第五章 それぞれのたたかい④
ラルーナの中心部はラクレイドの王都から南東の方角に位置し、緯度で言うならフィスタとほぼ同じである。
そもそもデュクラの国土自体、ラクレイドと神山ラクレイをはさんで位置しているものの、ラクレイドより南寄りの土地なのだ。
フィオリーナは母と一緒に、手首を戒められたまま荷馬車に乗せられ、ラルーナのデュクラ王家の別荘へと運ばれる。
幌の隙間から差し込む風は、だからかなんとなく王都より暖かいように感じるし、生臭いような湿り気も同時に感じる。これが潮のにおい、というものなのだろうか?
「ラルーナのにおいね」
母がふとつぶやく。
「もう二度と、かぐことはないと思っていたのに」
乾いた声だった。
フィオリーナは顔を上げ、母を見た。薄暗がりの中の母の顔に表情らしい表情はなかったが、何処かを真っ直ぐ見ている彼女のエメラルドの瞳に、絶望や自棄を思わせる陰りはなかった。
夜明け頃、例の船からフィオリーナと母は、ルイの護衛たちによって肩にかつぐようにして降ろされ(しっかり歩けるほど回復していなかったのもあるが、フィオリーナたちを拉致した側にこちらの体調をきちんと確かめるゆとりもなさそうだった)、幌付きの荷馬車の中へ運び込まれた。
一人につき屈強な男が二人掛かりで、一応気遣われながら運ばれたが、ほとんど積み荷の扱いと言えた。
運ばれる際、
「何卒お静かに願います、殿下方。手荒はお詫び致しますが、誓ってお命を取るようなことは致しません。しかし騒がれるようでしたら不本意ながら、もう一度眠っていただきますので」
と、ルイの護衛を務めていた男の一人、おそらくは護衛士の頭であろう者に、何の感情もない声で釘を刺された。
彼らはフード付きのマントで顔を隠すようにしている。
一応、旅の商人の荷を守る用心棒、とでもいうつもりの変装をしているようだ。
連中の言葉に従うのは業腹だったが、逆らったところで所詮丸腰の女二人、しかも身体に毒の後遺症も残っている。勝ち目はない。
扱いはともかくわざわざ拉致してきたということは、フィオリーナたちが生きていることに価値があると考えられる。
だから先方の言うように、命を取るつもりは当面ない筈だ。
ここで下手に騒いで、妙な薬で眠らされるのも利口ではない。
フィオリーナは母と二人、ただあごをしゃくって了解の旨を応える。
どこで手に入れたのか、子供用のくたびれたフード付きのマントと、汚れたぶかぶかの長靴を身に着けたルイが、気の毒そうな顔でこちらを見ているのがちらっと認められた。
旅の商人である親に連れられてきた少年、とでもいうつもりの変装なのだろうが、華奢で品が良すぎるからとても商人の子には見えない。
しかし、きちんと仕立てられた上質の子供服や繊細な造りの靴のままでは、確かにこの粗末な幌馬車の周りをうろつく訳にもゆくまい。少々わざとらしくても、そのままでいるよりはましだろう。
フィオリーナはすでに怒る気はもちろん、泣く気も笑う気もしなかった。
積み荷扱いの自分たちを含め、一連の状況があまりにも茶番で、正直なところ白け果てていた。
乾いた眼を遠くへ据え、フィオリーナはただ前を見ていた。
ふとした瞬間、ラクレイドへ帰らねばという強烈な焦燥が湧くが、そのすぐ後に『どうでもいい』という声が心のどこかから聞こえてくる。
自分の生死の意味が自分以外の者の損得でのみ測られる、深い虚しさ。
『王族』と呼ばれる身分の者の、宿命のようなものだとはわかっている。
しかしここまであからさまにされると、フィオリーナのような未熟な子供としては、虚しさのあまり白けずにはいられない。
「叔母さま。おねえさま」
おずおずと幌布をめくってルイが入ってきた。
「お手洗いは大丈夫ですか?お水と食べ物も用意したんですけど……」
返事をする気もしない。
そっぽを向くフィオリーナに代わり、母が応じる。
「お水を少しもらいましょう。渇きすぎてなんだか頭がぼんやりしてきましたから。……変な薬や毒を混入していないのならばね」
「もちろんです、もうそんなことはしません。僕も叔母さま方と同じものを食べたり飲んだりすれば、信用して下さいますか?」
「少なくとも即効性の薬ではない証拠にはなりましょうね、ただそれだけですけど。一応、あなたも一緒に同じお水を飲んで下さい」
「おかあさま!」
皮肉をにじませながらもこだわりなくルイと話す母へ、フィオリーナは咎めるように声を荒げるが母はかぶりを振る。
「少しでも早く回復して、身体から毒を出す為にはお水を飲んだ方がいいわ、フィオリーナ。……ルイに直接、確かめたいこともあるしね」
水さしとカップ、木の実の入った焼き菓子を載せた盆を手にした護衛と一緒に、ルイが再び入ってきた。
「お前は外に出ていて」
王子の言葉に一瞬眉を寄せたが、男は一礼をして出て行った。
不器用な手つきで水差しからカップに水を注ぎ、ルイはフィオリーナと母、自分の前にカップを並べる。
「あなたの前にあるカップと、わたくしかフィオリーナの前にあるカップを取り換え、まずはあなたから水を飲んで下さいな、ルイ」
小さな顔を愕然としたようにこわばらせたが、ルイは無言でフィオリーナの前にあるカップと自分のカップを取り換え、水を飲んだ。
「ただの水です。これで信じて下さいますか?」
「信じるとまでは言えませんけど、飲ませていただきましょう」
手首を戒められた状態で母は腕を伸ばしてカップを取り上げ、飲んだ。
深い息をつき、フィオリーナへほほ笑みかける。
「お飲みなさいな、フィオリーナ。身体が弱り切ってしまう前にね」
渋々腕を伸ばし、カップを取り上げる。
戒められた手首ではカップの持ち手ひとつ持つのも苦労だったが、腕を曲げて口を近付け、何とか飲むことが出来た。一口飲んだ途端、砂地に吸い込まれるように冷たい水が身体に沁みた。
悔しいくらい美味しい。瞬くうちにカップは空になった。
飲み干し、大きく息をつくフィオリーナを、ルイは嬉しそうに見た。
幌馬車はいつの間にか、小さな船着き場から出発していた。




