第六章 誰そ誰そ 吾を呼ぶは(たそたそ あをよぶは)⑩
「エミュに耳飾り……」
シッ、と鋭く制され、フィオリーナはあわてて口をつぐんだ。お茶で口を湿らせ、心を落ち着かせる。
「……どういうつもりでそんなことを?」
ささやき声で母に問う。咎めるような調子に、どうしてもなってしまう。
今日の夕食時、いつになくルイは興奮していた。
昼に聴いた楽士の演奏や歌に心から感動していて……ひそかに対抗意識も燃やしている様子だった。
「今から練習すれば、ぼくだって大人になる頃にはあれくらい、出来ますよね?」
何故かフィオリーナにルイは問う。
「ぼくがあの楽士くらいに竪琴や歌が上手になったら、おねえさまはぼくと『誰そ誰そ 吾を呼ぶは』を歌って下さいますか?」
「まあ。素敵ね、ルイ」
フィオリーナが答えるより早く、母が割って入る。
「その時は是非、叔母さまとも歌ってちょうだい。みんなで楽しく音楽会をやりましょう」
ルイは一瞬、鼻白んだように黙ったが、思い直したように笑みを作り、
「はい。ぼくでよろしければ」
と、当たり障りのない返事をした。
その後は、ラクレイドの童謡の話や、デュクラに伝わっている民話を歌にしたものがあるなどという話をとりとめなくして、和やかに夕食は終わった。
そして今。
宵闇の居間にランタンを灯し、母とフィオリーナはお茶を飲んでいる。
扉の外に例の侍女たちはいるが、取りあえず部屋の中は母娘だけだ。母は苦笑いをしながらカップを持つ。
「ラクレイドと関わりのある者と、わたくしが個人的につながりを持とうとしたら。『そういう仲』ということにした方が、説明が楽でしょう?」
「で、でも……」
芸人との色事に耽る有閑夫人の話は、フィオリーナの年齢になればチラホラ聞くこともある。
もちろん、なんて自堕落なのだろうと軽蔑していたが。
母はしかし、頬を引いて真面目な声音になる。
「フィオリーナ。あの楽士はただの楽士じゃないわよ。竪琴や歌が上手いという以上に、身のこなしに品があって優雅だし、なによりラクレイド語が素晴らしいわ。言い回しや発音におかしな癖はないし、決して雄弁ではなさそうなのに、必要なことは必要なだけなめらかに言葉が出てくる、そんな感じだったでしょう?何故こちらへ流れてきて辻楽士の真似事をしているのかわからないけど、彼は並み以上の教育と躾を受けた一流の楽士のはず。おまけに頭がいいわ」
フィオリーナは曖昧にうなずく。言われてみればそうかもしれない。
だから、と母は、春風らしからぬ笑みを片頬に浮かべる。
「彼に動いてもらおうと思うのよ。すべてじゃなくても事情を話し、手紙を託そうと思うの。彼につなぎを取った出入りの商人である海蛇屋と一緒に、まずはフィスタへ行ってもらいましょう。フィスタにある海軍基地にわたくしの手紙が届いたら、何らかの動きがあるはずよ。フィスタはレライアーノ公爵のお膝元。広い意味で言えば彼は政敵かもしれないけれど、あの方は身内に対する愛情や思い入れの深い方よ。わたくしはともかく、フィオリーナが囚われていると知れば、必ず彼は動くわ」
フィオリーナは冷め始めたお茶をゆっくり飲み干す。
「おかあさまの作戦はわかったわ」
でも、と言いかけて口ごもり、思い切って言う。
「エミュへの対価はどうなさるの?フィスタのレライアーノ公爵からいただけるようにすればいいのかもしれないけれど、前金に当たるものくらいは渡さないと。今の私たちには拉致されていた時に身に着けていた装身具くらいしか、渡せるものはないでしょう?でも、あの時は森遊びのつもりだったから、それなりの装身具しか身に着けていなかったわ」
フィオリーナはそっと、胸元のペンダントに触れる。
毎日のように身に着けていて、ほとんど着けている感覚すらなくなっているお気に入りのペンダントだ。
