第五章 それぞれのたたかい⑦
タイスンが料理屋へ戻ってみると、『お坊ちゃま』は部屋にある大きめの長椅子でぐっすり眠り込んでいた。
起こそうかと思ってやめる。
名残りの夜陰にまぎれるようにして、昨日の夜明け前に王都を発った。
街道脇の木の下で時々仮眠を取ったが、ガザーンまでほぼ一日歩き通しだった。
もちろんその覚悟で出立したし、『お坊ちゃま』自身も決して鍛えていない訳でもないが、肉体的にはもちろん精神的にもきついここしばらくだった筈だ。
ゆっくり眠れる時に少しでも眠らせてやった方がいい、ここから先の方が長いのだから。
タイスンは再び、そっと部屋の戸を開けて廊下にいる店員に声をかける。
レーンの蒸留酒があるなら薄めの湯割りにし、適当な肴と一緒に持って来てくれと頼んだ。
「それから甘いものを用意できるかな?かさばらなくて日持ちのする、干菓子なんかがいい。あったら包んでくれ」
承知いたしましたと頭を下げる店員へ、タイスンは多めに心付けを渡した。
(我ながら気前のいい客だぜ……)
苦笑いをしながら部屋へ戻り、軽く息をつく。こういうのはどうも慣れない。
別にけちではないつもりだが、無意味に気前よく振る舞うのは嫌いだし、お上品な店独特の雰囲気も、馴染みがない以上にそもそも好きではない。
元々がさつな質だ、適当に飛び込んでわっと食事をして、食べ終わったら金をおいてさっさと出て行ける、そういう大衆的な料理屋の方が性に合っている。
(『お坊ちゃま』と一緒だから仕方ないね)
自分ひとりなら何とでもなるが、護衛の対象がいる限り勝手は出来ない。
注文の品は手早く用意された。
揚げて塩を振った芋や香辛料を利かせた炙り肉、湯がいた腸詰めなどがお上品に少しずつ、大皿に盛りつけて供された。
添えられた薬味を付けて適当につまみ、湯割りをちびちび楽しむ。
いつもは蒸留酒を生のままで飲んでいるから、湯割りするとどうも頼りなくてつまらない。
が、この方が身体はあたたまるし、そもそも安心して酔っぱらっていられる場合でもない。
タイスンの体質もあるのだろうが、蒸留酒は身体に残りにくいから『お坊ちゃま』が起きるまでには、ある程度以上醒めるだろう。
『お坊ちゃま』は熟睡している。
どんな昼食だったのか知らないが、満足出来る食事だったのだろう。軽く口を開け、警戒心のかけらもない顔で眠り込んでいる。
(ウチの息子みたいな顔して寝てやがるな)
ややげんなりしながらタイスンは思う。
こいつはすでにいい歳をした大人の男だが、心の何処かが少年のままで止まっているのかもしれない。
有能さと精神年齢は、必ずしも一致しないのだろう。
(ルクーノ……ミーナ)
離れて久しい妻子を、タイスンはふと思う。
さっきの子犬のぬれた鼻先の感触が、幼児だった頃の息子の、じめっとしたてのひらの感触を呼び起こした。
いつもは彼は、強いて家族のことを思い出さないようにしてきた。思い出すと辛いだけだからだ。
しかし久しぶりの軽い酔いが、思い出さぬように押さえつけていた理性を麻痺させたらしい。
タイスンにとって我が身以上に大事な二人の面影が、軽く酔って充血した瞳に浮かぶ。
二人がすぐそこにいるような気分になり、思わずタイスンは柔らかい笑みを浮かべていた。
職務上、このくらいの期間家族と離れているのは珍しくないが、今度いつ会えるのかわからないのが切ない。
場合によれば……生きて会えない、かもしれない。
「……チッ」
舌打ちをし、気弱になった己れを叱咤するようにタイスンは、湯割りの残りをがぶりと飲み干した。
『約束だよ、父さん』
別れの夜、けりが付いたら迎えに行くと言ったタイスンを、挑むような目で見上げてきた息子が思い出される。
息子は、顔立ちそのものは滑稽なほどタイスン自身と似ていたが、瞳の色は妻とよく似た緑色だった。
かつて結婚を申し込んだ時の、挑むような彼女の瞳を思い出した。
『おう。男と男の約束だ』
真面目にそう言って、タイスンは息子を見返した。
一瞬、ふっと息子の緑の瞳は揺れたが、気丈にうなずいて母と手をつなぎ、しゃんと背を伸ばしてきびすを返した。
「……生きて迎えに行く。たとえ死んでも迎えに行く。待ってろ」
熱くなった眉間を冷ますように大きく息をつき、タイスンはひとりごちた。
それから二日ばかりは平穏だった。
「これまでのところ、街道には役人はいねえな」
火を囲んで白湯を飲みながら、タイスンは連れに言った。
連れの若者はうなずく。
フードを脱ぎ、中途半端な長さに伸びた黒髪を、若者は火の前にさらしている。
炎の揺らぎが、若者の白い顔を意味ありげにちらちらと照らした。
街道から少し外れた草地だ。休むのに適した場所で、冬でなければ他にも野宿する旅人がいただろう。しかし今は彼らしかいない。
若者はのどの奥で小さく笑った。
「我々が消息を絶ってすぐ、ラクレイドのあちこちでそれっぽい幌馬車や商隊がうろついたから、役人たちはきりきり舞いさせられただろうね。あれから二十日は経っているから、役人たちは我々の捜索に倦み、もはや街道を調べる気もなくなっているだろうし。消息を絶ってすぐ動かなかったのは賭けだったんだけど、我々はその賭けに勝った、と……」
タイスンは鼻を鳴らした。
「危ない橋を渡るねえ」
「いいじゃない、作戦は成功したんだから」
タイスンは胡乱な目で相手を眺める。
こういう人種は、人間を将棋の駒か何かのように見ているのだろうかと、ちょっと薄気味が悪くなった。
「まあいい。敵は少ない方がいいさ。だけど油断はするな。お上の側だけじゃなく、別口さんも暗躍しているらしいからな」
「別口さんは、一体何がしたいんだろう?」
妙なところで妙に素人くさいことを言う若者へ、タイスンは微苦笑する。
「さあな。大方すべての罪をこちら側へ擦り付け、骸をさらして辱めたいんじゃないの?だから多分、我々の生死を問わず、とにかく捕まえてこいと命じているはずさ。魔窟の主さまは容赦ないからね」
あはは、と若者は笑う。
「魔窟の主って上手いこと言うね」
「俺が言ったんじゃねえ、犬養いの男がそう言ったんだよ」
夜も更け始めた。
まずは若者が眠り、タイスンが火の番をする。
ロバの背に積んで運んできた鹿の毛皮と毛織物を火のそばに広げ、上掛け代わりにしている羊毛入りの外套を身体に巻き付ける。
「三時間くらい経ったら起こすから、交代してくれ」
タイスンの言葉に黒髪の若者はうなずき、横になる。
頭を地面につけた途端、寝息を立て始めた。
「案外、たくましいじゃねえか」
ややあきれたようにつぶやいたタイスンの声が、焚火の中ではじけた小枝の音にまぎれた。




