第七章 かの方は……①
レライアーノ公爵とクシュタンが戻って来たのは、夜も更けた頃だった。
船に乗せられるとフィオリーナたちは、まず船医に簡単な問診をされた。
その後、木の実やドライフルーツをたっぷり入れて焼きしめた菓子一切れに、白湯を添えて供された。
甘いものを口にするとようやく少し落ち着いた。
軽食の後、フィオリーナと母は船室へと案内された。
簡易的な寝台が用意されていたので、とりあえず横になる。
上手くゆけば明日中にフィスタに着くだろうと、商人の扮装をした海兵に告げられていた。
横になってフィオリーナは、眠っているようなそうでないような曖昧な感じで、船にぶつかる波の音を聞くともなく聞いた。
目を閉じ、身体から力を抜く。
波の音と連動して、身体がゆるやかにゆさぶられる。
母親のおなかでまどろむ胎児はこんな感じなのだろうか、と、ふと思う。
現実感が薄い。
本当はデュクラ王家の別荘に囚われたままで、救われた夢を見ているだけなのではないか、と、だしぬけに不安になって目を開けた。
見慣れない、狭い船室の壁や天井を見て少しほっとする。
「眠れないの?」
母の問いに、フィオリーナは苦笑いを含んで諾った。
「展開が早すぎて、心がついてゆかないわよね」
母も苦笑い含みにそう言って寝返りを打った。
それでもうつらうつらしていたのだろうか。
船室の外のざわめきにはっとする。
慌てて半身を起こした。
やはりうとうとしていたらしい母が頭を上げ、何か言ったが、フィオリーナは無視して寝台から降り、飛び出した。
寒風の吹く甲板に、灯りを持った特殊部隊の海兵たちが集まっている。
おそるおそる人垣の隙間から覗き込むと、目を閉じてぐったりと横たわっている細身の青年がいて、船医が厳しい顔で彼を診察している。
「フィオリーナ殿下」
聞き覚えのある声で呼ばれたような気がして、フィオリーナは辺りを見回す。
沢山の灯りがあるお陰で、声の主はすぐわかった。
明るめの褐色の髪を短く刈った青い瞳の男性だ。
すらりとした立ち姿で、どこかで見たような気がする人だったが、誰だかわからなかった。
「甲板は暗いし危険ですよ。船室へ戻りましょう」
さっき聞いた聞き覚えのある声で彼は言った。
(え?)
「もしかして……トルーノ?トルーノなの?」
彼は目許だけで優しく笑った。
「ええ。お久しぶりです。まさか再びお会いする機会があるとは」
「髪、を……」
思わず指さしてフィオリーナが言いかけると、ああ、と思い出したように彼は自分の頭を触った。
「ええ、切りました。でも切ってからずいぶん経ちますから、こっちの方に慣れてしまいましたね。伸ばしていた頃のことが、ずいぶん昔のような気が致します」
トルーノは何の気なしにそう言ったのだろうが、何気ないからこそフィオリーナの胸に堪えた。
彼にとって父の護衛官をしていた頃のことが完全に過去なのだと思い知らされ、なんだか泣きたくなった。
「さあ」
促され、フィオリーナは甲板から離れる。
「叔父君さまがご心配ですか?」
問われ、後先考えずに飛び出してきた理由をフィオリーナは思い出した。
一見しただけではわからなかったが、甲板で死人のように横たわっていたあの人は、確かにレライアーノ公爵だった。
「ええ」
言葉少なく答えると、トルーノは少し考え、厨房らしいところへフィオリーナを導く。
「甲板は寒かったでしょう。気の利いたものなどないでしょうが、何かあたたかいものくらいはご用意できるでしょうから」
フィオリーナを座らせ、トルーノは勝手知った様子できびきびとお湯を沸かし始める。
「叔父君さまは大丈夫ですよ、殿下。少し怪我をなさいましたが、こちらへ向かう小舟の中ですでに血は止まっていましたし、甲板に上がるまではしっかりしていらっしゃいました。緊張続きでいらっしゃいましたから、気が抜けた途端、倒れてしまわれたのでしょう。この船の船医は優秀な方ですから、お任せして大丈夫です」
言いながら彼は、湯気の上がる大きなカップを盆に乗せ、差し出す。
礼を言って受け取り、そろそろと口を近付けた。
白葡萄酒が少し入っているのだろう、甘酸っぱい香りがふっと鼻先にかすめた。
沸かし立てのお湯で作った葡萄酒の湯割りは、舌を焼くほど熱かった。
「お辛い思いをなさいましたね」
しみじみと言われ、フィオリーナは息を呑んで硬直した。
『辛い』と思ったことはなかったが、ずうっと気を張っていたことを改めて自覚した。
これまでのあれこれが、何故か一気によみがえってきた。
急にカタカタと小刻みに身体が震え始め、自分でも驚いた。
失礼いたします、とトルーノは断ると、震えているフィオリーナの背をゆっくり撫ぜた。あたたかくて大きな手だ。
段々と呼吸が落ち着いてきて、身体の震えも止まってきた。
「叔父君さまはずっと、フィオリーナ殿下と殿下の母君さまの心配をなさっていました。心配が高じて、ご自身のお身体やお心も病んでしまわれるほどでした」
フィオリーナが落ち着いたのを確認し、トルーノは手を止めてわきへよけ、深い息をひとつついた。
「殿下方がデュクラ王家に狙われるであろうことは把握していましたが、相手がどう出るかは未知数ですから。どう出ても素早く対応できるよう、デュクラ国内に潜むまでは計画出来ましたが、それ以降は出たとこ勝負です。どう転ぶか予断を許さず、叔父君さまの護衛をしているだけの私でさえ、神経が参りそうでした」
彼はかすかに苦笑いしたが、すぐ頬を引いた。
「叔父君さまはもっと神経をすり減らしていらっしゃいました。デュクラ王家そのものが、本気でラクレイドにペテンをしかけてくる訳ですから、未然に防ぐのにも限界があります。殿下方がこちらへさらわれる事態は、出来れば避けたかったのですが。我々の力の無さを改めてお詫び申し上げます」
父のそばにいる頃のクシュタン護衛官の顔で、トルーノは言って頭を下げた。頭を上げて下さい、と、フィオリーナは声をかけた。
「何はともあれデュクラの虜囚でなくなったのですもの。……感謝しています」
形通りのねぎらいの言葉へ、本気の感謝を込めてフィオリーナは笑んだ。




