第六章 誰そ誰そ 吾を呼ぶは(たそたそ あをよぶは)⑪
悲鳴を上げる暇もなかった。
宙を舞った次の瞬間、フィオリーナは太い腕にがしりと抱き留められていた。
「乱暴で申し訳ありませんね、殿下。なにせ我が海軍は、騎士道精神から遠いがさつ者ばかりでして」
飄々とした口調でそう言いながらも、フィオリーナを抱き留めた者はそっと下へ降ろしてくれた。
どうやら荷車の上に、寝台へ敷くマットを数枚敷いているようだ。なんだか力が抜けてしまい、フィオリーナはそのまま倒れ込んでしまった。
続いて母も落ちてきた。最後にレライアーノ公爵自身が飛び降りてきた。
レライアーノ公爵が来たのが確認されると、待ち構えていたように手際よく、荷車に幌布がかぶせられて動き出す。
「このまま敷地を抜けられればいいのですがね、まあ無理でしょうな」
フィオリーナと母を抱き留めた壮年の屈強な男が、苦い顔でつぶやいた。
「蹄の音が聞こえる。おそらくあちらの手の者だな」
幌布の隙間から覗いていたレライアーノ公爵が言った。
「『毒師』のアンリとその周辺に、穏やかな眠り薬は効きませんかね?」
「というより、薬の効く効かないは個人差も大きいからな、あれはそう強い薬でもない。第一、あの用心棒殿の差し入れを素直に飲み食いする者ばかりでもなかろうしな。まあ、アンリ・ドゥ・チュラタンに関して言うのなら、毒や薬への耐性は高かろうが……来るぞ!殿下方を守れ!」
叫び、レライアーノ公爵は荷車から飛び降りる。
受け身を取って転がる彼の背中がちらっと見えた。
「叔父さま!」
思わず身を乗り出そうとしたフィオリーナを、先程の男が押し止める。
「大丈夫ですよ、王女殿下。叔父君さまはお強いですから」
「で、でも」
フィオリーナはおろおろと男の顔を見上げる。
男は浅黒い顔をほころばせる。薄暗い中でもこぼれる白い歯が光る。
「大丈夫です。叔父君さまには最強の護衛がついています。『赤銅のクシュタン』……ご存知ですよね?姫殿下のお父上の正護衛官だった男。彼がそばに張り付いているんです。その辺の有象無象など、問題外ですよ」
やがて荷車は敷地を抜け出た。
とある路地の前に静かに止まると、フィオリーナと母は『海蛇屋』だと名乗った壮年の男に連れられ、中流以上の商人が乗るような馬車へと素早く案内された。
「荷車は商店街にあるうちの支店へ戻りますが、我々は港へ向かい、船に乗ります」
フィオリーナと母が乗り込み次第錨を上げると聞き、フィオリーナは焦った。
「待って。それじゃあ叔父さま……レライアーノ公爵はどうなるの?ラルーナに置き去りなの?」
もちろん、そうだとしてもそれなりの手はずは整えて事を起こしているだろうから、フィオリーナが気にかけても仕方がないのかもしれない。
が、自分たちだけでラクレイドへ戻るのは何かが違う気がした。
海蛇屋が少し困ったような顔をした。
「閣下を始め、あちらに残った者の務めは我々にかかる追っ手の邪魔をすること、追っ手を出すよう命じる者の口を一定の時間、広い意味でふさぐことです。その時間さえ稼げれば長居は無用ですから、彼らは小舟で追って来る予定になっています。小舟に乗り込めるのは、我々の出航から一時間ほど後になるでしょう。沖へ出たら念の為、夜半過ぎまで彼らを待つことに決めています。ただ……」
海蛇屋は本気で困った顔をした。
「レライアーノ公爵閣下は将軍でいらっしゃるのですから、殿下方と撤退して下さいと進言したのですが。閣下とクシュタン以上に陸で、実践的な意味で戦える者はいないではないかとおっしゃって。事実ですから黙るしかありませんでした。結局しんがりをお任せする羽目になったのです」
不甲斐ない話で申し訳ありません、と、海蛇屋は頭を深く下げた。
港に着く。
フィオリーナたちが船に乗るや否や、出航した。
夜が更けた頃、ルイはふと目が覚めた。
今日の午後以来、頭の中で竪琴の音色と歌がくり返し響いている。
音楽ってすごい、ルイは心の底からそう思った。
こんな目覚ましい衝撃・感動は生まれて初めてだった。
尊敬する『先生』(ルードラ教では指導者をそう呼ぶ)に、史上最年少の戦士に栄光あれと寿がれた時も感動したが、あれはこれからの使命の重さに震え、緊張の方が強かった。
心が高ぶって眠れないのではないかと思っていたが、寝台に入った途端に眠り込んでしまった。初めて聴いた玄人の演奏で受けた衝撃に、どうやら彼は思っていた以上に疲れていたらしい。
何故急に目が覚めたのかはわからない。
ただ、上手く言えないが、気配あるいは空気のようなものがいつもと違う気がした。
寝台の中でしばらくためらっていたが、ルードラの戦士たる者いつも誇り高く勇気ある行動を取るべし、という戒めを思い出し、起き上がって寝室の扉を開けた。
屋敷の中は静かだった。
いや……静かなのはルイのいる主殿だけだとすぐ気付く。
フィオリーナとアンジェリン叔母のいる客殿の方はいつになくざわめいているし、不穏な感じの声が響いている様子だった。
「殿下!」
世話役のばあやと護衛が急ぎ足で向こうからやって来た。
「どうしたの?何かあったの?」
いえその、とばあやは言いよどんだが、護衛はひとつ息をつき、思い切ったように言った。
「賊に入られました」
ルイは絶句して護衛を見上げる。
「しかし護衛兵や召使いの約半数が薬で眠らされているという手口から考えて、ただの賊ではないと思われます。ラクレイドの特殊部隊が、王女と王妃を奪還しに来たかと。事実、お二方は……」
最後まで聞かず、ルイは客殿へ走った。




