第六章 誰そ誰そ 吾を呼ぶは(たそたそ あをよぶは)⑤
今までは漫然とお茶を飲んでいた午後のひとときが、共に音楽を楽しむ時間になった。
最初の日、母が歌った『誰そ誰そ 吾を呼ぶは』は、祝婚歌もしくは求婚歌としてラクレイドで広く知られている。
古詩『神狼と乙女』を元に創られた歌である。
『神狼と乙女』は、ラクレイド王家の始祖の話として知られている神話だ。
神話は語る。
ある日、創世神ラクレイアーンは黄金の毛皮に覆われた狼の姿となって草原を走っていた。
草原には若菜摘みの乙女たちがいた。
うち一人の乙女と目が合った途端、神狼は強く彼女に心惹かれた。
神々しくも美しい巨大な狼におびえ、若菜摘みの乙女たちはせっかく摘んだ菜を捨てて村へ逃げ帰ったが、神狼と目が合った乙女だけは逃げなかった。
神狼と乙女は惹かれるままに契りを結び、子供を授かった。
その子供こそがラクレイド王家の始祖。
創世神話に続くラクレイアーンの恋物語の、一番最初の話だ。
眠りしラクレイアーンのお身体は神山ラクレイ。
かの方の閉じた眼は闇を見通し、さながらすべてを切り裂く鋭い刃のごとし。
しかし、時に神は甘やかな夢を見る。
黄金の毛皮の狼の姿で地を駆け、出会った乙女と運命的な恋に落ちるのだ。
だが、子までなしたのは最初に出会った乙女だけ。
この世で唯一神の血を引く血脈こそが、ラクレイド王の血脈である、と。
神話、と聞いてルイは一瞬、胡散臭さそうに鼻にしわを寄せた。
ルードラ教の教えでは、ルードラの神以外に神を自称する者は魔物、その神を称える神話は魔物が張った甘い罠、とされているからだ。
母はふたつ名に相応しい物柔らかな笑みを浮かべる。
「ねえ、ルイ。ルイはおとうさまやおかあさま、ばあやたちと思い出話をするでしょう?たとえば、ルイが赤ちゃんの頃の話とか。そういえばラクレイドでルイは、おとうさまの子供の頃に似ていると言われているっておっしゃっていたわね?そういうお話を聞かされたりするのでしょう?」
「……はい」
神話の話とどうつながりがあるのかわからなかったのだろう、ルイはパチパチと目をしばたたき、答えた。
「おとぎ話を聞いたりするのはお好きかしら?」
「はい。そういうお話を聞いていると楽しくなります」
母はもう一度笑む。
さっきより心がこもっている本当の笑みに、フィオリーナには見えた。
「わたくしは思うのですけど……」
母は少し遠い目をする。
「神話とか伝承とかが、実際あったことかどうかはともかく。そこに住む人々が昔から語り継いできた、すごーく古い思い出話、あるいはおとぎ話のようなものじゃないかって」
ロォオン、と母は、竪琴を引き寄せて弦を弾く。
「そういう懐かしいお話をみんなでして……楽しくなる。そのお話をしたことが、次の新しい思い出になってゆく。さっきの歌も、陛下がわたくしへ歌って下さった大切な思い出と一緒になって、胸に刻まれているのよ」
言いながら母は、『誰そ誰そ 吾を呼ぶは』の旋律をつまびく。
「陛下はとてもいいお声をなさっていて、竪琴もお上手でいらっしゃいました。弟君と掛け合いでこの歌を歌って下さったあの日のこと、今でもまざまざと思い出しますわ」
どことなく声に湿り気を帯びたアンジェリン叔母の言葉を、ルイは神妙に聞いていた。
「叔母さま」
ルイはエメラルドの瞳を据え、ごく真面目に言った。
「ぼくにもその歌を教えて下さい」
母とフィオリーナは少し驚いてルイを見る。
まさか、初日からルイが『教えてくれ』とまで言い出すとは思っていなかった。
「叔母さまはその歌を聞いて、セイイール陛下のことが好きになられたのでしょう?」
思わぬ指摘に、母はややうろたえる。
「え?ええ、そう……ね」
何を思い出したのか、母は頬を赤く染める。
ルイも少し赤くなり、それでも真っ直ぐ叔母を見上げて言う。
「叔母さまにお話を通しておりませんし、お許しだっていただいていませんけど。ぼくは、フィオリーナおねえさまへ結婚を申し込んでいます」
絶句する母娘へ、さすがに恥ずかしくなったのかルイは面を伏せた。
が、思い直したようにすぐ目を上げ、きっぱりと言った。
「ぼくは子供だし、おねえさまより三つも年下です。本気に思ってもらえないのもわかります。でも、十年経ったら変わってきますよね?十年経って大人になって、ぼくがおねえさまに相応しい者になっていたら。どうか、ぼくとの結婚を許して下さい」
やはり絶句する母娘へ、ルイは一度、深く頭を下げた。
「もちろん日々努力をして、おねえさまに相応しい者になれるよう頑張ります。そして大人になったらその歌を歌って、おねえさまへ求婚します」
照れたようなほのかな笑みを浮かべ、ルイはフィオリーナを見た。
「おねえさま。あの日、馬車の中でぼくが言ったことを覚えていらっしゃいますか?覚えていらっしゃらないのなら、もう一度言います。ぼくは将来、おねえさまをお嫁さんにお迎えしたいと思っています。初めてお会いした時から、ぼくはおねえさまが好きです。ラクレイドのしきたり通り、おねえさまに忠誠を誓う覚悟もあります。ぼくを求婚者として認めて下さい」
その場は母が上手く収め、取りあえずこれから、今まで一緒にお茶を飲んでいた時間は、お茶を飲みながら音楽を楽しむ時間にしようと決めた。
母とフィオリーナがまず、ラクレイドやデュクラの古い曲や歌を披露し、残りの時間はルイが竪琴の基礎を習う。
『誰そ誰そ 吾を呼ぶは』の歌詞を紙に書き写し、歌う訓練もする。
「『誰そ誰そ 吾を呼ぶは』の歌詞は、ラクレイドの古語だから難しいでしょう?」
言外に、そんなに慌てて一生懸命に習わなくてもという気持ちを込めてフィオリーナが言うと、ルイは笑う。
「だってぼく、早くおねえさまに認めていただきたいんだもの」




