第八章 王都へ⑦
公爵はその後、湯を浴びて寝間着に着替させられ、寝室へ拉致された。
医官長の命令……もとい、指示である。
「お食事は寝室にお運び致しますし、治療もそちらで行います。閣下は今後三日、寝台で安静になさって下さい」
「先生、私はすぐにでもフィスタへ戻りたいんですが……」
困惑顔でもぞもぞとそう言う公爵へ、医官長は首を振る。
「事情はわかっております。ですが、最低でも明日明後日は寝室から出ないで安静にして下さい。……お命が惜しくないのなら止めませんが」
駄目押しの一言が出たので、公爵はため息をついて諦めた。
公爵邸に戻った後も、エミルナールの仕事は終わりではない。
少なくとも、議事録の清書はしてしまわなくてはならないからだ。
『青軍服』を脱ぎ、部屋着に着替えてすぐ、エミルナールは机に向かった。
すっかり夜も更けた頃、ようやく清書が終わった。
ペンを置いて伸びをし、部屋を出て厨へ向かう。
さすがに疲れた。
熱いお茶くらい飲みたいし、小腹も空いた。
うまくすれば軽食の残り、最低でも固くなったパンの切れ端くらいあるだろう。
灯りを落とした廊下を、エミルナールはランタンを手に進む。
途中で医官の白い服を着たラン・グダ医官長と行き会った。
「コーリン殿。御不浄ですか?」
海軍のような粗野な環境に籍を置いているが、医官長は品のいいラクレイド語を話す。
これがタイスンやグスコなら『小便か?』とでも問うところだ。
「ああいえ。たった今仕事が片付いたので、お茶と、何か軽いものを少しつまみたいなと思って厨へ」
ああ、と医官長は合点する。
「秘書官の方は、会議や打ち合わせが済んだ後の方が大変でしょうね」
「まあそうですね、でもそれが仕事ですから」
当たり障りのない世間話をしながら連れだって厨へ向かう。
医官長も眠気覚ましにお茶を飲みに来たのだそうだ。
「閣下のお加減はどうですか?」
「今はお寝みになっていらっしゃいます。このところはお食事も摂れるようになられましたし、うなされることも減ってきましたが。それでもお心は休まらないでしょうね、戦が近いですから」
医官長の顔がふと曇る。
彼の一族は、ルードラントーの今の王と敵対する勢力に与していたそうだ。
勢力争いに負けて国から逃げてきたとはいえ、故郷の国と敵対するのは内心色々と複雑だろうなと、エミルナールは密かに思った。
湯を沸かし、茶葉を入れたポットへ湯を満たす。
大ぶりのカップになみなみとお茶を注ぎ、多めに蜂蜜を入れる。
医官長はそのまま、エミルナールは残り物のパンを浸して食べながら、ゆっくりとお茶を飲む。
自覚以上に冷えていたようで、腹にものがたまり始めると身体全体がじんわり温まってくる。
「ラン・グダ先生」
遠い目をして何か考え事をしながらお茶を飲む医官長へ、エミルナールは声をかける。
「閣下の持病をご存知でいらっしゃいますか?」
ああ、と医官長は我に返ってうなずく。
「心痛が一定を超えると、激しく戻して食事を受け付けなくなる、という症状ですか?ご本人やタイスン護衛官、クシュタン殿から聞きました。症状を聞き取っただけですから断言は出来ませんが、私の国でガリュクルン……ええと、ラクレイド語で意味を当てると、自分で作りだす毒、と言いましょうか、それではないかと思われますね。十歳未満の子供に出やすい症状なのですが、稀に成人にも症状が現れます。完治の難しい、厄介な病ですね」
一瞬目を伏せ、思い切ってエミルナールは問う。
「もし……心痛の大本になる事態が何らかの形で決着がつけば。病は治る、のでしょうか?」
医官長は大きな目をくりくりさせた後、
「いやあ……それはどうでしょう。これは、ひとりの人間の心身に付いた癖と言いますか型と言いますか、そういうものですからね。確かに心痛の大本に何らかの決着がつけば、心労そのものが減りますから症状は出にくくなりましょうが、それ以上の改善はなかなか……難しいでしょうねえ」
と言った。そうですか、とつぶやき、エミルナールは残りのパンとお茶をまとめて口へ詰め込んだ。
フィスタ砦の半地下の牢に捕えている、隻眼の男を思い出す。
公爵の心身、特に心へ大きな傷を残した張本人だ。
あの男を公爵が納得のいく形で処分できれば、もしかすると彼を苦しめている持病が治まるのではないかと思っていたのだが……そんな簡単な話ではないらしい。
(……それに。現実問題として、個人的な古傷に捉われている場合じゃないしな)
不意に、海鳴りの幻聴を聞いような気がした。
首を振り、ため息をひとつつくとエミルナールは、カップとポットを片付ける為に立ち上がった。




