第五章 それぞれのたたかい⑩
粥の入った小鍋を手に、トルーノは借家へ帰る。
フィスタの老舗でラルーナにも小さな支店を持つ『海蛇屋』の口利きで借りた、ごく小さな家だ。
扉へ近付く前に家全体をざっと見まわす。
意識する以前の習慣だ。
家の周りの、土についた跡や草の倒れ具合などを熟練の目で確認するのも、同じだ。
鍵を開け、静かに扉を引くと室内の気配を確認する。
静かに閉め、トルーノの今の護衛対象の無事を確認する為、彼の部屋へと行く。
「戻りました」
扉に合図をして声をかける。
丁寧過ぎる口調は戒められているのだが、つい出てしまう。
トルーノは一瞬、苦く笑った。こういう時は幼馴染のマーノの、こだわりのなさというか傍若無人さがうらやましくなる。
どうぞという返事があったので、部屋の扉を開ける。
「おかえり」
寝台に横たわっていたが、彼はずっと起きていたようだ。
「お粥、食べますか……じゃなくて、食うか?」
寝台の彼はうるさそうに栗色の髪をかきあげながらうなずき、半身を起こした。
頬はこけ、顔色も良くなかったが瞳の光は強く、見かけほど憔悴してはいない様子だ。
「もらうよ。ありがとう。この粥のお陰で何とか露命を繋いでるようなものだね」
苦笑いをする相手へトルーノは、さじを添えて粥の入った椀を差し出す。
「粥以外はまだ駄目、か……」
問うような独り言のようなトルーノの言葉へ、さじを持つ彼の手が止まる。
「ああ……すまない。食べたい気持ちはあるんだけどね」
息をつき、少し冷たくなった粥をすくって口へ運ぶ。話を変えるように彼が
「『カモメ亭』のご亭主は元気?」
と問うと、トルーノは少々複雑な感じに顔をしかめた。
「ああ。早く元気になってまた竪琴を聴かせてくれってさ。……だけど、わざわざあんな嘘まで吐かなくてはならないのか?」
エミュは悪そうな笑みを片頬にはく。
「『カモメ亭』のご亭主は、人は良いが口が軽い。だから、いい按配にこの辺へ噂をばらまいてくれるだろう?……ラクレイドから流れてきたエミュという楽士は、ひどい目にあったせいでちょっと心を病んでいる。一緒に流れてきたトルーノという男の、要するに囲われ者のようだ。いつも仮面で顔を隠しているのは、こちらの古いしきたりに従っているというよりも、他人が怖くておびえているせいらしい。トルーノはエミュの境遇に同情し、面倒をみてやっているようだ……泣かせる話じゃないか」
三文芝居だけど、と言いつつエミュは粥を食べる。
「大体、話の大本の設定は実際に近いから、現実味を損なわないし。嘘も吐きやすいというものだろう?」
ひどい目にあって心を病んだ者の演技なら、その辺の役者なんか目じゃないね。
飄々とそんなことを言うエミュの心の内を思うと、やりきれなさにトルーノはがっくりくる。
寝台わきの椅子にうなだれて座り、大きなため息をついた。
「まあ……そう言えなくもない、かな?確かにこの話はある程度、間諜の目くらましにもなるだろうし。だけど、ご亭主の顔を見る度に俺は、そこはかとなく罪悪感が募るというか……」
「トルーノ」
さじを置き、エミュはあきれたようにトルーノを見る。
「物心ついて以来魔窟のような環境で育ってきたくせに、どうして君はそんなに人が善いの?信じられないな」
「魔窟の中じゃ厚顔無恥でいられても、市井の民相手に厚顔無恥にはなれないんでね」
すみませんねえ、半端者で。
苦い顔をするトルーノへ、エミュは無遠慮な笑声を上げた。
その日、アランは久しぶりに竪琴の音を聞いた。
エミュが回復したのか、と、他人事ながら嬉しくなった。
今日は音階に毛が生えた程度の簡単な曲ばかり弾いているようだったが、音そのものは以前と変わらず綺麗だった。
たとえるなら、塩の味がバシッと決まったスープのようなというか、魚をさばいていて骨がきれいに離れた時のようなというか、気持ちのいい真っ直ぐな感じの音だ。
アランは音楽なんてからっきしわからないが、エミュの竪琴の音色は何故か好きだった。あの子の心根はきっと、奏でる竪琴の音のように真っ直ぐなんだろうなとアランは思う。
商売柄身体を売ることもしてきただろうし、そのせいで死ぬ目にあって心を病む結果になったかもしれないが、竪琴を奏でる意思や気力が残っている限り、あの子は大丈夫だろう。
「後はトルーノがそばにいれば、あの子は前へ進めるよ」
商売人にしては口数も少なく、ある意味亭主より肝が据わって男前だと評判のマリーが、手早く鍋の中をかき混ぜながら言う。
「トルーノは心の底から、エミュを大事に思っているみたいだからね。でなきゃ、割り増し料を払ってまで毎日粥を注文し続けやしないさ。まあ、愛だの恋だのというよりも、雨の日に拾った死にかけの子犬にほだされ、世話せずにいられなくなった……みたいな関係かもしれないけどね」
