第五章 それぞれのたたかい①
その日の午後遅くのことだ。
予定の時間を過ぎても戻らない一行を不審に思った近衛隊が、森の湖畔へ貴い方々を迎えに行った。
幾重にも守られていた筈の、デュクラの王子とラクレイドの王妃と王女が遊びに行った湖畔。そこでのありえない惨状を目にした近衛武官たちは青ざめ、文字通り絶句するしかなかった。
【報告書】(抜粋)
〔死亡者〕
護衛官八名 近衛武官十二名 国境警備兵六名(所属・階級・氏名についての詳細は別紙に記載)
王妃付きの医官と女官各一名
死因は現在調査中だが、致命傷を負った者が見受けられず、瞳孔の状態や顔色、傷口等の所見より、何らかの中毒死が考えられる。
〔負傷者〕
なし
〔行方不明者〕
別紙に記載
王太后カタリーナは、夏宮の王妃の居間で報告書に目を通した。
王妃と王女がデュクラの王子と遊びに行ったまま帰らないという報告を受け、急いで秋宮の自室から夏宮の方へ出てきたのだ。
カタリーナは夏宮ではいつも、王妃の居間を控室代わりに使わせてもらっているのでそちらへ向かう。
王妃の居間にはすでに宰相がいて、落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返していた。
「王太后陛下……」
カタリーナの姿を見ると宰相は、目に見えてほっとした表情になった。
「話は聞きました、宰相閣下。……人払いを」
お茶の用意だけがなされ、居間の扉は閉ざされた。
「報告書にざっと目を通しましたが。平時とも思えないすさまじい惨劇の果て、王女と王妃、デュクラの王子、王子の従者すべてがいなくなった……と」
カタリーナの言葉を、震えながら宰相は諾う。
「森遊びに付き従っていたルイ殿下のお世話役二名と護衛の三名だけでなく、こちらに残っていた文官と武官もいつの間にか、忽然と姿を消していました。状況から十中八九、こちらの王妃殿下王女殿下がデュクラ側へ拉致されたと考えるべきかと」
カタリーナは思わずきつく目を閉じた。
あまりの事態に視界がグラグラ揺れるような気がした。
が、深い息を二、三度繰り返し、叫び出したくなるような荒れ狂う胸をどうにか抑え込んだ。
「デュクラ側へこのことは?」
「取り急ぎ、ラルーナにあるあちらの海軍へ鳩便を飛ばしました。使者を出す手配もしておりますが、鳩か早馬でのあちらの返答を待ってからかと」
カタリーナは奥歯を噛みしめるようにしながら考える。
「デュクラ側にとって、もしこれが予定の行動だとすれば。明確な返答はない可能性が高いでしょうね。もちろん、そちらの王女や王妃のことなど知らない、それよりこちらの王子や臣下の者を返せと言ってくる可能性もあるでしょうが。デュクラ王の性格上、そこまで大胆でふてぶてしい態度は取らないでしょうね、藪をつついて蛇を出す危惧が否めませんから」
カタリーナは一度口を閉じ、深い息をついた。
希望的観測を承知で、彼女は言葉を連ねる。
「ラクレイドの王女や王妃が邪魔なだけならば。あちらとしてもわざわざ連れ去る危険を冒す必要はないでしょう。王妃はデュクラ王の妹で、王女は姪。情からも今後の駆け引き等の利用価値からも、簡単に彼女たちを殺しはしますまい。殺害が目的ならば、おそらく今頃彼女たちは、武官たちや国境の警備兵と同じ運命をたどっていたと……」
「お、王太后陛下!」
あまりにも不吉な王太后の言葉を、宰相はあわてて遮る。カタリーナはかすかに苦く笑う。
「だから……逆に、彼女たちが見当たらないということは。彼女たちの命は守られている可能性が高い、と。そう思うのですよ、わたくしは」
ラクレイドの王女や王妃の『行方不明』こそが目的で、遺体を持ち去って闇から闇へ葬り去った……可能性から、カタリーナはあえて目をそむける。
(彼女たちは生きている。生きている、前提で今後の行動を考えましょう)
