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第六章 誰そ誰そ 吾を呼ぶは(たそたそ あをよぶは)⑫

 客殿は騒然としていた。


 騒然としていた、筈だ。

 客殿の扉を開けた途端、意味をなさないあらゆる声がわんわん響いていたのだから。


 しかしルイには関係ない。

 せわしなく行きかう護衛兵の様子も時折響く高い声も、風に踊る梢のさまや地響きにも似た海鳴りと、ルイにとってはどこも違わなかった。

 彼は二階へ上がる。

 客人たちが使っていた居間は扉が開け放たれたままで、がらんとした室内にはランタンの光だけが虚しく灯っていた。

「叔母さま。おねえさま……」

 呼んでも応えはない。

 わかっていたが、呼ばずにはいられなかった。

「叔母さま。おねえさま!」

 やはり開け放たれたままのバルコニーから、時折、冷たい風が吹き込んでくる。

 無造作に寄せられたカーテンが、力なく風にゆれた。

「お……」

 呼ぼうとして彼は口を閉ざす。


 壁際にある、小抽斗のたくさんついた箪笥の上。

 主にフィオリーナが使っていた竪琴が、立てかけるようにして置いてあった。

 自分でも気付かないうちにルイは、竪琴を手に居間の真中にある乱れたままの椅子に座っていた。

 ランタンの灯りを頼りに、彼は習ったばかりの和音を押さえる。

 ロォオン、と、心許なげに弦はゆれる。


「……誰そ誰そ 吾を呼ぶは」

 記憶を頼りに、覚えたばかりのラクレイドの古詩を口ずさむ。

「星の煌めき 銀の月影 山の彼方の遠雷や?

否や否 それは汝なり

高き峰より降り来る 黄金の毛並みは

孤高の神狼(ラア・ジン)……」



 ラクレイドの宮殿で、初めてフィオリーナと会った時。

 ルイは、コチコチになるくらい緊張していた。

 そもそもルイは、ラクレイドの王女と仲良くなって信じてもらい、最終的にはデュクラへ連れ去り、大人になったら結婚するようにと命じられていた。

 デュクラとラクレイドが、神の御園である『ルードラの王国』になる為にはそれが一番平和で確実、民が血を流すこともない素晴らしいやり方だと教えられていた。

「戦士ルイよ。これは王族に生まれたあなたにしか出来ない戦いだ。必ずやラクレイドの王女の心をつかみ、彼女にルードラの王国の素晴らしさを教え、成人後は妻に迎えなさい。これはあなたの、最初にして最重要の使命だ。神はいつもあなたを見守り、行く道を照らしていらっしゃる。臆せず進みたまえ」

 戦士の認証を行った時、『先生』から授かったルイの栄えある『最初の使命』がそれだ。


 使命の為に彼は、ラクレイド語やラクレイドのしきたりを学び、護身の意味だけでなく毒針の使い方を習った。

 そのすべての努力が実を結ぶか否かが決まる瞬間が、彼女との対面だ。

 ラクレイドの王女は明るく朗らかだが気が強く、気難しいところがあると聞かされていたので、ルイは余計緊張していた。

 少なくとも初対面で王女に嫌われる訳にはいかない。

 ルイは精一杯気を張って、ラクレイド語で挨拶をした。


 王女の立ち姿は美しかった。

 豪奢なまでの黄金色の豊かな髪は、太い三つ編みにまとめられて胸元に垂らされ、黒いベルベットにレースの縁飾りが控えめにされただけの素っ気ない喪のドレスに映えていた。

 ややえらの張ったきりっとした顔立ちは、意志が強そうな印象を受ける。

 ラクレイドの王族らしい、利発そうなはしばみ色の瞳が真っ直ぐルイを見つめていた。

 彼女は一瞬、何かを考えるように小首を傾げ、笑みを作った後

「よろしければデュクラ語で話して下さいませ」

 と、正確無比な発音のデュクラ語を話した時の衝撃は、今でも忘れられない。

 大陸で一番の歴史を誇る大国・ラクレイドの王女が、母君の祖国とはいえ外国の言葉を、それもここまできっちり話せるなど予想すらしていなかった。

 ラクレイド人は誇り高く、ラクレイド語以外で話しかけても答えてくれないという話を、ルイは嫌というほど周りの者から聞かされていたからだ。

 フィオリーナ王女は対面の最後、にっこりと笑ってデュクラ語でこう言った。

「わたしたちは従姉弟なんですもの、かしこまりすぎるのも窮屈ね。……はじめまして、ルイ。これからよろしくね」

 笑うと、きつそうな印象が嘘のように彼女から消えた。

 胸の真中が射抜かれたような、生まれて初めての衝撃にルイはうわずる。

 こちらこそよろしくお願いします、とだけは何とか言えた。

 その後すぐ衝動的に、おねえさまと呼んでもいいかと図々しいお願いを何故したのかは、ルイ自身も未だによくわからない。


「誰そ誰そ 吾を呼ぶは」


 ただひとつしか知らない和音を鳴らし、ルイは歌う。


草原(くさ)のざわめき 小川(みず)のせせらぎ 匂いやさしき春風や?

否や否 それは汝なり

若菜摘みする甘き歌声 瞳あかるき

麗しの乙女」


(……おねえさま)

 彼女も叔母も、決して本気にしてくれなかったが。

 ルイは、真面目にフィオリーナが好きだった。

 これが大人たちがいう恋なのかどうか、初めての感情だからよくわからない。

 が、将来彼女と結婚するという使命を、ルイは心の底から神に感謝していた。


 自分が立派な大人の男になれば、きっとフィオリーナも自分を好きになってくれるだろう。

 彼女をこちらへ連れて来る時、痛い思いや怖い思いをさせてしまったのだから、今すぐ好きになってくれと言っても無理だ。

 でも、ルイとフィオリーナはデュクラとラクレイドが神の御園へなる為の礎。そうなる、運命の二人なのだ。

 時間さえかければきっと彼女も、ルイの気持ちを受け入れてくれるだろう。そう思っていた。


「否や否 それは……」


 視界が歪み、弦を押さえる指がずれた。


「汝、のみ」



 はたり。

 かすかな音。

 竪琴がひとしずくだけ、濡れた。

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― 新着の感想 ―
なんだかルイも可哀そうですね ><。
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