幕あいの章 凪①
知らせは即、王宮へ伝えられた。
すぐ身支度をし、馬車と馬で公爵とタイスン、エミルナールは王宮へ向かう。
夜明け前であり、夏宮はまだ閉ざされている。カタリーナ陛下のお住まいである秋宮へ向かうよう、侍従や近衛武官から指示される。
急いで整えたらしい秋宮の応接間は、暖炉の火こそ赤々としているがうすら寒かった。
簡単に髪を結い上げた、部屋着らしい濃い灰色の簡素なローブの上にあたたかそうなひざ下まである毛糸編みの上着を羽織ったカタリーナ陛下が、長椅子に座っていらっしゃった。
「ついに来た、そういうことですね」
ため息に似た陛下の言葉に、レライアーノ公爵は立ち止まってうなずく。
「執政の君。海軍にラクレイドの防衛を命じて下さいませ」
カタリーナ陛下の憂いのこもった蒼い瞳に、強い光が浮かぶ。
「海軍将軍・レライアーノ公爵。あなた方の持てる力のすべてを尽くし、ラクレイドを守って下さい」
公爵は深く頭を下げる。
「御心のままに。粉骨砕身し、必ずやラクレイドを守ってみせます。彼らをフィスタより先へは決して進ませません」
執政の命令つまり国の命令で動くのだ。速やかに馬車が用意され、近衛隊の一部が公爵の警護に付く。
「レライアーノ公爵閣下。私は警護隊長を仰せつかりましたセルヴィアーノと申します。閣下と皆様方をフィスタまでお送りいたします。よろしくお願い致します」
馬車と共に十数人の部下を連れた、公爵と変わらぬほどの年配の男が頭を下げる。
「ああ、セルヴィアーノ子爵。急ぎの旅になる、大変だがよろしく頼むよ」
軽い笑みと共にそう言ったが、ふと公爵は真顔になる。
「そういえば君は普段、秋宮と、今は閉ざされている冬宮の警護を担当しているそうだね。……君には誇り高い野生の犬が、いつも良き友としてそばにいるそうだね。私の部下もお世話になった……とか」
セルヴィアーノ子爵はひかえ目に笑んで言う。
「ええ。犬たちにはいつも世話になっていますね」
夜明けと共に、一行はフィスタへと移動を開始した。
エミルナールは馬で従いながら、セルヴィアーノ子爵の後ろ姿をちらちらと眺める。
彼は、カタリーナ陛下の即位宣言に真っ先に言祝ぎを捧げた子爵として、最近有名だ。
秋宮の警備隊長を務めている、セルヴァン公国所縁の子爵なのだそうだ。
三、四代ほど前にラクレイドの王女がセルヴァンに嫁し、生まれた二人の公子のうちの弟君の方がラクレイドで仕える道を選び、子爵位を賜ったのが始まりだという新進の家だ。
(セルヴィアーノ子爵は、〔レクライエーンの目〕『天』だったのか……)
彼は、特別優秀ではないが愚鈍でもない、実直であまり目立たない近衛武官としてこれまで地道に務めてきたらしい。
カタリーナ陛下が秋宮へ移られて以来、こちらの警備隊長として務めている……とか。
かの方のお近くでお仕えしているので、お人柄に触れることが多かった。
ご尊敬申し上げていたので、後先を考えず真っ先に言祝ぎを捧げていた。
彼は周囲にそう言い、己れの出過ぎた行動を少し恥じているのだそうだ。
が、彼が〔レクライエーンの目〕だったとするのなら、その行動が衝動であるはずがない。
衝動のふりをした、予定の行動だ。
「〔レクライエーンの目〕には『天』と『地』がある。『天』は宮殿に潜む者で、武官や文官としてさり気なく務めている。『地』は代々猟師をしながら国中を巡っている者で、『筆頭』と呼ばれる彼等の長は、『地』の中で一番能力の高い者が務める慣習なのだそうだ」
フィスタへ戻る道々、タイスンがそんな説明をしてくれた。
エミルナールとタイスンをさり気なく助けてくれた『犬養い』が、その『筆頭』に当たると言う。
「彼等は昔、ラクレイド王の血脈に神の気を感じる限り絶対的に仕えると、創世神ラクレイアーンに誓ったと伝えられているんだ」
当時『神への宣誓』は呪術的な力があると信じられていて、破れば一族もろとも死後は『永遠の罪人』に堕とされるとされていた。
つまり彼等はその頃から王家に従っている、非公式ながら最古の組織なのだ。
王家の『神の気』が何を指すのかは不明だが、それが認められる限り、彼等は王家の絶対の下僕として動く。
昨今でこそ諜報部隊・暗殺部隊としての色合いが濃く、ささやき声で語られ、恐れられている組織だが、そもそもの始まりは初代ラクレイド王の領内で、身分に関わらず王に心酔した者たちの集まりなのだそうだ。
「特に『地』の連中に神への宣誓を守る気分は濃いだろうな、『天』は基本一代限りだが『地』は世襲だから。『天』候補の若者は十歳までに適性を調べられ、『地』の連中から密かに訓練を受けるのだそうだ」
王家にも権力にも近すぎない位置にいる、色々な意味でしがらみの薄い、情緒や人格の安定している、並み以上の身体能力と知力がある少年少女のうちから選ばれて、王命で特殊な教育を受けて育てられる。
かなり厳しい条件なので、実際に『天』に認められる人材は一世代に一人か二人がせいぜいだ。
タイスンはふと苦く笑った。
「これは後で聞いた話だが。実は俺もガキの頃、〔レクライエーンの目〕『天』の候補者の一人だったらしい」
エミルナールは驚いてタイスンの顔を覗き込んだ。
「だが、割と早くに候補から外されたらしいな。俺は、間諜を務める場合もあるこの務めに就くには、良くも悪くも目立ちすぎるのだそうだ。それに……アイオール、つまりレライアーノ公爵への思い入れが強すぎるとも判断されたらしい。王家つまり国全体じゃなく、レライアーノ公爵の利益の為に動くのを優先するだろうと。ま……そうだろうなと思うよ」
タイスンは再び苦く笑う。諦め笑いに近い笑いだった。
「俺の主は神の狼じゃなく、レライアーノ公爵だろうよ。あいつが今後、王になろうが公爵のままだろうが断罪されて流刑囚になろうが、俺は、あいつ以外に仕える気にならねえだろうからな」
それくらいなら務めを辞めるね、トルーノみたいに。
つぶやくタイスンに、エミルナールは返す言葉が見つからなかった。
(私は……どうなんだろう?)
エミルナールは、この歴史の転換点である競技将棋で、レライアーノ公爵の駒になることを自ら選んだ。
だが、己れの主は神の狼……王家即ち国ではなく一個人だと言い切るほどの覚悟は、改めて考えるとない。
(……私は王宮官吏の文官だ)
正直、その認識以上でも以下でもない。
職務としてレライアーノ公爵に全力で仕えるつもりだが、己れの全存在を賭けて仕えるつもりはない。
では……主は神の狼なのだろうか?
しかしそう言い切るだけの覚悟も根拠も、自分にはない気がする。
馬車に合わせ、速歩で進む馬を御しながらエミルナールは、薄黄色い朝の陽射しを見上げた。




