第六章 誰そ誰そ 吾を呼ぶは(たそたそ あをよぶは)⑨
どさり、という鈍い音。
それが、己れが地面に倒れた音だと自覚するかしないかのうちに、男は目の前が暗くなった。
次に目が開いた時、彼は見知らぬ家の中にいた。
板張りの床。飴色の鈍い光沢のテーブルに、数客の椅子。
豪華ではないが粗末でもない、そんな家であり調度品だ。
テーブルの上には見覚えのある逸品の竪琴が、無造作に置かれていた。
首を軽く巡らせると、見たこともない男が数人、そばにいる。
「気が付いたようだね」
冷ややかな声だ。男はかすみが晴れきっていない目で、そちらを見る。
耳を隠すほどの長さの黒髪に、闇が凝ったかのような菫色の瞳。
明かり取りから差す夕方の光を斜めに受けた、はっと息を呑むような鋭い雰囲気の男だった。
頬のこけた不健康そうなたたずまいでありながら、何故か『美しい』としか表現できない、若いような若くないような、不思議な存在感の男だった。
不意に彼の口許が動き、にいっとほほ笑みの形を刻む。
訳もなく背筋が冷えた。
「良かったねえ、用心棒殿。死んでいてもおかしくなかった状況だよ、噂で聞いてない?私……いや。『波止場のエミュ』にはとんでもなく強い恋人がいて、がっちり守っているって。ああ、王家の別荘がある山手の方までは、さすがに知られていないかな?」
「この男は湾岸近くの安い長屋に住んでいますよ」
聞いたような声が真後ろで言う。
振り向こうとして男は、椅子に座らされた状態できつく戒められているのに初めて気付く。
「噂話や町の情報にうとい男のようですね。別にかまわないのですが、こういう仕事をする者としてはどうなんでしょうな。酒場で麦酒を飲むか安い娼館で遊ぶか、それくらいしか興味のない男なのでしょう。二流の用心棒にはこういう男が多いですからね」
「に、二流だと!」
思わずかっとなる。
これでもこの辺りではちょっと知られている。二流呼ばわりは許せない。
「ああ三流か。失礼した」
鼻先で笑いながら後ろにいる男は言う。
「海蛇屋」
黒髪の男がたしなめるように声をかける。
「無意味な挑発はするな。時間がもったいない」
言い捨て、足音もなく黒髪の男は近付いてくる。猫を思わせるしなやかな身のこなしだ。
「楽士を消すことも込みの条件で雇われたのかい?物騒な雇用内容だね。正確にその内容を知ってるのは、雇い主のどの辺りまで?執事はもちろんだろうけど、護衛たちもそうなのかな?」
「し、知らねえよ。何の話……」
最後まで言えず、男は口を閉ざす。
頬へひたっと冷たいものが押し当てられた。よく見えないがナイフか何かだろう。全身の冷たい汗を自覚する。
闇が凝ったような彼の瞳に、感情らしい感情はない。ためらいも高ぶりもなく、淡々と人を殺す者の瞳だ。空唾を呑んだ。
もう一度、口許だけでにいっと黒髪の男はほほ笑んだ。
「殺されかけたんだから、聞く権利くらいあるだろう?」
「お、俺はあんたを殺そうなんてしてねえよ、第一初対面じゃねえか」
ああ、と彼は鼻を鳴らし、ナイフを下ろした。
テーブルに置かれていた竪琴を引き寄せると、ロォオン、と軽くつま弾いた。
「……誰そ誰そ 吾を呼ぶは」
乙女の吐息を思わせる、清らかな色気を感じさせる声。あっと小さく叫ぶ。
「あんた、まさか……」
「『波止場のエミュ』……今日の午後、ラクレイドからの賓客の為にとデュクラ王家の別荘へ呼ばれた、駆け出しの楽士だよ」
男はみたび、にいっとほほ笑んだ。
「私は例の奥方様に呼ばれている。夜這いをかけなくちゃならないんだ、知っているだろう?……協力してくれないかな?相手はデュクラ王家の賓客であるやんごとない未亡人だ、火遊びがばれたら一介の楽士なんか、さっきのように殺されかねないからね。もちろんただとは言わないよ、あちらが出した倍の金を支払おう」
頬に再び、冷たい刃を感じた。
「言っておくけど。きみに選択肢は多くない。協力して金をもらうか、拒んで今すぐ死ぬかだ」
用心棒は何度も唾を呑む。口の中がカラカラだ。
「あ、あんた一体、何者なんだよ」
ふふ、と黒髪の男は含み笑う。
「この世には知らない方が幸せなこともある……ついさっき、きみが教えてくれたじゃないか。詮索しない方がいい、そういうことだよ」




