きの護衛侍女に打ってつけじゃない。デュラン護衛官の娘さんなら、きっと筋のいい剣士なのでしょう?お会いしたいわ」


 王女付きや王妃付きの護衛として、『護衛侍女』という特別な女性護衛官が付くのは珍しくない。

 男性の護衛官が貴婦人の身近で警護するのは、やはり限界があるからだ。

 特に王女が成人を迎える頃には一人か二人、護衛侍女を配されるのが普通である。

 侍女としてお世話をしながら貴婦人のそばに侍り、いざという時は護衛として戦えるのが条件なので、どちらもそつなくこなせる人材がなかなかいなくて探すのに苦労する、と聞いている。


 デュランはぎょっとしたような顔をした。

「そんな……とんでもないことです。うちの娘のような山出しのお転婆、とても宮仕えなど務まりません!」

 いやにきっぱりそう言うデュランが不思議だったが、彼は娘の将来を、いい人に嫁いで穏やかに暮らして欲しいと願っているようだと、後になって気が付いた。

 宮仕えは名誉ある仕事だし得るものも多いだろうが、気苦労の絶えない厳しい仕事でもある。

 特に護衛侍女は危険と隣り合わせの仕事、そんな仕事に娘を就けたいと思わないのが人情だろう。

 彼自身が護衛官だから、尚更そう思うのかもしれない。

(デュラン護衛官……)

 ものすごく親しかった、とは言えない。

 だけど彼は、まるで空気のようにいつもそこにいて、静かにフィオリーナを見守っていてくれた。

 父が亡くなった前後も、特に慰めを言ってくれた訳ではなかったが、ただ彼がそこにいてくれただけで、冬の陽だまりの中にいるような感じがしてほっとした。

(ごめんなさい……)

 デュランの娘に、フィオリーナと同じく父を亡くす悲しみを与えてしまった。

 フィオリーナの父は病気だったからまだ諦めもつけやすかったかもしれないが、デュランの場合はまったく違う。

 朝、いつものように元気に仕事へ出かけたのに、夕方には冷たい骸になって無言で帰って来たのだ。

 突然の出来事に、デュランの家族はさぞ驚き、悲しみ、嘆いただろう。


 デュランだけではない。

 あの日たまたまフィオリーナたちと森へ行った者たちは皆、デュクラの手の者に殺されたという話だ。

 デュランの家族の身に起きた悲しみは、武官や従者の数だけあるのだ。

(ごめんなさい、ごめんなさい……)

 フィオリーナたちに従わなければ、彼等は今も生きて笑っていただろうに。

(ごめんなさい、ごめんなさい)

 フィオリーナは寝台に横になったまま、胸で詫びを繰り返しながら静かに泣いた。

 このまま泣いて泣いて……泣きつかれて眠るように、死ねたらいい。

 そんなことすらふと思う。



 フィオリーナは腫れぼったいまぶたを閉じ、長い長いため息をついて、上掛けを引きかぶった。 

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― 新着の感想 ―
戦争になると、もっとたくさんの人たちが悲しみますね ><。
優しい心の持ち主だけに、辛いでしょうね。
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