第一章 二つの遺言状⑥
エミルナールはあわてて言葉を継ぐ。
「いえその、厳密に言えば現在のラクレイドの法律の許では、閣下の方が御位に近いでしょう。でも、その……」
公爵はため息をついた。
「ああ。フィオリーナ姫……フィオリーナ王女殿下は、母君がデュクラの王女でいらっしゃるとはいえ、陛下以外では唯一のデュ・ラク・ラクレイノでいらっしゃる方だ」
デュ・ラク・ラクレイノ。王と王の正式な配偶者との、正統なるお血筋のお子様。相続や継承が当然、優先される立場でいらっしゃる。
「かの方は王位継承の順序で言うなら第一位。しかし残念ながら、御歳わずか十歳。あまりにも稚くていらっしゃる。そもそもラクレイドでは伝統的に、成人前の幼い王は忌避されてきた」
それは王国の初期、幼い王を戴いて国が荒れた苦い経験からくる慣習である。
その慣習を法として整備なさったのは、先々代のシラノール陛下。法で言えば、いかに王女殿下がデュ・ラク・ラクレイノでいらっしゃっても今すぐの即位は避けられる。そして王位継承権を持つ(もしくは持つと見做される)方々の中で、先代の王子で現王の弟、そして成人である公爵が御位に就く流れになる……あくまでも法的には。
しかし『正統なる王の血筋』たる方を差し置いて、ただの『王の血筋』、それも南洋人であるレーンの神官を母に持つ王女の叔父が御位に就くなど、宮廷に集う者にとって心理的に強い抵抗があるはずだ。
ラクレイドは古い国である故、保守色が強い。
そして貴族階級以上の者には特に、純粋なラクレイド人を尊ぶ風潮も根強い。
婚姻も頑固なまでに、家格の釣り合ったラクレイドの貴人同士で行われてきた。その為、宮廷に集う者は現在ほとんど皆、濃い薄いの差はあれ血縁者という状態だった。
行き過ぎたその風潮に危機感を覚え、故シラノール陛下や故スタニエール陛下が王家へ他国の血を呼び込むことにした訳だが、頭ではわかっていても未だに心理的には受け入れていない者が少なくない。
公爵は再び深いため息をついた。
「それでも外交上の複雑な問題さえなければ。私の役目はかの方をお支えするだけで良かったのだと思うよ。稚い女王陛下を支える『将軍』でいれば良かった。それこそが本来の私の器、私の役目だ。そうある為に今まで行動してきた面もある。しかし……」
「……東部方面の憂慮、ですね?」
これについては、海軍に籍を置く者として知っていて当然の情報だ。
神山ラクレイに連なる山脈と広大な砂漠のはるか先、東の果てに新しい国が興ったのは五十年ばかり前。
その国を受け継いだ若い王がすさまじい勢いで近隣を飲み込み、一大帝国を築いたのが今から約四十年前。
『この世に神の国を造り上げる』という、この地方の宗教観に基づいた方針が臣の心も民の心も強くつかみ、今も発展をし続けている。
ただ、この宗教観に基づく施策は往々にして強引になりやすく、様々な軋轢も生んでいるという話だ。
そちらから逃げて来た者がちらほらフィスタへ流れ着くが、異口同音にそう言うのだから間違えなかろう。
山脈と砂漠を隔てたはるか東方の話、というだけであれば、ラクレイドにとって対岸の火事で済んだ。が、ルードラントーという名のこの帝国にとって『この世』とは、世界のすべてであるらしく、海へもにじりじりと版図を広げつつあることを知ったのが、故シラノール陛下の御代の終わり頃。
東南の島々に住む、国とも言えない海の民の集落はもちろん、海伝いに沿岸にある小国を飲み込み始めていることから、シラノール陛下は危機感を持った。
海軍が整備され、レーンとの同盟を強化する為に公爵の母君が王太子の側室としてラクレイドへいらっしゃったのもこの頃だ。
公爵は諾う。
「東部方面の憂慮については近年、かなり危機が高まっている。王妃様のお里であるデュクラすらここ十年ばかり、散発的ながらルードラントーからの侵攻に悩まされている。大きな声では言えないが……いつ屈してもおかしくないほどに」
デュクラは神山ラクレイに連なる山脈を隔てての隣国で、古くからの同盟国だ。
陸路より海路での往来が昔から盛んで、それぞれの国の港町では、ラクレイド人とデュクラ人が混じり合って仲良く暮らしていることも少なくない。もちろんフィスタもそうだ。
「君も知っている通り、私は何度もそれを宮廷に訴えたが、まともに取り合ってくれたのは陛下だけだった。でも、陛下が知って対策して下さるのなら何とかなると私は思っていた。自慢するまでもなく我が海軍は強い。少なくとも結束力の強さ、士気の高さでは大陸最強の誉れ高いラクレイドの騎馬部隊にも引けは取らない。私は海軍へ来る前に修業を兼ねて王国陸軍で半年ばかり、将軍代行を務めたことがある。その経験から言っても私は、海軍の実力が十分であることを把握している。しかし……その実力が活きるのは、あくまで陛下が御位にいらっしゃれば、だ」
エミルナールは息を呑んだ。公爵の言わんとした内容が稲妻のように閃く。
宮廷に集う者たちの多くは、いくら説明されても神山ラクレイを超えて外敵が攻めてくるという事態がピンとこない。
仮に攻めて来たとしても、かつて近隣諸国を平らげた大陸最強の騎馬部隊が殲滅してくれると、無邪気なまでに信じているらしい。
公爵の秘書官として各種の会議に臨んだ印象として、エミルナールもそう思う。
砂漠や山脈をわざわざ乗り越え、遠くの国が陸路で攻めてくるというのは現実的ではない。老人たちが安心しきっているのも、だから根拠がない訳ではないのだ。
しかし海路なら?
