第六章 誰そ誰そ 吾を呼ぶは(たそたそ あをよぶは)④
弦の張りを確かめながら、フィオリーナは母と音合わせを始める。
フィオリーナは竪琴。
母はフルートだ。
フィオリーナは正直、楽器の演奏は得意ではない。
物心ついた頃から一生懸命練習しているのに、未だに思うように指が動かなくて苛々する。
おそらく、生まれつき手先が不器用なのだろう。
指先の細かく正確な動きを必要とするあれこれが、ごく小さい頃から好きになれない。
楽器にせよ刺繍にせよ、練習しているのになかなか上達せず、いらいらが募って癇癪を起しそうになったことが度々ある。
歌の方がまだ得意だ。
少女にしては低めの、可愛らしいとか鈴を振るようなという感じの声ではないが、深みがあってよく響く。耳は決して悪くないから、音を外さず歌うのは難しくない。
フィオリーナの声は響きが良くて耳に心地いい。
そういえば父は、よくそう言って褒めてくれた。
フィオリーナに甘い父ではあったが、彼は嘘をついてまで無理に褒めたりはしなかった。
……そう。
あの人は、『フィオリーナは可愛い』とは言ったが『フィオリーナは綺麗だ』とは、結局お亡くなりになるまで言わなかった。
嘘でもいいから一回くらい、『フィオリーナは綺麗だ』と言ってくれても良かったのに。そんなことをちょっと思う。
でももしフィオリーナがそんな文句を言ったら、あの人はきっと困ったような顔をして
『外見が美しいとか美しくないとか、そういうことばかりにこだわるのはどうだろう?一番大切なのは心の美しさだよ』
とかなんとか、間の抜けた見当外れなことを言うに決まっている。
(おとうさまがおかあさまに一番最初に心惹かれたのは、おかあさまが息を呑むような美少女だったから……でしょう?正直におっしゃったら?)
心の中で父へ話しかけると、鼻の奥がつんと痛んだ。
泣き笑いのような表情になりかけたが頬を引き、フィオリーナは、母のフルートの音をお手本に弦の微調整をした。
あの後。
香草茶を飲まされたフィオリーナは、早々に寝室へ入って寝台にもぐりこんだ。
久しぶりに思い切り泣いたせいか、ひどくだるかった。
寝台で仰向けになり、腫れた目許を自分の手の甲で冷やしているうちに、フィオリーナはぐっすり眠ってしまっていた。
翌朝目覚めると、母から、執事のアンリに命じて楽器商を呼ぶことにしたと聞かされた。
王女がずっと食欲不振で情緒が不安定なのは、信じていたルイに毒を盛られた上に拉致され、この屋敷で四六時中監視されながら閉じ込められているからだ。
年端もいかない王女にとって、それがどれほど恐ろしくつらいか、想像することも出来ないのか?
王女がこのまま病んで取り返しがつかなくなったら、一体あなた方はどうするつもりなのか?
母はそう言って、アンリを静かに問い詰めたのだそうだ。
アンリは恐縮している振りでのらりくらりと躱そうとしたそうだが、静かながらもしぶとい母の追及に負けた。
庭の散策程度の外出は認める、他の気晴らしも幾つか考える、という譲歩をあちら側から引き出した。
「ラクレイドの王族は音楽に造詣が深いし、折に触れて楽器を演奏したり歌ったりするのが昔からの慣習で、王女もそういう環境で育ってきた。手始めに、心を慰める為に楽器が欲しい、それも早急に……そう言ったのよ」
「……おかあさま」
港の方から、『暁の歌』の旋律が聞こえてきたあの時。
まずはルイと世間話をし、頃合いを見てそれとなく、屋敷へラクレイドの楽士を呼ぶよう説得しよう、二人でそう話し合っていた。
しかし、フィオリーナ自身が楽器を演奏するなんて考えていなかったし、昨夜発作的にフィオリーナが泣いたことまで利用して、母がアンリと交渉するとは思っていなかった。
母は春の精のように美しくほほ笑み、ささやく。
「侍女たちが扉の前で耳をすませているのは知っていますからね。貴女が泣いていたことは把握しているでしょう?説得力が増すから、交渉するなら今だと思ったのよ」
さすがは十六歳で異国の宮廷へ嫁し、敵すら丸め込んで生き延びたアンジェリン王妃。
その春風にも似た柔らかな笑みの下は、見かけによらず強かだ。
それに、と言葉を継ぎ、母は頬を引いた。
「ルイに……音楽や古典は素晴らしいと、少しは知ってもらいましょう」
母が主旋律を奏でる。
フィオリーナは和音を奏でる。
「ラララ ララ ラララ ララ
ラララ ララ ラララ ララ……」
注意深く弦を押さえながら、フィオリーナは『暁の歌』を歌う。
ついさっき買ったばかりの竪琴の弦は、質がいまひとつでもあるからか堅く、油断をしていると指が外れそうだった。
竪琴自体も、フィオリーナがあちらで使っていた物より数等品が落ちる。だが、栄えているとはいえ中央から遠い田舎町、これ以上の品を要求するのは酷だろう。
慣れない楽器に戸惑っている指とは逆に、歌声の方はのびのびと響く。
ここしばらくの鬱屈を晴らすように、枷を壊して野原を疾走する仔馬の気分で、フィオリーナは歌う。
歌詞の大半が『ラララ』であるこの歌は、気が済むまで繰り返し続けることが出来る作りになっている。
その気になれば永遠に繰り返しが可能な歌だ。
繰り返しを好む子供の癖を、この歌を作った無名の誰かはよく知っている。
「……ラララ ラララ ラララ ラララ
ララ ラララララ……」
夢中で繰り返しているうちに、フィオリーナはふっと、わざと開け放っていた戸口に人の気配を感じた。
手を止め、目を上げる。
ルイだった。
今日は乗馬の訓練をしていたのか、可愛らしくも凛々しい乗馬服姿だった。
「ご挨拶もせず勝手に聴いていて、失礼しました」
はっとしたように姿勢を正し、ルイはぺこりと頭を下げる。母はルイへ、柔らかくほほ笑んだ。
「いいえ、ルイもいらっしゃいな。もちろん、この後ご予定がなければ……ですけど。楽器を間近でご覧になったのは初めてでしょう?どんな経験も無駄になりませんから、触ってごらんなさいな」
他国の宮廷を訪問した際、必要になるかもしれませんよ。
そう言われ、ルイはおずおずとこちらへ来る。フィオリーナが竪琴を差し出すと、彼はおそるおそる弦に触れた。
フィオリーナはさっきまで奏でていた和音の位置を押さえ、弦を弾いた。
ロォオン、と、思いがけないくらい大きな音がして驚いたのか、ルイが慌てて飛びのいた。
その間抜けな姿が可笑しくて、ついついフィオリーナは吹き出してしまった。
「お、おねえさま?」
笑われたことに一瞬衝撃を受け、でもラクレイドにいた頃のように笑うフィオリーナの姿が嬉しくて、ルイは半泣きのような半笑いのような顔になった。
「じゃあ次は、わたくしが歌いましょう」
母は言うとフィオリーナから竪琴を受け取り、ラクレイドに古くからあるとある曲を奏で始めた。
「これは亡き陛下が結婚祝いにとわたくしへ歌って下さった、ラクレイドの古い歌なのよ」
単純ながらどこか切ない、そんな旋律が甘やかに響く。
「誰そ 誰そ 吾を呼ぶは
星の煌めき 銀の月影 山の彼方の遠雷や?
否や否 それは汝なり
高き峰より降り来る 黄金の毛並みは
孤高の神狼……」




