第六章 誰そ誰そ 吾を呼ぶは(たそたそ あをよぶは)②
お茶を終え、自分たちが使っている棟へと戻る。
母の話では、王女時代の母がよく使っていたのがこちらの棟なのだそうだ。
「二階の窓から港がよく見えて、そこがお気に入りだったの」
懐かしいような切ないような、そんな目をして母は少し笑った。
フィオリーナと母の後ろを侍女が二人、黙って附いてくる。
どこへ行こうとしてもこの二人は附いてくる。
初日に浴場へ案内した侍女が彼女たちである。
フィオリーナはため息をついた。
母と共用している居間とそれぞれの寝室へは、命じればさすがに彼女たちは入ってこない。
が、それ以外は御不浄へ行く時でさえぴったり附いてくるので、気が滅入ることこの上ない。
「そこまで見張っていなくても、わたくしたちは着の身着のまま拉致されて来たのよ。身分を表わすものもなければ護身用のナイフひとつ持っていないのよ。逃げたくても逃げられないのだから、もう少し放っておいてちょうだい」
ここへ来た次の日、フィオリーナはたまりかねて彼女たちへズケズケとそう言ったが、当然二人が職務を放棄することはない。
我々はお二人の護衛も仰せつかっておりますので離れる訳には参りません、と、顔色一つ変えずに言われたのだ。
(一体誰の為の護衛なのかしら)
もし『護衛』が鬱陶しくて護衛対象が病んだとしたら、それって『護衛』と言えるのかしら?
ああそうね、病んで寝込めば動けなくなるし、願ったりかなったりと言うところかしら。
心の中で皮肉を言って、フィオリーナは少しだけ憂さを晴らす。
二階へ上り、廊下の窓から何気なく外を見る。
そちら側は裏庭で、ちょうどルイが戦闘訓練をしているようだった。
稽古着を着たルイが、同じく稽古着姿の大人へ声を上げてぶつかって行っては弾き飛ばされていた。
飛ばされた瞬間立ち上がり、再び向かっていく……を、彼は繰り返していた。
遠目にも彼が、目に涙をためて必死に訓練をしているのがわかる。
七歳の幼い少年、それも一国の王子が、嗜みの剣術ではなく実践的な戦闘訓練をしているのに驚いたが、すぐ納得した。
ルイはあの日、フィオリーナと母へ毒針を刺したのだ。
ラクレイドの護衛官たちがいくら優れていたとしても、護衛の対象である他国の幼い王子が刺客だなどと、思う訳がない。
今回はフィオリーナたちを殺すつもりはなかったかもしれないが、要するにルイは大人たちから、本気で暗殺の技術を仕込まれているのだ。
(デュクラ王は……ご自分のご子息が刺客に仕立てられていることをご存知なのかしら?)
おそらくご存知ではないのだろう。
仮に知っていて放置しているとすれば、デュクラ王は親としても王としても完全に終わっている。
(いえ……)
知っているとか知らないとか、そんな問題ではない。
自国の王子の教育を自国を拉いだ侵略者に任せ、そちら側の手先となるよう躾けられているなど、そもそもフィオリーナには理解出来ない。
隣で母が虚ろな目で、小さな甥の奮闘を見ていた。
居間に戻り、長椅子に座った。
傍らの小卓の上には数冊の本が乗っている。
他にすることもないので、食事や入浴、睡眠以外の時間はここで本を読んで過ごしている。
書庫にあるのは当然デュクラ語の書物が大半なので、フィオリーナが読みやすいものは、ルイが読む為に用意された幼年向きの書物が中心になる。
『ルードラの神さまのおはなし』とか『神のみくにをこの世へ』とか、そういう題名の本ばかりでげんなりしたが、これを機会にルードラ教がどういう宗教かを知る機会だと思い直し、少しずつ読んでいる。
母はバルコニーへ出て外を眺める。
本を読むこともあるが、母は外を眺めていることが多い。
この屋敷は山寄りの小高い場所にあり、町や港の様子がよく見える。
フィオリーナたちの居間は、ちょうど港がよく見えるの方角になる。
大きな船が行き来し、盛んに荷の積み下ろしされる活気のある様子が、ここからでもわかる。
海からの風が強く吹く。
母は風に髪を遊ばせ、半ば放心したように港……海を見つめていた。
ラクレイドにいた頃は常に髪を結い上げていた母だが、ここではくるくる縮れた赤い髪を、少女のようにゆるく束ねるだけにしている。
こちらへ来て以来、母はあまりしゃべらない。
しかしこちらへ連れて来られる少し前の病んでいた頃のように、虚ろな目ではなくなっている。
何かを静かに考えている理知的な目ではあったが、彼女が何を考えているのかはフィオリーナにはわからなかった。
軽くため息をつき、フィオリーナは、小卓の上から適当な本を取り上げて惰性でページを繰った。
「……フィオリーナ!」
緊張をはらんだ声で唐突に母が呼ぶ。
フィオリーナはぎくりと顔を上げた。
「こっちに来て」
訳がわからないままバルコニーへ急ぐ。
「よく聞いて。ほら、この曲……」
母の様子に不安を覚えながら、フィオリーナは耳をすます。
切れ切れながら風に乗って聞こえてくる旋律は、確かに聞き覚えがあった。
「え?もしかして……『暁の歌』?」
母は嬉しそうに笑む。
「そうよね、間違いないわよね?ラクレイドの楽士が今、ラルーナに来ているのよね?さっき話題に出たラクレイドの商人なんかを通じて、あのラクレイドの楽士とつながりが持てれば。……細い糸が、繋がるかもしれなくてよ」
あまりにも楽観的な考えだと思ったが、フィオリーナだってこのままぐずぐずしているつもりはない。
夢のように儚い、あるとも言えない糸であったが、手繰り寄せる、努力はするべきだろう。
ためらいを一瞬で飲み込み、フィオリーナは母の瞳を真っ直ぐ見てうなずいた。
「ええ。試すだけは、試してみましょう」




