第六章 誰そ誰そ 吾を呼ぶは(たそたそ あをよぶは)⑦
その日の午後。
いつもお茶を飲みながら音楽を楽しんでいる居間に、フィオリーナ、母、ルイが並んで座る。
テーブルには茶菓が用意されている。
扉は開け放たれ、廊下には召使いの仕着せを着た護衛と用心棒の男がいる。
ひとりの楽士が案内されてきた。
直毛の、鬱陶しいような感じに肩まで伸びた栗色の髪。
顔の上半分を覆う、赤地に銀の縁飾りの派手な仮面。
痩せた身体を更に際立たせるような、ごわっとした厚地で作られた鈍色のケープ。その下にはあたたかそうな黒い毛織のシャツを着ているらしい。
(ラルーナの芸人の、古典的ないでたちをした楽士だって聞いていたけど……確かに古めかしいし、仮面以外は地味ね)
思いながらフィオリーナはまじまじと、こちらへ一礼をしただけで後は竪琴だけを見つめ、じれったいほど念入りに音合わせをしている楽士を眺めた。
なんとなく……この楽士とどこかで会ったような、そんな気がして仕方がなかった。
(いやあねえ。まるで運命の恋人に出会ったみたいじゃない)
そんなことをふと思い、意味もなくフィオリーナは赤くなる。
楽士は愛想も言わず、神経質そうに竪琴の弦を弾いていた。
くすんだ色合いの服から覗く彼の手は骨ばっていて、病的に白い。しかし指は意外なほど節くれだっていて、楽士というより武人を思わせた。
ようやく気に入るように音が合ったらしく、楽士は、こけた頬に柔らかな笑みを浮かべた。その刹那、強い既視感にフィオリーナはハッとした。
(この笑顔……)
見たことがある、絶対。しかし誰の笑顔なのかは、どうしても思い出せない。
「お待たせいたしました、皆さま。本日はお呼びいただき、感謝致しております」
楽士は竪琴を左わきに抱え、右手を胸元に置いて礼をした。くせの少ない綺麗なラクレイド語だった。
「私はエミュという名で商売を致しております、駆け出しの楽士であります。師匠である父に、ラルーナの方々の芸に対する真摯な思いを聞かされて育ちました。ラルーナへ来たからには、ラルーナの先達の皆さまの心意気に倣おうと思いました。ラクレイドの方々にはこの姿、奇異に思われますでしょうが、なにとぞご容赦下さいますようお願い申し上げます」
素っ気ないほど簡単な挨拶をすると楽士は、ロォオン、と、基本の音を鳴らした。『芯にはまった』と表現されるいい音だ。
「この世の憂さをひととき、忘れていただければ芸人としてこれに勝る喜びはございません。お楽しみいただけるよう、精一杯努めます。では……『かの方は月影のごとし』」
ラクレイドの慣習に従い、『ラクレイド王を称える歌』から演奏は始まった。『称える歌』の曲が竪琴でつま弾かれる。
「……かの方は月影のごとし」
挨拶の時の声はそれほどでもなかったのに、この楽士の歌声は艶があり、よく伸びた。
「煌めく星を従えし 夜空に輝く銀の月
闇を切り裂き千里を照らす 麗しの月影なり……」
(まるで姫君を称えているような歌だな、そんなことを言って苦笑いなさっていたわね)
在りし日の父の顔が浮かぶ。瞳がゆらいだ。
歌は続き……、やがて最後の繰り返しが歌われる。
「……万歳 ラクレイドの若き希望
セイイール・デュ・ラク・ラクレイノ陛下
万歳 ラクレイドの若き希望
セイイール・デュ・ラク・ラクレイノ陛下……」
『称える歌』を歌い終わると、楽士は姿勢を正し、頭を深く下げた。
「お亡くなりになられたそうですね。諸国をめぐる浮かれ者ではありますが、ラクレイドで生まれ育った者の一人として、王の御崩御に哀悼の意を表します」
紋切りの悔やみの言葉だったが、真実味がこもっていた。
しかし次に彼が顔を上げた時には、頬に明るい笑みが浮かんでいた。
「少し気分を変えましょう。懐かしい歌をいくつか、続けて披露いたします」
『基本』より一音階高い同じ音が、ロォオン、と明るく響いた。
古くから歌われている童謡や民謡が奏でられ、歌われた。
楽士の竪琴の音は端正だった。
演奏の仕方も端正と言うか基本に忠実で、芸としては面白みに欠けると言えなくもなかったが、フィオリーナは好ましかった。
基本に忠実に演奏していてゆらぎやごまかしがない、ということは、それなり以上の腕前という証拠でもある。
(竪琴も歌も、すごく丁寧だわ)
彼はおそらく、きちんとした師匠にきちんと竪琴や歌を習ったのだろう。もう少し磨きがかかれば、宮廷楽士として務められる腕前が十分ある。
(宮廷楽士長に推薦しようかしら?)
そんなことを考えているのに気付き、内心苦く笑う。
少し忘れかけているが、フィオリーナはここへ遊びに来たのではない。
ラクレイドへ帰れるかどうかすらはっきりしない、虜囚同然の身の上なのだった。
歌と演奏は一時間以上続いた。
「それではそろそろお開きにいたしましょう。もしお聴きになりたい曲がございましたら出来得る限りお応えをいたしますが、如何いたしましょうか?」
最後の曲を型通りに楽士が問うと、
「ねえ」
と突然、ルイが声を上げた。
「お前は『誰そ誰そ 吾を呼ぶは』を歌える?」
デュクラの幼い人が意外な題名を言い出したので、さすがに楽士は驚いたようだ。
「よくご存知でいらっしゃいますね。ラクレイドでは知られた歌ですし、ずいぶん昔にかなり練習を致しましたので、歌えなくはございません」
ルイはにこっと笑う。
「ぼく今練習してるんだ。玄人はどう歌うのか聴かせてよ」
御心のままに、と、楽士は深く頭を下げた。




