第七章 かの方は……②
白葡萄酒の湯割りを半分ほど飲んだところで、フィオリーナは急激に眠くなってきた。
身体が温まったせいかもしれない。
トルーノに送られ、船室へ戻ることにした。
心配して迎えに来た母と途中で会い、寝台に横になったのまでは覚えている。が、そこから先は記憶がない。
そして今。
明かり取りの小さな窓から、明け方の青い光が差し込んでいるのにフィオリーナは気付く。ゆっくりと身を起こした。
身体がふわふわと揺れ、頭もふわふわしているような気分だった。髪を撫ぜつけ、簡単に身づくろいをし、静かに扉を開けて外へ出る。
何かを考えての行動ではない、ただ新鮮な空気が吸いたかった。
母はまだ眠っているらしい。
甲板に出る。
重みのある潮風に、思わずよろめいた。
舳先に切り裂かれた波が、細かいしぶきになってフィオリーナへ降りかかる。
『私のお務めの場は海です』
かつてアイオール叔父さまから聞いた言葉だ。
『海の水は真水ではありません、塩水ですから、当然吹く風にも塩が混ざってしまいます。長い髪では潮風でべたべたに……』
あの時の彼の言葉が実感としてわかる。
風に踊る髪はいつになく重く、顔にかかる後れ毛は潮のにおいがした。
「早起きですね、フィオリーナ姫」
少し離れたところから呼びかけられ、驚いてそちらを向く。
「叔父さま!」
左腕を包帯で吊った痛々しい姿のレライアーノ公爵だった。
明け方の儚い光の中、マストにもたれるようにして彼は立っていた。
「叔父さま、お怪我をなさって……」
早足で近付き、そう言いかけて絶句する。
朝の光に曝け出された、むごいほど痩せた身体に青白くこけた頬。彼が健康でないのは一瞥でわかる。
生きてここに立っていることすら自覚していないような、生気のない瞳だ。
だるそうなその立ち姿は、左腕以外にも身体のどこかを傷めているのではないかと見ているこちらが不安になる、病んだ雰囲気があった。
彼は、絶句して凍りついたようなフィオリーナの様子に気付くと、大丈夫だと言いたげにほほ笑み、首を振った。
「ご心配には及びませんよ、姫。腕を吊っているので大袈裟に見えますが、傷自体はそれほどでもないのです。ただ、かすり傷でも傷は傷ですから、熱が少し出ていまして。ずっと横になっているのも暑くて寝苦しいので、こうして外へ出て涼んでいるのですよ」
疲れたような静かな声で彼は言った。
今の彼は、フィオリーナが物心ついた頃から知っている優しい『アイオール叔父さま』でも、何を考えているのかよくわからない『レライアーノ公爵』でもない気がした。
もちろん『楽士のエミュ』でもない。
上手く言えないが、彼の芯というか素の部分が、取り繕われずに表に出ているように感じられた。あえてそうしているのではなく、おそらく取り繕う気力もないのだろう。
『ご自身のお身体やお心も病んでしまわれるほどでした』
昨夜のトルーノの言葉が、すさまじい現実感を伴ってよみがえる。
「叔父、さま……」
呼びかけた途端、フィオリーナの目から何故か涙がふき出した。
涙を見た途端、彼の気配が変わった。
表情らしい表情のない顔が一瞬で人の親の顔になり、菫色の瞳が苦しそうに暗く陰った。
「フィオリーナ姫。殿下」
呼びかけた声は若干震えていた。
「申し訳ありません。しなくてもいい恐ろしい思いを、それも長くなさいましたね。あなた方が拉致されるなど、防衛を担う責任者のひとりとして深くお詫び申し上げます。あなた方を奪還するのも思いの外時間がかかってしまい、忸怩たるものがございます」
姿勢を正し、彼は深く頭を下げた。
「お許し下さいとは申しません。ただ……お詫び申し上げます」
フィオリーナはかぶりを振る。
(違う、違うんです)
彼はフィオリーナが、恐ろしい虜囚の暮らしから解放されて気が抜け、泣き出したと思っているのかもしれない。
そういう気分もない訳ではないが、だから泣いた訳ではない。
『かの方は潮騒のごとし
潮と共に吹き抜ける 南洋の熱き風』
『レライアーノ公爵を称える歌』の歌詞が、不意に頭の中で響く。
ひと気のない明け方の甲板に、彼と、吹きすさぶ潮風の中にいるせいだろうか?
(……アイオール叔父さま。あなたは何故こんな無茶をするのですか?いくら私たちがデュクラの陰謀で攫われたからって、ご自身が命を張ってまで現場へ乗り込んでこられる必要が、本当にあったのですか?まだ十代だった叔父さまが瞬くうちに海軍の人心を掌握なさったのは、ご自身が兵たちと共に汗を流して行動したからだという話は、おとうさまから聞きました。でも……病んで傷付いてボロボロになって、それでもなお最前線に御身をさらすなんて、まるで自傷のようです……)
声を殺すようにしてしゃくりあげ続けるフィオリーナに、レライアーノ公爵は頭を上げ、少し困ったように眉を寄せた。
しばらくためらった後、笑みを作って彼は一歩、こちらへ近付いた。そして自由になる方の手で、フィオリーナの頭を軽くポンポンと触れた。
「お辛かったでしょう。もう大丈夫ですよ、順調に進めば日が暮れる頃にはフィスタに着きますから」
乾いた大きなてのひらの感触は、在りし日の父を思わせる。
涙が止まらなかった。




