第五章 それぞれのたたかい⑪
乱暴に投げ捨てられたような衝撃に、アーノはうめきながら目を開ける。
「気が付いたか?」
ささやくようなタイスンの声。頭がガンガンし、視界がぼんやりしている。
やたらと埃っぽい、湿ったような饐えたようなにおいがする板の間……へ、放り投げられたらしい。
薄暗いが、少し離れたところにランタンがあるらしく、お互いの姿くらいは見える。
「タイスン?ここは?」
口の中が変に渇いている。
しゃべろうとしても舌が上顎にひっかかり、上手くしゃべれない。
「すまない」
短い謝罪の言葉には真摯さがこもっていた。
「下手を打った。相手が素人だからって手加減した。護衛失格だ」
苦いつぶやきだ。
アーノは何度も瞬きをし、頭を振った。
はっきりしない頭であっても、今が良くない状況なのはわかってくる。
危機感に押されて身を起こそうとし、アーノは、自分がぐるぐる巻きに近い状態で戒められているのを初めて知った。
慌てて両腕に力を込めたり身じろぎしたりしたが、ゆるむ気配すらなかった。
「無駄だ。あいつは人を縛り上げるのが異常に上手い。意識を失くしている間に俺たちは、がっちり縛られてしまっている」
静かな声でタイスンは言う。
「な……」
激するままに言葉を連ねようとし、タイスンの目を見て言葉を呑む。
静かすぎる彼の瞳にもたたずまいにも、絶望や諦めの気配はまったくなかった。
むしろその逆かもしれない。
戒められてはいるが、タイスンはどこまでも落ち着き払っている。
たとえるなら、殺気そのものが静かに凝ってタイスンという男になっている、そんな感じだ。
アーノは空唾を飲み込む。
(……あの頭。タイスンを本気で怒らせたぞ)
たとえどんな状況でも、本気のタイスンが動けば相手の命はない。
タイスンの足元で、血反吐を吐いて倒れているならず者の頭。
そんな予感めいた状況がまなかいに閃き、背筋が冷たくなった。
その時、きしむような音がして戸が開いた。
冷たい外気が差し込む。
「おや、お二人ともお目覚めですかな。いい薬は抜ける時にはきちんと抜けるんですねえ、さすがだ」
どうでもいいことを言いつつ、ヘラヘラしながら男は近付いてくる。
目深に大きめの縁なし帽をかぶり、ほとんど顔も見えないくらいしっかり覆面をしている。声や雰囲気から、壮年を過ぎて初老寄り……くらいではないかと思う。
タイスンは鼻を鳴らした。
「お陰さんで。どうでもいいが、あんたの飼い主は我々を、生死を問わず捕まえてこいって命じてんじゃないの?……生かしておいていいのか?特に俺を。あんた言ってたろう、『お側去らずのマーノ』だから殺す気でかかれって。後悔しても知らねえぞ」
へっ、とあざけるように男は笑う。
「そりゃ、あん時はね。だけど今のあんたは別に怖くねえな。手足が動かせねえ護衛なんざ、ただの木偶さ」
そう言い終わるか終わらないかで男は、まったく手加減なしでタイスンの腹を蹴り上げた。さすがのタイスンもうめき声を上げる。
「タイスン!」
思わずアーノが名を呼ぶと、男はふふんと嫌な感じに鼻を鳴らした。
「心配ですかな、王子様。そりゃ心配ですよねえ、愛する男が傷めつけられたら。……麗しいですなあ」
アーノは眉をしかめる。
「何を勘違いしている?そもそも私は王子じゃない」
ははは、と男は乾いた笑声を上げる。
「ああ……正確に言えば今のあなたのご身分は、公爵閣下でしたかな?まあ、でも王子様には違いないでしょうが。上つ方には大層珍しいその黒髪、スタニエール王の第三王子・アイオールさまでいらっしゃいましょう?」
男は言いながら覆面を外す。
アーノだけでなく、タイスンも息を呑んだ。
ランタンの逆光の中で立つ男の左目が、えぐられたように無くなっていた。
息を呑む二人へ、男はゆがんだ笑みを浮かべる。
