第六章 誰そ誰そ 吾を呼ぶは(たそたそ あをよぶは)③
夕食の時間。
げっそりと疲れた顔のルイが、それでもきちんと入浴を済ませて着替え、食堂へ来た。
「遅れてしまいましたか?お待たせして申し訳ありません」
詫びて席に着くルイの身体が、少し不安定な感じに揺れている。
「ルイ」
母が口を開く。
ラルーナの別荘へ来て以来、必要最低限のことしかしゃべらなかったアンジェリン叔母に話しかけられ、ルイはぎょっとしたように目を見開いた。
「は…い。何でしょうか、叔母様」
母は軽くため息をつき、こう言った。
「さっき二階の窓から少し見たのですけど。あなたはずいぶんと激しい格闘訓練を受けていらっしゃるのですね」
「あ、ああ。そう……でしょうか?でも、王子たるもの強くあるべきでしょうから。確かに疲れますけど毎日じゃありません、三日置きです」
何故そんなことを言われるのかよくわからないらしく、キョトンとしたような顔をしながらルイは答える。
「格闘訓練は七歳になってからで、まだ始めたばかりなんです。十歳を超えたら一日置きに訓練するんだそうですよ。小さい子供は体力がないから、毎日訓練したら身体を壊す恐れがあるんだそうです。五、六歳の頃は針を使った護身術を習いました。小さい子供が自分で身を守るだなんて、刺客はきっと思わないから僕が生き延びる確率が上がるでしょう?」
叔母に気遣われたのが嬉しいのか、ルイは饒舌だ。
(ルイは自分の命が狙われる前提で、物を考えているんだわ)
寒々とした思いでフィオリーナは、黙々と前菜を口へ運ぶ。
そう考えるよう教えられ、育てられているのだ、彼は。
デュクラは確かに近年、落ち着かない情勢が続いている。
たとえ王子であれ、いや王子であるからこそ、幼い頃から身を守る術を教えるのは決して間違っていない。
しかし彼の場合『身を守る』のではなく、『敵を攻撃する』に重点を置いた教育がなされている。
あの訓練もそうだし、そもそもあの日フィオリーナや母へ毒針を刺したのは、ルイだった。
そしてフィオリーナたちへ毒針を刺したのを、ちょっとはすまないと思っているだろうが、さほどひどいことをしたとは思っていないようだったし、今もおそらく思っていない。
フィオリーナと母がいつまで経っても不機嫌で、でもその理由が彼にはよくわからなくて、おろおろしているという感じだ。
他人へ刃を向けるという意味を、ルイは教えられていない。
刃を向けられた者が向けた者へ敵意を持つこと、互いの信頼関係を著しく悪化させるのだということも、おそらく教えられていない。
戦闘は、己れの身を守るのに必要なこと。
必要ならば謀を講じ、仮に誰かを傷付けたとしても、それは『ルードラの戦士』が誇りをかけてなすべきことをなしたのだから、罪ではない。
ルードラ教の教材である本を拾い読みした感触から考えれば、ルイがそんな風に思っているだろうことは見えてきた。
フィオリーナには違和感しかない。
「格闘訓練以外には、何を習っているの?」
話題を変えたいのもあって、魚の切り身を切りながらフィオリーナは問うた。
フィオリーナに話しかけられたのが嬉しかったのか、ルイは相好を崩して答える。
「国語にルードラ語に算術、博物学……後はルードラの教えについての基礎学習と、経典の暗唱を毎日しますね、ぼくはルードラの戦士ですから。あ、もちろん乗馬や剣術も習ってますよ。うーん、多分だけど、ルードラの戦士として必要な教養以外は、デュクラの王子が普通に習うものばかりでしょうね」
「……歴史や古典、音楽や芸術などは?」
ルイは再びキョトンとする。
「え?そういうのは別に、王族が学ばなくてもいいんじゃないですか?歴史や古典なんてかび臭いだけだし、音楽や芸術は、それしか出来ない者が他人に芸を見せてお金を稼ぐ、そういうものなのでしょう?」
フィオリーナは絶句し、作り笑いを浮かべる。
「……そう、かもね」
魚料理に使われている柑橘の果汁の酸味のせいか、フィオリーナは瞬間的に戻しそうな気分になった。
いつも以上に食が進まなかった。
ルイは本気で心配し、医者を呼ぶと言い出したが丁重に断り、フィオリーナと母は自分たちの居間へ帰った。
護衛兼侍女の二人を扉の外へ締め出し、くずおれるように長椅子へ座るとフィオリーナは、何故か涙が出てきた。
「ルイは……」
涙もぬぐわず、フィオリーナはあえぐ。
「ルイはどこの国の王子なの?」
母は無言で近付いてくると、そっとフィオリーナを抱き寄せた。
「自分の国の歴史も文化も古典も教えられず、音楽や芸術を楽しむことさえ知らないのよ?教えられるのは必要最低限の知識と礼儀、ルードラ教の教義、人と戦って殺す技術。ルイは……」
母の胸元に顔を埋め、フィオリーナはむせび泣く。
「ルイはルードラントーに都合のいい、戦闘人形にされているのよ!」
母は無言で、フィオリーナの黄金の髪を撫ぜ続けた。
小一時間後。
ようやくフィオリーナの涙が止まった。
母はひとつ大きく息をつき、卓上の鈴を取り上げて鳴らし、扉の外でひかえている二人の侍女を呼んだ。
「王女殿下がゆっくり眠れるように、蜂蜜を落としたカモミール中心の香草茶を用意して。それから……少し相談したいことがあるから、執事のアンリを呼んでちょうだい」
侍女たちは、今までほとんど口を利かなかったラクレイドの王妃が、人が変わったようにきびきび指示し始めたのに戸惑ったのか、互いにかすかに顔を見合わせた。
「意外と愚図ね、貴女たち。ものすごく単純なことしか言っていないのだけど。理解出来ないのなら、もう一度言いましょうか?」
突然投げつけられた、思いがけないくらい辛辣な王妃の言葉。
彼女たちは目を見開き、慌てたように頭を下げて、承りました御心のままにと応えた。