東南の海は季節を選べば穏やかで、陸路よりよほど早く移動できる。優れた造船技術さえあれば巨大な艦船を造れるし、実際ルードラントーにはそれだけの先進的な技術がある。
だが、その巨大な艦船に兵団や武器を積んで攻めてくるのだと説明をしても、やはり彼らはピンとこない。
『巨大な艦船』が現実感を持って把握できないし、『兵団や武器』も、銛をかついだ船乗り風情に何が出来るという認識で絵空事のようにしかとらえてくれないのだ(まあ、ここの部分は残念ながら、公爵の日頃の態度が悪影響を及ぼしていると言えなくもないだろう。瘋癲閣下が何やらひとりで騒いでると、特に年寄り連中は思っているに違いない)。
しかし陛下がいらっしゃれば、頭の固いジジイどもがどう言おうと必要な場合には必要な対策が取られ、海軍も心置きなく戦えるだろう。しかし。
「君にも大体見えているだろうが。フィオリーナ殿下が御位に就かれる場合、後見人はおそらく王太后のカタリーナ陛下だ。かの方はご聡明で私情に捉われず公正な判断の出来る方だが、軍事に明るい訳ではないし、お里であるリュクサレイノを無視することはなさらないだろうし、出来ないだろう。リュクサレイノを説得しているうちに事態はどんどん悪くなり、最悪の場合、海軍は無意味な捨て駒になるだろうな」
エミルナールは血の気が引いた。
そんな大袈裟な、とはとても言えなかった。
そもそも、リュクサレイノを始めとする宮廷の保守派にとって、海軍などお荷物の予算食い、という認識から脱し切れていない者が多い。もっとはっきり言うのなら、不要と考えている者も少なくないだろう。
保守派の首魁で王太后の父君である老リュクサレイノは、最も過激な海軍不要論者のひとりといえる。
凝り固まったその意識が否応なく変わる時、果たして海軍はまともに残っているだろうか?……おそらく残っていまい。
海軍が壊滅し、ルードラントーに上陸されてしまった後のことは、正直考えたくもない。
公爵は安楽椅子に寄り掛かり、鋭く目をすがめる。
「我がラクレイドの陸軍、特に騎馬部隊は強い。大陸一の誉れに相応しかろう。だがそれは、相手が騎馬や歩兵なら……だ。彼等は確かに強い。そして騎馬部隊の戦士たちは非常に潔い、いかにも武人らしい気持ちのいい男たちがそろっている。しかし戦に勝つということがどういうことなのか、彼等は忘れかけているんだ。時には己れの信条や美学に反しても勝つための行動を取らなくてはならないのだが、彼等には受け入れがたいだろうな。……少なくとも、黒髪の将軍を受け入れられない程度には」
公爵の言葉にふと、苦さが混じる。
ルードラントーの軍は火薬を巧みに使った戦法を得意とする、という情報を得たのは十年ほど前。そこで、王より陸軍将軍代行を仰せつかった公爵……当時は王子殿下が、まず試験的に火薬専門で戦う歩兵部隊を作った。
しかし『火薬のような卑怯な手を使う部隊の存在など、誇り高いラクレイドの陸軍では認められない』という強硬な反発を招き、結局元々将軍を務めていたライオナール殿下が戻って場を収めるまで紛糾した、とか。
『黒髪の将軍などいらない』は、その紛糾の最中に誰かが勢いに任せて言った暴言として知られている。咄嗟に口をついて出たその暴言は、要するにむき出しの本音だった為、囁き声ながら広く遠くへ伝わって知られるようになった。
当時から時間も処も遠く離れた、エミルナールの耳へまで届いたくらいには。
公爵は続ける。
「しかし、誇りや美学だけできっちり組織された火薬部隊の敵をかわすのは無理なのだ。誇りも美学も大事だ、だが形にだけ捉われた誇りや美学は害にしかならない。……今のラクレイド全体に言えることだろうが。我々が壊滅させられた後、ラクレイドの誇りである騎馬部隊が敵に蹂躙されてしまったら。この国は、我々の知る美しく平和な森の国ではなくなる。根こそぎ誇りを奪われたこの国は、ルードラの神の国を作る為の奴隷に堕す。ルードラントーに飲み込まれた国々の実情がそうであるように」