「生きながら犬に食い殺されたなんてヤツは、昔からそれなりにいるでしょうがね、そこから命からがら逃げだして、ボロボロの状態で十年以上生き延びたヤツはまあ、そう多くはないでしょうなあ。死にぞこないはしぶといなどと言いますが、要するに俺もそういう野郎でしてね」
ふふん、と再び男は鼻を鳴らした。
「まあ、何故こういう目に合ったのか、ちゃんとわかっちゃいるんですよ。リュクサレイノの末の坊ちゃんと同じ時にやられたんだ、あの事件がらみで〔レクライエーンの目〕辺りが動いたんでしょうな。そりゃま、殺されるだけのことはしましたからね、雇われたとはいえ」
男の隻眼が鈍い光を放つ。
「あんたを無理矢理味わったんだ、それも初物のあんたを。あんたの最愛の情夫でさえ、初物のあんたの味は知りゃしない。それを知ってるのは俺だけだ……密かな自慢でしてね」
男は不意にしゃがみ込むと、アーノの顎をつまんで顔を上向かせた。隻眼をゆらめかせているのは、倒錯した情欲だ。
「あん時のあんたは可愛かったよ、死にそうにがくがくと震えて。多分だけど、ヤられてた最中は自分の身に何が起こったのかちゃんとわかっていなかったんじゃあねえの?汚い事なんか何も知らず、それこそ真綿で包みこむように大切に大切に育てられていたんだねえ、あんたは。俺らに無理矢理覚えさせられた味が忘れられなくて、乳兄弟を頼ったんだろう?ん?」
顎をつまむ指先に力が入る。呼吸も瞬きも忘れて男を見上げていたアーノの顔が痛みにゆがむ。
「あんたは俺の初恋さ」
生臭い息を吐きながら男は、おぞましい愛の告白をする。
「あの日以来、俺はあんたのことが忘れられねえ。もう一回あんたを抱きたい、出来ればあんたの情夫の目の前で。こんな顔になってまで生き延びた俺には、もうそれしか望みはねえんだよ。……いい薬があるんだ、男に慣れたあんたの身体ならあっという間に蕩けるだろうよ。卑しい身分の醜い男に抱かれ、我を忘れてよがり狂うあんたをマーノに見せつけてやろうじゃ……」
それ以上、男は続けられなかった。
鋭い一撃がまず脛へ、不意を衝かれてもんどり打ったところで鳩尾に第二撃が加えられ、男は無様な声を上げてえずく。
反吐がまき散らされ、異様なにおいが辺りに漂う。
ゆらり、と立っているのはタイスンだ。
あれほどきつく戒められていた筈なのに、縄の名残りさえ彼の身体になかった。
タイスンは一見、ただぼんやり立っているだけにしか見えなかった。
が、その立ち姿にひそむ恐ろしさを本能的に察知し、アーノの全身の毛が逆立った。
表情一つ変えずにタイスンは、腹を押さえて苦悶している男の背中へ、必要最低限の動きだけで鋭い蹴りをねじ込んだ。
「タイスン!よせ!」
アーノは必死で叫んだ。
タイスンはアーノをちらっと一瞥し、身体から少し力を抜く。
情けなく咳き込みながら男は転がり、半ば無意識に壁際へ逃げる。
「戒めを……解いたのか?」
茫然と問う男へ、タイスンが興味なさそうに答える。
「ああ。あんたがベラベラつまんねえことくっちゃべってくれてたおかげで、ゆっくり縄抜けが出来たよ、礼を言おうか?……言ったろう?俺を生かしておいていいのかって。散々悪どい事に手を染めてきたにしちゃ、荒事は素人だね、あんた」
タイスンは足音もなく壁際に転がっている男へ近付き、胸ぐらをつかんで引きずるようにして起こした。
「俺は十六歳のあの日から、この手で犯人をぶっ殺してやりたいと思っていたんだ、まあ諦めてたけどな。なのに、そっちからわざわざ来てくれるとはなァ。どうやらよっぽど俺に殺されたいよう……」
「よせ、やめろ!殺すなタイスン!」
「お前は黙ってろ!」
アーノが思わず上げた悲鳴のような声を、鋭い一言でタイスンは退ける。
ふ…っと唐突にタイスンは、嗜虐じみた笑みを片頬に浮かべた。
「死にな、おっさん。出来るだけ長く苦しむよう、特に気を付けて殺してやるからよ。嬉しいだろう、あんたに相応しい死に方だ」
「よせやめろ、殺すな!」
必死でアーノは叫ぶ。
「そいつの処分はたとえタイスンでも決められない筈だ!処分はアイオール・デュ・ラクレイノ・レライアーノが決めるべきだ!」