ふっ、と苦み走った感じにマリーは笑む。
「本人たちが幸せなら、それでいいってことさ」
昼時の混雑が一段落ついた。
アランは前掛けを外していつも通り、女房と交代で休憩に入る。
売れ残りの白身魚のフライと、まかないとしてマリーが蒸してくれた芋に塩をまぶし、倉庫の裏手へ行く。
ここはいい按配に風がさえぎられ、昼前から昼過ぎにかけて日当たりもいい。晴れていれば冬でも結構暖かいので、アランはここでちょいちょい、昼飯を食う。
(そういや、さっきから竪琴の音がしないな)
ふと気付く。いつもならエミュは、夕方近くまでここで練習をしているのだが。
(病み上がりだし、もう家に帰ったのかもしれねえな)
思うと、自分でもちょっと意外なほどがっかりした。
漠然と、今日は久しぶりにエミュの竪琴を聴きながら昼飯を食おうと思っていたのだ。どうやら自分で思っていた以上に、それを楽しみにしていたらしい。
「……へっ」
誰にともなく照れ臭くなり、アランは鼻を鳴らした。
倉庫の角を曲がり、おやと思う。
いつもはその辺りでエミュは、どこかで拾ってきたらしい朽ちかけた木箱に座り、鬼気迫るような感じで竪琴をかき鳴らしている。
怖いくらい張りつめた奏者の雰囲気と異なり、奏でられる音色はとても優しく、清々しい。初めて聞いた時アランは、目と耳がバラバラになったような錯覚に陥ったものだ。
でもその大切な竪琴を木箱の上に置いたまま、エミュはどこかへ行ったらしい。
何だか嫌な感じがして、竪琴のそばに昼飯を置くとアランは、軽くエミュを探してみることにした。
倉庫群の向こう側は波止のはずれだ。何気なくそちらへ行ってみると、エミュが海を見つめてぼんやり立っていた。
「エミュ!」
呼びかけたが振り向かない。
一心に彼は、ちょうど海軍の軍港がある辺りを見つめていた。
「エミュ!」
もう一度呼びかけ、軽く肩をたたいた。
エミュの肩が少女を思わせるような細さなのに、アランはぎょっとする。
元々彼は細身のようだが、病んでさらに痩せてしまったのかもしれない。
エミュは大きく身体をゆらして振り向いた。
肩を過ぎる栗色の髪もゆれる。
整い過ぎたその髪は、おそらくかつらなのだろう。
仮面だけでなく、かつらまで被って自分を隠さなければ落ち着かない彼の心を思い、アランは胸が痛んだ。
「……ああ」
ため息をつくようにエミュはつぶやく。
「カモメ亭のご亭主だったんだ。ああそうだ、いつも無理言ってお粥を作ってもらってありがとうございます。後で、トルーノと一緒にお礼に行こうと思ってたんですけど」
アランは首を振る。
「別に礼を言ってもらうようなことはしちゃいないよ、こっちは。ちゃんとそれなりの代金はもらってるんだから」
でも、と言いかけるエミュに、アランは更に首を振る。
「そんなことはいい。それよりあんた、こんなところで何してんだい、大事な商売道具もほっぽらかして」
仮面越しにもわかるほど、エミュの顔は曇った。
「何……って訳でもないけど」
うつむき、ぼそぼそとした声で言う。
「ここから船に乗ってゆけば、ラクレイドだなって」
さびしい声音だった。アランは再び胸が痛んだ。
「ラクレイドへ……帰りたいのかい?」
エミュはゆるく首を振る。
「帰りたい、のかどうかは、実は俺にもわからないんだ。ずっと住んでいたし、大切な知り合いもいっぱいいる。みんな俺のことを、心配してるだろうなとも思う。でも……あそこに俺の居場所があるとも言い切れないんだよ。帰ったらみんなに迷惑かもしれないし」
何を思い出したのか、エミュはぶるっと身を震わせる。
「……殺されるかもしれないし」
一瞬絶句した後、アランは笑みを作ってエミュの骨ばった背を叩く。
「ま、先のことは先のことさ。もっとちゃんと、身体が良くなってから考えればいいんじゃないのかな。そうだお前さん、昼飯は食ったのか?それともまだ粥しか食えないのかい?」
やや強引に、アランは話題を変えた。
「そう……でもなくなってきたかな?蒸した芋とかゆで玉子の白身とか、一昨日くらいからちょっとずつ食べてるし」
ぼそぼそ言うエミュへ、アランは笑ってみせる。
「おおそうか。昼飯用に蒸し芋を持って来ているんだ、それをやるから食いな。ああ遠慮はいらねえ、店に帰ったら鍋にはまだまだ芋が残ってるしな」
でも、と渋るエミュへ、アランはわざと明るく言う。
「ただで恵んでもらうんが嫌なら、俺の為に一曲、弾いてくれりゃいい。随分と安くて申し訳ないが、仕事の報酬だと思えば遠慮なく食えるだろう?」
エミュは初めて、いい顔で笑った。