淡々と語る公爵の声を、エミルナールは瞬きひとつ出来ずに聞いていた。
彼は決して大袈裟な法螺をふいているのではない。
ごく冷静な、冷たすぎるほど冷静な予想を述べているのに過ぎない。
突然公爵は遠くに目を据え、ふっ、と不敵に笑んだ。
思わず背が冷えた。
何度も見た訳ではないが、彼が本気で腹を立てた時に浮かべる笑みとそれは似ていた。
「黒髪の将軍を受け入れられない以上に、黒髪の王など受け入れられないだろう、この国の宮廷は。それでも私は王にならなくてはならないし、受け入れてもらわなくてはならない。私の知る、私の生まれ育ったラクレイドがラクレイドであり続ける為に。ただそれを成し遂げようとする王が、黒髪に紫の瞳などというラクレイドの王にあるまじき姿をしているというのは、まったく何と言う皮肉なのだ。ラクレイアーンは意地がお悪い」
独り言のようにそう言うと、公爵はひたっとエミルナールと目を合わせた。
「エミルナール・コーリン。これは命令ではなく、あくまでも私からのお願いだ。君の力を、貸してほしい」
「え?」
唐突な言葉に、エミルナールは戸惑う。公爵の菫色の瞳はいつになく真面目だった。
「話した通りだ、状況はお世辞にもいいとは言えない。それでも私はこの無謀な将棋を指す。私に味方は少ない、しかし皆無でもない。だが勝機は十のうち三と考えても多いくらいという、お話にならない状況だ。もし、君が私と行動を共にすれば修羅の道を歩くことになるだろう。当然命の保証はない」
思わずエミルナールは唾を呑んだ。
「それでも私は、出来れば君に力を貸してほしいと思っている。君は、王宮官吏登用試験を十八で首席で通るほどの秀才だが、決してお勉強が出来るだけの馬鹿ではない。私の下らない遊びに付き合いつつ、きちんと仕事をこなす卓越した実務能力を備えている。思いがけないことが起こっても腐らず、対処する努力を常に忘れなかった。基本的には非常にまともな常識人なのに、常識以外を頭から排除して否定するようなことはしない。君のように賢く、そして柔軟な対応が自然と出来る秘書官は、おそらくどこを探してもいないだろう」
羅列される褒め言葉に、エミルナールはさらに戸惑い、混乱した。
「しかし君の人生だ、最後は君が決めるべきだ。この先のラクレイドは、おそらくどこにいても修羅だろう。私と行動を共にしなくても生きにくいかもしれない。でも、どこで誰と修羅に巻き込まれるのか、それは君自身が決めるべきことだ」
その瞬間エミルナールの中で、ふざけてばかりいたくせ者の海軍将軍と王に忠誠を誓っていた厳しい表情の王弟殿下が、ぴたっと矛盾なく重なった。
エミルナールは静かに椅子から立ち上がり、片膝をついて床に座ると頭を深く下げた。驚いている公爵へ、彼は口上を述べる。
「アイオール・デュ・ラクレイノ・レライアーノ公爵閣下。私エミルナール・コーリンは王命により、あなたの秘書官を務めさせていただくこととなりました。以後私はあなたに従い、あなたの手足となることをここに誓います」
「……コーリン?」
怪訝そうな公爵と、エミルナールは視線を合わせる。
「閣下。閣下は私が着任した日、誓いの言葉は本当に誓いたくなってからでいい、そうおっしゃいましたね?」
公爵は苦笑いをした。
「ああ。確かに。よく覚えているな」
「今……誓わせていただいてもよろしいでしょうか?」
公爵は大きく目を見張った後、とても柔らかい笑みを浮かべた。
「お立ちなさい。その誓いを忘れず、務めに精進するように」
誓いを受けた主の紋切りの返事だ。エミルナールは静かに立ち上がった。