繊細な銀細工の長めの鎖の先にある、鈍色のバロックパール。
レライアーノ公爵が、大好きなアイオール叔父さまであっただけの頃に、彼からもらったものだ。
それなりに値打ちはあるだろうが、所詮は普段遣いの装身具、母が渡した耳飾りのもう片方と合わせたとしても大した金額にならない。
母の左手には金の結婚指輪があり、それを渡せば前金代わりには十分だろうが、結婚指輪を渡すなんてとんでもないし、そもそも裏面に名前が彫られているのだから、色々な意味で他人になど渡せない。
しかしこんな重大な秘密の使者役を務める者への謝礼としては、普段遣いの装身具だけではあまりにも少ないのではないかと、世間知らずのフィオリーナでさえ思ってしまう。
「場合によれば、エミュは対価としてその、おかあさまの、あの……」
口ごもるフィオリーナへ、母はあっさり言う。
「身体を要求する?考えにくいけど、可能性はないとも言えないわね。そもそも耳飾りを渡した時点で、そう誤解されても仕方がないのですもの。でも、そんな要求をするようなら彼に使者は頼めないから、もう片方の耳飾りを渡して丁重にお帰りいただくわ。時間がかかってしまうけど、海蛇屋の店主と直接知り合い、話を通す方法だってなくはないでしょうし……」
「なるほど。奥方様の一夜の恋の相手として求められた訳ではないのですね、私は。ひとりの男としてはいささか残念ですが、安堵いたしました。私は妻に、非公式ながら真面目に忠誠を誓っておりますので」
どこかに諧謔を含んだ、豊かな声が唐突に響いた。二人はぎょっとして辺りを見回す。
バルコニーのカーテンが揺れ、細身の男性が現れた。
耳の辺りまで中途半端に伸びた黒髪、赤地に銀の縁の仮面。
身体に沿って無駄なく作られた、あたたかそうで動きやすそうな、黒い毛織物の上下。
右腿にある剣帯には、使い込まれた様子の護身用ナイフ。
彼は優雅な身のこなしで右手を胸に当て、深く腰を折って一礼した。
「突然失礼を致します。本日はお屋敷に呼んで下さり、誠にありがとうございました。まさか商売をする日が来るとも思わず、役立たずの楽士として私は、ラルーナの片隅にくすぶっておりました。しかしながら思いの外、私の芸を喜んでいただけたご様子、駆け出しの楽士としては望外の幸せでありました。心よりお礼を申し上げます」
ニヤリ、と彼は笑んだ。
いたずらっ子のようなその笑み。
すさまじい既視感に、フィオリーナは思わず息を止める。
「またおいでなさいとの奥方様のお言葉を真に受け、早速夜這いに参りました……は冗談として」
彼は頬を引き、静かに仮面を外す。
「そろそろ屋敷の者に薬が効いてくる頃、『エミュ』の仮面はもう必要ありますまい。助けに参りました、我らの王女殿下、王妃殿下。つらい思いをなさったでしょう、お待たせを致してしまい、お詫び申し上げます」
顔を上げ、彼は真っ直ぐこちらを見る。
別人のように痩せていたが、その菫色の瞳、忘れる訳がない。
「アイオール……叔父さま?」
つぶやくフィオリーナへ、彼はうなずく。
「やはり……」
思わずのように母がつぶやく。
「まさかとは思いましたが。あまりにも陛下に似たその歌声、やはりあなただったのですね、レライアーノ公爵」
「今はともかく急ぎましょう」
レライアーノ公爵は言う。
「屋敷の中には幾人か、まだ動ける者もいるでしょう。見つかると厄介です。バルコニーのすぐ下に、海蛇屋の荷車を回してあります。彼らは私の直属の部下、粗野な連中ですが守るべきものを心得ていますからご安心下さい。早速降りましょう」
そう言って彼は、素早くフィオリーナを抱き寄せる。
「え、で、でも叔父さま。階段は部屋の外……」
もごもご言っているうちに彼はフィオリーナを抱き上げ、ためらいもなくバルコニーから投げ落とした。




