第五章 それぞれのたたかい⑫
倉庫街の裏手で最近、腕のいい竪琴弾きの楽士が練習しているらしい。
身体を壊して療養中だから商売はしていない、今はただ腕が鈍らないよう練習しているだけ。
そう言って、聴いていても金を取ることはしないし、その代わりどの曲を弾くかは楽士の気まぐれ次第だが、聴くだけの価値は十分ある。
このところ港でよく聞く噂話だ。
「あの子は色々と大変だったみたいだよ」
楽士のことをちょっと知っている、惣菜屋の亭主がしたり顔で話す。
「元々ラクレイドの芸人だけど、アッチでヘンなお客に引っかかって殺されそうになったらしいね。最近でこそあの子もちょっとはニコッとするようになってきたし、とり憑かれたみたいな形相で竪琴を弾くようなこともなくなってきたけど、まだまだ落ち着いたとは言えそうもないね。あんた、竪琴を聴いてやるのはいいけど、あまり馴れ馴れしくしない方がいいぜ。心の病って奴はやっかいだ、赤の他人はそっとしておいてやるのが一番だからね」
以前に一度、あの子にちょっかいをかけようとした馬鹿がいてね。
近付いて触れようとした途端、あの子はすさまじい悲鳴を上げて暴れたんだ。
そしたら、あの子の面倒をみている恋人がどこからともなく飛んできて、その馬鹿はあっという間に叩きのめされたんだぜ。
あの子の恋人は一見優男だけど、とんでもなく強いよ。
命が惜しいなら眺めるだけにしておきな。
夕方になると、赤褐色の髪を短く刈り上げた美丈夫が、楽士の若者を迎えに来る。
「エミュ!」
呼びかけられると若者は、仮面越しにもそれとわかるくらい嬉しそうに笑い、手を止める。
竪琴を大事そうに胸に抱え、小走りで美丈夫へ駆け寄る。
その様子はなんとなく、子犬が飼い主に懐いているようでもある。
楽士の若者にとって美丈夫は、恋人というよりも全幅の信頼を寄せる庇護者なのかもしれない。
寄り添って二人は帰る。小さな借家だ。
家に入るとエミュは、食堂兼居間である部屋でくずおれるように椅子に座る。
大きく息をつき、外に出る時にはいつも着けている仮面を外す。
この仮面を外した瞬間、『エミュ』の仮面も外れるらしい。
醸し出す雰囲気が変わるのだ。
生気の薄い、どこかおどおどした楽士の若者から、いい意味でも悪い意味でも人を惹きつける、年齢も職業も不祥な不思議な存在へと変わる。
毎日見ているトルーノでさえ、この劇的な変化は未だに慣れない。正直、薄気味が悪かった。
「……お疲れですね。何かありましたか?」
心配そうに問うトルーノ。家の中ではラクレイド語で話している。
彼は薄く笑って首を振る。
「別にこれという理由はない。だがどういう訳だかひどく疲れるんだよ。病んだ時に落ちた体力が戻ってないせいだろうけど……」
彼は苦しそうに顔をしかめる。
「でもそれだけじゃなくて。何て言うのかな……『エミュ』に心を呑まれそうな感じでね。気を抜いたら自分が誰なのか忘れそうで、おれ……」
軽く首を振り、遠くにあるものを見出そうとするように瞳を一点に据え、慎重に言葉を紡ぐ。
「私、は。レライアーノ公爵、なのだよな?」
ラクレイドの王族だという妄想を持っている、心を病んだ楽士じゃなくて。
諧謔を含んだ戯言、とでもいう感じに笑みを含んで彼は言うが、頬はこわばっているし紫の瞳に力はない。
「閣下」
トルーノは強めに丁寧に呼びかける。
「あなた様は間違いなく、アイオール・デュ・ラクレイノ・レライアーノ公爵閣下でいらっしゃる。……報告があります、閣下」
