第六章 誰そ誰そ 吾を呼ぶは(たそたそ あをよぶは)⑧
楽士は姿勢を正し、竪琴をかまえた。
『誰そ誰そ 吾を呼ぶは』の前奏が、彼の端正な竪琴で紡がれる。
「……誰そ誰そ 吾を呼ぶは」
男性の喉から出ているとも思えない、恥じらいを含んだ甘やかな声が歌う。『乙女』の部分の歌詞だからであろう。
「星の煌めき 銀の月影 山の彼方の遠雷や?
否や否 それは汝なり
高き峰より降り来る 黄金の毛並みは
孤高の神狼」
竪琴の音が高まる。
「誰そ誰そ 吾を呼ぶは」
底に力強さをひそめた深い声。『神狼』の歌だ。
「草原のざわめき 小川のせせらぎ 匂いやさしき春風や?
否や否 それは汝なり
若菜摘みする甘き歌声 瞳あかるき
麗しの乙女」
(……おとうさま!)
叫びそうになり、フィオリーナはあわててお茶を飲み、一緒に言葉も飲み込んだ。
楽士の歌声、特に『神狼』の歌は父を思わせる声だった。
父が冥府から抜け出し、楽士の姿になって歌っているような錯覚に陥る。
「……誰そ誰そ 吾を呼ぶは」
隣に座っている母が、曳かれるように『乙女』の部分を歌い始める。
楽士は一瞬、戸惑ったように肩をゆらした。が、軽く笑み、彼自身は『神狼』の部分を歌う。
「誰そ誰そ 吾を呼ぶは」
この歌は普通、こうして掛け合いで歌う。
「星の煌めき 銀の月影 山の彼方の遠雷や?」
「草原のざわめき 小川のせせらぎ 匂いやさしき春風や?」
「否や否 それは汝なり」
「否や否 それは汝なり」
二人の声が絡まる。
「否や否 それは……」
竪琴の音のさらなる高まり。
「汝、のみ」
刹那の沈黙。
そして拍手。
気付くと廊下にいる護衛や召使い、粗野な容貌の用心棒までが拍手をしていた。
母はハッとしたように辺りを見回し、次にうつむいて赤面した。
「奥方様」
楽士の声に母は顔を上げ、彼の方へ目をやる。
「奥方様の素晴らしい歌声に感動いたしました。私のような一介の卑しい楽士と歌っていただき、望外の幸せであります。たとえ明日死んだとしても、私は楽士として悔いはありません」
言って彼は深く頭を下げる。戸惑っていた母の瞳が、ふと陰る。
「頭を上げて下さい」
楽士へそう言うと彼女は、小さなため息をついた。
「……いいえ。いいえ、死ぬなどと言わないで下さいな。わたくしがはしたなくもあなたの歌へ割り込んだのは、あなたの歌声があまりにもへ……旦那さま、に、似ていたからなの」
母は泣き笑いのような表情で続ける。
「あの方はもう亡くなってしまったのだけど。あなたの歌声を聴いていると、旦那さまが生きてここにいらっしゃるような気がして……」
こらえきれなくなったように、母はハンカチで顔を覆う。
フィオリーナはあわてて席を立つと、母の背をゆっくり撫ぜた。
「……そうだったのですか」
楽士は神妙に姿勢を正し、再び頭を下げた。
「不用意なことを申しました、お許し下さいませ。お亡くなりになられたご主人様も、こんなに美しい奥方様やお嬢様を残して旅立たれたのです、さぞお心残りだったでしょう。心よりお悔やみを申し上げます」
母はハンカチを下ろしてかぶりを振った。
「いいえ。お陰で心が癒されました。機会があればまたおいでなさいな。……これはわたくしからの気持ちです」
そう言って母は、懐紙に包んだものを楽士へ差し出した。
お心遣いに感謝致します、と楽士は言い、母に近付くと膝を折り、懐紙に包んだ心付けを押し戴くようにして受け取った。
楽士は一緒に来た海蛇屋の荷車に乗り、屋敷を後にした。
倉庫街の近くで楽士は荷車から降ろしてもらう。しばらく歩き、路地へ入ったところで、彼は声をかけられた。
「楽士さん」
足を止め、振り向く。先程の屋敷にいた用心棒の男だった。
男は腕を組み、挑発するような感じに口許を歪め、顎をしゃくった。
「あんた、奥方様からおひねりを貰ったろう?」
楽士は仮面の下で目をしばたたいた。
「いただきましたが……それが何か?」
「ちょっと見せていただけませんかねえ」
「別にかまいませんが、理由を教えていただけませんか?」
男はぐっと眉を寄せた。
この楽士、屋敷に来た時は気の弱そうなへなちょこだったくせに、今はいやに落ち着き払っていやがる。なんとなくカチンときた。
声に凄味を利かせ、横柄に彼は言う。
「別にあんたのおひねりなんざ盗りゃあしねえよ。こっちは見せてくれって言ってるだけさ。理由なんざどうでもいいだろう、知らない方が幸せってことも、この世にはあるんだぜ?」
楽士は一瞬首を傾げて考えたが、素直に懐の隠しから懐紙に包まれた心付けを出した。
包みを開き、用心棒は軽く口笛を吹く。
「あんた、相当奥方様に気に入られたみてえだな。ほれ」
ぞんざいに突き返された懐紙の中には、さっきまで奥方が着けていたとおぼしき耳飾りの片割れがあった。
「値打ちものですね」
楽士が静かな声でそう言うと、男は下卑た感じに鼻で笑った。
「何をとぼけてやがる、色男め。歌を掛け合いで歌っていた時から、怪しいとは思っていたけどよ」
芸人への心付けとして渡されたものに、身に着けていた装身具が入っている場合には色っぽい意味がある。
『次に来る時はソチラも込みで』
という意味だ。
特に耳飾りにはその意味が強い。
二つで一そろいの耳飾りをいつまでも片割れにしないでくれ、つまり『出来るだけ早く来て欲しい』という意味になる。
男はにやにや笑う。
「あんたの声は亡くなった旦那にそっくりだそうだな。まだ若いのに旦那を亡くして、奥方様も寝苦しい夜を過ごしてるんだろうよ。その声で甘い睦言をささやいてくれってさ。……デュクラ王家の客だぜ、あんたもゴツイのを捕まえたよなあ」
すらり、というかすかな音と共に、男の腰に下げられた剣が抜き放たれた。
「いい夢見せてもらって良かったな。その夢を胸に、永遠におねんねしな」




