第六章 誰そ誰そ 吾を呼ぶは(たそたそ あをよぶは)⑥
ラクレイドの楽士の話が出たのは、意外なことに執事のアンリからだった。
三人で午後、音楽を楽しむようになって五、六日経った頃だ。
例のラクレイドから来ている商人が日用品や食料品を納めに来て、たまたま竪琴やフルートの音色を聞いた。
「おや珍しい。これはラクレイドの古い歌『誰そ誰そ 吾を呼ぶは』ですね。ラクレイドの楽士でも雇われたのですか?」
驚いて問う商人に厨の者は、そうではなくてラクレイドから来ている客人が手すさびに奏でているのだと答えた。
ラクレイド産の燻製肉や腸詰めを多めに持って来いという注文の理由を納得した商人は、商人らしい利に聡い目を輝かせ、こう言った。
「今ラルーナに、ラクレイドから来た楽士がいますよ。若い無名の楽士だそうですが、腕前の方は港界隈でちょっとした噂になっているくらいです、悪くなさそうですね。音楽好きのお客様なら、喜んで下さるんじゃないですか?」
よろしければ手前どもが手配を致しますと、商人は言ったのだそうだ。
「我々の方でも少し調べてみましたが、件の楽士は確かに腕が良さそうですね。流れ者を屋敷に呼ぶのはどうだろうかと正直思いましたが、楽器を触るようになってから王女殿下の体調も好転されたご様子で、ルイ殿下もお喜びです。朝食の前にお二人で睦まじくお散歩もなさっていて、我々もほほ笑ましく思っております」
いかにも主思いの執事のように、アンリはそう言った。
「音楽がお二人を近付けたのです、楽士を呼んでみるのもいいのではと思いました。いかがいたしましょうか?」
母は物憂そうに目を伏せ、少し考えるようなそぶりをした。
「そうね……腕がいいようなら、呼んでいただいてもいいかしら?でも言っておきますが、王女は生まれた頃から選りすぐりの宮廷楽士の演奏を聴いて育ってこられた方よ。耳は確かでいらっしゃるから、三流の演奏なら聴かない方がましだとおっしゃるわ。その辺は大丈夫なのかしら?」
「宮廷楽士とまでは言えないでしょうが、場末の楽士とも思えないほど確かな音と演奏でした。一応、私が直接聞いて参りましたから、その辺は大丈夫ではないかと」
そう、と素っ気なく応えた後、母は形だけほほ笑んで命じた。
「気晴らしにはなりましょうから、その楽士を呼んでみて下さいな」
承りました、御心のままに。
アンリは恭しく礼をした。
アンリが下がり、居間には母とフィオリーナだけになった。
「おかあさま」
ひそめた声でフィオリーナは母を呼ぶ。
「どうしてあんなに素っ気ない態度を取ったの?」
母は微苦笑を含んだ口許でささやく。
「経験上の癖かしら?あまりに上手く自分の思惑通りに事が進む場合は、警戒した方がいいの。何か余計な力が働いている……そう考えるべきだから。それに楽士が三流なら、呼ぶまでもないのも確かよ。演奏もそうだけど、楽士自身の人脈を考えてもそう。三流の芸人には三流の人脈しかないものだから」
どちらにしても不確実な要素ばかりだけど。
自嘲するように母はつぶやき、思い出したように冷めたお茶を飲んだ。
楽士とつなぎが取れて呼ばれることになったのは、ルイと音楽を楽しみ始めて十日ばかり過ぎた頃だ。
出入りの商人である『海蛇屋』の商人に連れられて来たのは、貧相なまでに痩せた若い楽士だった。
膝上までの鈍色のケープに赤地に銀の縁の派手やかな仮面、というラルーナの昔気質な芸人のいでたちだった。
ただ、彼が大事そうに抱え持つ竪琴は、素人の目にも質の良い逸品だとわかる上物だった。
「ラクレイド人の芸人じゃなかったのか?」
流れ者が出入りするのでと今日だけ雇われた、体格のいい用心棒の男がじろじろと海蛇屋と楽士を見る。
「ラクレイド人ですよ、彼は。郷に入れば郷に従えで、ラルーナの芸人さんの装いに従っているんだそうです」
浅黒い肌の壮年の商人が、白い歯を見せてにこやかに笑う。如才がなさ過ぎて胡散臭い、商人らしいといえばいかにも商人らしい笑顔だった。
長年用心棒をやって来た勘だろうか?
男は、この二人のたたずまいになんとなく嫌な気がした。
が、面を伏せるようにして商人の陰に隠れて立っている若者を怖がる理由が、彼にはどうしても思い付かなかった。
「芸人にしちゃ華がないってのか、覇気のないおにいさんだねえ。こんなんで貴い方々の前で芸を披露出来るのかよ」
ズケズケと挑発するようにそう言ってみると、蚊の鳴くような声で若者は、最善を尽くしますとだけ答えた。
(何でえ、意気地なしの優男じゃねえか)
用心棒は思い、身体から少し力を抜いた。
「彼の本領は竪琴を奏でている時ですからね。『波止場のエミュ』の噂くらい、あなたも聞いたことがあるでしょう?」
相変わらずのいい笑顔で、商人はそう言った。




