第五章 それぞれのたたかい⑤
二日ぶりにちゃんとした寝台で横になり、フィオリーナは大きく息をついた。
ラルーナにあるデュクラ王家の別荘の、客間だった。
清潔な敷布や夜具はいい。
拉致されてきた不愉快さは不愉快さとして、やはりいい。
ほぼ積み荷の扱いでここまで来たのだ、身体の奥に疲労が凝り固まっている。
でもこうして快適な状態で横になっていると、敷布の上にゆるゆるとその疲労がほとびてゆく心地がする。
(さて。これから……どうするべきかしら)
暗い天井を見上げ、フィオリーナは唇を噛みしめる。
身体は暴力的なまでに眠りたがっているが、頭の芯は恐ろしいまでに冴えていた。
はしばみ色の瞳を宙に据え、フィオリーナは胸の中でひとりごちる。
(思惑通りになんかならないわよ、ルイ……いえ。ルイを操る、卑怯者たち。それにどうせ損得で測られる命なら、あなた方にはせいぜい高く見積もってもらうから。言っておくけど、どんな高値を付けても売ってあげないわよ。『デュ・ラク・ラクレイノの王女』を買うのは、わたくし自身なんだから)
わたくしだけがわたくしの値打ちを、わたくしとわたくしを生み出したラクレイドの損得で決める。虚しさにひしがれている暇があるなら、自分の値打ちを正確に見積もり、正確に使うべきだとフィオリーナは思うようになった。
デュクラ王家の別荘に着いたのは宵だった。
着いた途端、フィオリーナと母の待遇は積み荷から賓客へ変わった。
まず医師が診察に訪れ、問題ないと判断されると着替えと入浴の用意がなされた。
ラクレイド語に堪能な侍女たちに浴場へと導かれる。
お世話いたしましょうかと問う彼女たちを退け、用心の意味からも母と二人にしてもらう。
交代で湯を浴び、清潔な衣服に着替えることにする。
猫足の湯船に満々と湛えられた、薔薇の花の香りがするお湯の中へフィオリーナは身体を沈める。埃や汚れと一緒によどんでいた気分も、お湯の中へ溶けだす心地がした。
(……負けるものですか!)
むらむらと腹が立ってきた。
いつものフィオリーナらしい負けん気が、ようやく戻ってきたらしい。
入浴を済ませた頃には胃腸に優しい米の粥が用意され、食卓であたたかな湯気を上げていた。
色鮮やかな青菜の塩漬けや砂糖や蜜で柔らかく煮込んだ豆、叩き肉を炒ったものや蒸した鶏むね肉を裂いたものなど、数多く取り揃えたおかずがとりどりの薬味と共に並べられた。
「まずはお食事を。医師の指示に従い、本日は軽くて消化の良いものをご用意いたしました。明日以降は殿下方のお好きなものをご用意させていただきます。それ以外にもご希望がございましたら何なりとお申し付けくださいませ、我々に出来得る限りのことは致します。王宮のようには参りませんが、お二人にご不自由をおかけしないよう全力で務めさせていただきます。この屋敷の中でなら、どうぞお好きなように寛いでお過ごし下さいませ」
慇懃無礼を絵に描いたような、半ば白いものが混じった赤毛の、若い頃はさぞ美男であったろう壮年の男がそう言う。
決して品は悪くないのにどことなく態度が不遜なこの男は、私はこの別荘の執事を務めておりますと頭を下げた。
「アンリとお呼び下さいませ」
「アンリ?」
母がつぶやくように問う。
「もしかして、チュラタン家のアンリ?」
男は一瞬目を見張り、初めて少しだけ、人間らしくかすかに笑んだ。
「覚えていて下さるとは思っておりませんでした、我らの『春風の姫君』。……ええ。私は確かに、チュラタンのアンリでございます」
『春風の姫君』は、デュクラの王女だった頃の母のふたつ名だそうだ。
しかし母はやや疎ましそうに眉をひそめ、後は黙ってさじを取り上げると食事をし始めた。
相手への不信感はぬぐえないが、今後一切食事をしない訳にもいかない。フィオリーナは母に倣ってさじを持つ。
薄甘くて芯熱のある米の粥は思わず涙ぐんでしまうほど美味しくて、じんわりと胃に沁みた。
どれほど周りに翻弄されようと、どれほど勝手な値を付けられようと、最後は自分で自分を買い取るのだ。
寝室の暗い天井を見つめ、フィオリーナは改めて決意を固める。
(誓いを捧げる騎士を選ぶのは、貴婦人の特権なのよ、ルイ。彼が自分の騎士に相応しくないと判断すれば、貴婦人は誓いを退けられるの。ラクレイド人でないあなたには、そんな機微までわからないのでしょうけど)
薄闇の中で一生懸命に愛と誠実を誓っていた、だけどおそらくその本当の意味をほとんどわかっていないであろう、幼い従弟の緑の瞳を思い出す。
(可哀相な……ルイ)
あの子は本当に、すごくすごく寂しいのかもしれない。唐突にそう思う。
強烈な眠気に意識を絡め取られる寸前、ルイの寂しそうなまなざしが、フィオリーナの脳裏で一瞬強く、ひらめいた。
「ぼくはルードラの戦士だから」
薄闇の中でうめくように言ったルイの声。
端正な白い顔を濡らすのは、涙ではなく鮮血。
思わずひゅっと息を吸い込む。
(夢だ、夢を見ているんだ……)
思うように動かない身体で後退りしながらも、ひどく冷静にフィオリーナは思った。
「正しい神さまはただお一方だけ。正しい神さまの教えは、だからひとつだけ。それ以外は、神さまの振りをした悪い魔物が人間を騙そうとしているんだよ、おねえさま。ラクレイドにはまだ正しい神さまの教えが伝わっていないから、悪い魔物にみんなが騙されているんだ」
救わなきゃ、みんなを。それが王族の使命だもの。
ルイはとても真面目に、一生懸命そう言う。
「悪い魔物と戦い、血を流しても命を落としてもかまわない。そういう決意を固めて神様へ誓った者を『ルードラの戦士』って言うの。ぼくは五歳の誕生日に神さまの前で誓ったんだよ。史上最年少の戦士に祝福あれ、先生がそう言ってぼくを祝福して下さったんだよ」
夢の中のルイは、普段よりずっと親し気で楽しそうに見えた。
『先生』という発音に、掛け値なしの敬意、ほぼ崇拝に近い敬意がほの見える。
「おねえさまもぼくと一緒に、『ルードラの戦士』になるんだよ」
鮮血に染まった顔で、ルイはあどけなく笑う。
血まみれの指先で、フィオリーナの頬を撫ぜる。
どこかべたついた生臭い血のにおいに、フィオリーナは硬直する。何故かのどが詰まって、嫌だもやめても言えない。
ルイが憐れむように、あるいは優越感に浸っているかのように、ふっと笑う。
「嫌だなあ、おねえさま。怖いの?やっぱり僕が守らなきゃ、貴女はなんにも出来ないじゃないか」
貴女の騎士になる誓いを受け入れてよ、と、大人のような狡猾な目でルイは言う。
「ぼくは血なんか怖くない。魔物に誑かされて永遠の奴隷にされる方がずっと怖いもの。正しい教えで世界が神の園になる日まで、ぼくは戦うよ」
貴女もぼくが守るからね。
絶大な権力を誇る王が気に入った女へ夜伽を命じるような口調で、ルイは傲慢に言い切る。
退けられる可能性など微塵も感じていない。
「……ルイ!」
叫んで目が覚めた。
夜明けの青い光が、明かり取りの窓越しに差し込んでいた。