報告、という言葉に反応したか、彼の瞳に鋭さが戻る。
「例の奥方様とお嬢様が……ラルーナへいらっしゃいました」
彼がまとう空気の温度が一気に下がる。
恐ろしいほどに美しい、会心の笑みがこけた頬に刻まれる。
「そうか、やはり来たか。……戦闘開始、だな」
次の日、太陽の位置も高くなった頃。
いつしか『波止場のエミュ』という通り名がついてしまった楽士の若者が、いつもの場所で念入りに弦の音合わせをしていた。
調弦が済むと、彼はいつも通り曲を奏で始めた。
澄んだ音が辺りに広がる。
遠巻きに、ぽつぽつと演奏を聴きに来る者がいるのもいつも通りだった。
と、不意に旋律が変わった。
装飾的な和音の一切ない単純な調べ。
聴衆は互いになんとなく顔を見合わせる。少なくともラルーナでは、こういう単調で素人じみた演奏を、わざわざ客に聴かせる楽士はいない。
「ラララ ララ ラララ ララ……」
不意に流れてくるその歌声が、いつもはぼそぼそした小さな声でしか話さない、あの寡黙な楽士のものだと気付いた瞬間、聴衆はざわめいた。
「シー!静かにしろ!」
鋭いささやきでたしなめたのは、惣菜屋の亭主だろうか。
「ラララ ララ ラララ ララ
ラララ ラララ ラララ ラララ
ララ ラララララ……」
楽士の歌声は思いがけないほど深みがあり、甘やかだった。
長く『ラララ』を繰り返していたが、やがて楽士は異国の歌詞で歌い始めた。
「おやまに あさひがのぼったら
あたらしい いちにちだ
だいすきなひとたちと おはようの ごあいさつ……」
デュクラ語以外は話せなくとも、ここは港町・ラルーナ。
この町の住人ならば、これがラクレイドの有名な童謡らしいことくらいは皆、なんとなく知っている。
繰り返される『ラララ』と、ラクレイド語の単純な歌詞。
楽士の若者はそれをひたすら続けた。
彼の意識の中にはおそらく、ここがラルーナの波止場にある倉庫裏であることも、自分の周りに聴衆がいることもないのだろう。
身の内からほとばしる思いのまま、彼はただ奏で、歌った。
明るく楽しげな曲調だったが、聴く者の心を切なく揺さぶった。
楽士のひりつくような望郷の念が、聴衆の胸を強く打ったのかもしれない。
故郷を思い、目頭を熱くする者も中にはいた。
「……ラララ ラララ ラララ ラララ
ララ ララララララ……」
何度目かの区切りで、エミュは思わずのように演奏を止めた。
あえぐように息を継ぎ、歌も止めた。
仮面の下から涙が流れ落ち、彼のこけた頬をぬらした。
一瞬後、誰かが大きな拍手をした。つられて皆も拍手した。
ぎょっとしたようにエミュは立ち上がる。
よほど驚いたのか大事な竪琴すら落としそうになり、慌てて持ち直していた。
「エミュ!」
『カモメ亭』の亭主・アランが声を上げる。
「すげえな、お前さんがそんないい歌い手だなんて知らなかったよ。今すぐ貴族のお抱え楽士やお抱え歌手にだってなれそうな腕前じゃないか!」
アランの言葉に賛同するように、拍手の音はさらに大きくなった。
状況が理解できず、しばらくエミュは棒立ちのまま、にこやかな顔で拍手を続ける聴衆を見ていた。
ようやく意味がわかったのだろう。
楽士の若者は照れたように笑みを作り、竪琴を左脇に抱え直すと、右手を胸に当て、膝を深く折ってお辞儀をした。
聴衆に応える楽士の礼だ。思いがけないくらい綺麗な所作だった。
この楽士がいい師匠にきちんと躾けられた、一流の芸人なのだということがわかる礼だった。
拍手が再び、大きく響き渡った。




