第七章 かの方は……③
日暮れ前に、船は予定通りフィスタに着いた。
フィスタ砦に入る。
石造りの重厚な壁。
その内側に、実用を重視した素っ気ない建物が幾つもある。
兵舎を始めとした海軍の施設だ。
「お二方はまず、私の私邸の方でお寛ぎいただきます。むさくるしい家ですが、他にご婦人に落ち着いて過ごしていただけそうなところがありませんので」
フィスタに着いた途端、レライアーノ公爵は海軍将軍の顔になった。
表情が引き締まり、威圧感にも似た覇気が彼から醸し出される。
明け方の甲板で潮風に吹かれてぼんやりしていた、病んだ怪我人はどこにもいない。
フィオリーナと母は、唐突に覇気をまとったレライアーノ公爵の強い目に気圧され、無言で諾った。
が、やはり気になったので、フィオリーナはおずおずと問うてみた。
「あの。アイオール叔父さまは、この後……」
フィオリーナの問いの意味がわかったのだろう、レライアーノ公爵は苦く笑う。
「休みたいのは山々ですしそうするべきでしょう。ですがそうもいきません。私のいない間にこちらで何があったのかを確認したいですし、最低限指示しなくてはならないこともありますので」
それはそうだろう、彼は海軍の最高責任者だ。
でも……重傷ではないらしいが怪我をしているし、意識を失うほど心身が疲れているのも確かだ。仕事より、身体を休める方がよほど大事だろう。
「……出来るだけ早く、お身体を休めて下さいませ」
しかし、フィオリーナに言えるのはそこまでだ。
敷地の一番奥にある、小さめの建物が領主の館だ。
中流貴族の別邸程度のこじんまりした館だ。
フィオリーナは母と一緒に簡素な馬車で案内される。
「話は伺っております。十分なおもてなしが出来るか心許ありませんが、どうぞごゆっくりなさって下さい。出来得る限り務めさせていただきます」
実直そうな初老の執事が出迎えてくれた。
部屋に案内されながら、湯浴みの用意が出来ておりますが如何なさいますかと訊かれたので、入浴させてもらう。
冬場なのであまり汗はかかないが、ほぼ丸一日船に乗っていたので髪も身体も潮でべたついている。
入浴を済ませ、新しい服に着替える。
例の『海蛇屋』の本店がこちらにあるとかで、二人の為に下着から外套まで幾つか用意してくれたらしい。
こちらの小金持ちの家の奥さんや娘が好む衣料品のうち、喪中の二人が着ても違和感のない、地味で品の良いものを選んでくれたようだ。
フィオリーナは白いネル地に黒い繻子のリボンが控えめに飾られたワンピース、母は濃い灰色の地に控えめに同色のレースがあしらわれたものを選んだ。
既製品にしては縫製がしっかりしていて、着心地も悪くない。
新しい服を着て鏡の前に立ってみた。
デュクラから脱出したのだ、と、フィオリーナはようやく実感出来た。
レライアーノ公爵が領主邸へ戻って来たのは夜。
フィオリーナたちが胃腸に優しい軽めの夕食を済ませ、しばらく経った頃だった。
遅いとは言えなかったが、すでに宵とは言えない時間だ。
海軍将校の制服を着た者たちに、抱えられるようにして彼は帰って来た。
顔色が悪く、ぐったり目を閉じていた。
「ご心配には及びませんよ」
どことなく違和感のある発音のラクレイド語で、突然後ろから呼びかけられた。振り返り、フィオリーナは大袈裟でなく息を呑んだ。
青みがかった黒髪を武官のように刈った男だった。
彫の深い褐色の肌で、黒い大きな瞳が印象的だ。
(え?ルードラントー人?)
デュクラ王家の別荘でチラホラ見かけた、ルードラントー人の特徴を色濃く持った男だった。
初老に差し掛かろうかという年齢で、白い医官の仕事着を身に着けていた。
彼はくりくりした大きな目でほほ笑む。
顔立ちはいかついくらいだったが、笑うと何とも言えない愛嬌があった。
「突然声をかけて失礼をいたしました」
そう詫びて彼は頭を下げる。
「王女殿下でいらっしゃいますか?お初にお目にかかります。私は医官長を務めるラン・グダと申します。実は閣下から殿下方の健康診断を命じられております。船医のリュアンから、殿下方の健康状態に問題はなさそうだとの報告は聞いておりますが、念の為、明日にでも殿下方の診察を行いたいと思っております。どうぞよろしくお願い致します」
フィオリーナは姿勢を正し、ほほ笑んで応えた。
「はじめまして。フィオリーナと申します。叔父共々わたくしたちもお世話になるのですね、よろしくお願い致します」
ラン・グダ医官長は一瞬だったが、驚いたような表情をした。
「あの、わたくし、何か失礼を致しましたか?」
意外な表情をされたので、フィオリーナは問うてみた。
「あ、いえその」
彼はややばつの悪そうな顔になった。
「ラクレイドの貴人は黒い髪を嫌うらしい、という噂を聞いておりましたので、殿下は私を嫌悪なさるのではと身構えておりました。それでなくとも私はルードラントー人、今でこそこちらの皆さんと打ち解けていますが、最初の頃は警戒されましたし……」
すぐ私を受け入れて下さると思っていませんでしたので、と、恥かしそうに彼は笑った。
フィオリーナも曖昧に笑って彼への応えとした。
ラン・グダ医官長が何気なく言った『ラクレイドの貴人は黒い髪を嫌うらしい』という思いもよらない一言が、深く胸に刺さった。