タイスンはさすがに動きを止めた。
振り返ってこちらを見る目は恐ろしかったが、直前までのむき出しの殺気は和らいでいた。
「あの方の判断に任せよう、いや任せるべきだ、タイスン!もしあの方がお前の好きにしろとおっしゃるのなら、その時に念入りに苦しめて、殺せばいいんだ!」
一瞬後、タイスンはつかんでいた胸ぐらから手を放した。
くずおれる男には一瞥も与えず、タイスンは無言でアーノの戒めを解き始めた。
「あの……方?」
違和感を覚えたか、男は転がったまま茫然と、問うともなく問う。アーノは苦笑する。
「だから言ったろう、私は王子じゃないって。初恋の男の顔くらい、きちんと覚えておいたらどうだ?」
縛られていたせいで痺れた腕を振りながら、アーノは立ち上がる。
ランタンの光が彼の顔を照らす。隻眼の男はあっと息を呑んだ。
(琥珀色の……瞳だ)
レライアーノ公爵ことアイオール王子の顔など、あの日一瞬しか確認できなかった。
が、歌にある通りの濃い紫色の瞳だったのは覚えている。
「は……はははははは!」
笑うしかない。とんだ道化だ。
十年来の思い人だと必死で追いかけてきたのに、ただの影、ただの替え玉に過ぎなかったのか!
「畜生。俺の負けだよ完敗だよ。どこにでも連れて行って、煮るなと焼くなと好きにしな!」
タイスンはむっつり応える。
「言われなくともそうさせてもらおう。……まず教えろ。さっき俺に毒矢を刺した吹矢使いは何処だ?」
呼んだかい、の声と同時に戸が開く。
これという特徴のない、ごく平凡な壮年の男だった。
「やっぱりあんたかよ『犬養い』。吹矢使いだけは気配すらしなかったから、相当の手練れだとは思ってたけど」
男はへらりと笑う。
「あの薬は極上品だから、きちんと扱えりゃ身体への負担も少ない。その後は、あんたなら何とかなるだろうしするだろうとも思っていた。……因縁は片付いたかい?『お側去らずのマーノ』……『荒鷲のタイスン』さんよ」
「……まあな。〔レクライエーンの目〕筆頭・『犬養い』。しかし、もう少し手伝うなりなんなり、してくれても良かったんだぜ?」
男は再び、へらりと笑う。
「串焼き二舟で贅沢言うなよ。まあ、そこの片目の兄さんは、俺が昔に撃ち洩らした獲物だ。そのせいで迷惑をかけた償いはしたい。……外に荷馬車がある。獲物を放り込んで連れて行ってもいいし、手に余るのならこっちで引き受けてもいい。どうする?」
「こちらの任務は陽動でもあるから、半分以上、済んだようなものだ。後は早めにフィスタへ着きたい。荷馬車は有り難くいただこう」
「わかった」
男はうなずくと、手慣れた感じで無様に倒れている隻眼の男を縛り上げた。
「放り込んでおこう。……幸運を祈るよ、あの方へよろしく」
「あんたの主はおふくろさまの方じゃねえのか?」
男は再度、へらりと笑う。
「俺らの主は神の狼さ。特定の個人じゃねえよ」
じゃあな、と言うと、隻眼の男をひょいと担いで彼は出て行った。
「状況が……よくわからないんだけど」
アーノの声で、タイスンははっと我に返った。
不可解そうに顔を曇らせている相棒へ、タイスンは苦笑する。
「ああ、おいおい説明する。『犬養い』は敵じゃねえ……今のところは、な」
背中を叩いて外へ出るように促す。
扉を開けてみると、東の空が白み始めていた。
思わず深い息をつく。
あの頃、苦しい思いで何度も見上げてきた晩秋から冬にかけての明け方の空を、タイスンはふと思い出す。
「フィスタへ急ごう。別口さんの犬はさすがにもういなかろうし、お上の犬に吠えられるのも面倒だ。フィスタは公爵領、王のいない今、国に飼われている犬は公爵領内で好き勝手に動き回れないからな。荷馬車に乗っていけりゃ、日のあるうちにフィスタへ着けるだろう。あんたは荷台で休んでいてもいいぜ、アーノ……いや」
タイスンはニヤリとし、久しぶりに正しく、相棒の名を呼んだ。
「……コーリン」