軽い気持ちで森遊びを許した自分への悔いは深いが、後悔や罪悪感にひしがれている暇などない。うずくまりたくなる心を引き立てるように、彼女は深呼吸をしてお茶を口に含む。
砂糖も蜂蜜も入れていない冷めたお茶は、苦かった。
宰相と今後の打ち合わせをし、いったん秋宮へ戻る。
隠居用の宮殿である秋宮は、こじんまりとしているが造りは丁寧で、居心地がいい。
セイイールが正式に即位して以来、カタリーナはこちらで暮らしている。
スタニエールと結婚して以来、公私なく務めてきたカタリーナだ。こちらへ移ってきて、ようやく気を抜ける穏やかな日々が送れるようになった。
浮世のあれこれは子供たちに任せて静かに余生を過ごそうと、政務や公務からは距離を置くようにしてきたが……。
自分の居間の気に入りの長椅子に座り、カタリーナは深い息をつく。
傍らの小卓には、刺繍が中途で止まったタペストリーが無造作に乗っている。
針山に刺さっている愛用の刺繍針、整然とまとめられたとりどりの刺繍糸。
優しい気持ちで再びこれらを手に出来るのは、一体いつになるだろうかとふと思う。
思った刹那、カタリーナは首を振った。気弱になっている場合ではない。
(出来ること、考え得るすべてのことに、手を尽くしましょう)
お茶でもお持ちいたしましょうか、と問う側仕えの者へ首を振る。
「侍従長を呼んで下さい」
(〔レクライエーンの目〕も使いましょう)
〔レクライエーンの目〕は、古からある王家直属の、王家の為にのみ動く非公式の特殊部隊のことだ。
諜報部隊であり、暗殺部隊でもある。
国外に関してはいまひとつ弱いものの、ラクレイド国内に関してなら彼らの諜報能力に勝る者はいない。
おそらくデュクラの一行はすでに国境を越えているだろうが、今からたどらせればかなり正確な足取りがつかめよう。
国境を越えやすくする為、ルイは王家の森の湖側……つまり国境寄りの場所へ行きたいと言ったのだろうと、カタリーナは今になって思う。
山側の国境は険しいから、あえてこちらから越える者は少ない。それ故国境警備兵の数も少ない。そこを衝かれた形だ。
越えてすぐ麓へ降り、用意しておいた船に乗れば一日ほどでラルーナに着く筈だ。
(フィオリーナ。アンジェリン……)
わななく胸を抑え、カタリーナは思わず孫娘と義理の娘の名を呼んだ。
どうぞラクレイアーンの光が二人の行く手を照らしますように、と、カタリーナは自分でも気付かないまま、神に祈っていた。
王妃と王女の不在、デュクラからの客人たちの失踪をいつまでも隠せはしない。
噂は野火のように広まり、宮廷は混乱した。
老リュクサレイノが血相を変えて秋宮のカタリーナの居間へ飛び込んできたのを皮切りに、混乱した貴人たちをなだめるだけで夜が更けてしまった。
デュクラから返答らしい返答はない。
こちらの王子の一行がラルーナへ戻るという知らせは来たが、ラクレイドの王妃と王女についての情報は持っていない。
要約するならそんな内容の返事だった。
「空とぼけおって!やっぱり異国人は信用ならん!」
「落ち着いて下さいませ。血が昇ってお身体に障りますよ、リュクサレイノ卿」
顔を真っ赤にして涙ぐむ父へ、カタリーナはたしなめるようになだめる。
「何故そんなに落ち着いていらっしゃる!」
老リュクサレイノは赤い目でカタリーナを睨む。
「デュ・ラクレイノの方は身の内に、熱い血が流れていらっしゃらないのか?血の代わりに、神山の雪解け水でも流れていらっしゃるのか?」
懐かしい罵りの言葉だ。幼かった頃を思い出す。
父と母は、あまり仲が良くなかった。
実は、父にとって王女だった母は高嶺の花であり初恋の乙女であり、崇拝する貴婦人であったのだ……とか。
新婚の頃は人に笑われるほど、父は母にぞっこんだったと聞く。
しかし二人はいつの間にかすれ違い、カタリーナに物心が付いた頃には、二人の仲はすでに冷えていた。
理詰めでたたみかける母の追及に、父はそう怒鳴って一方的に話を断ち切り、愛人を住まわせている家へと逃げて行く。
後で母が、物陰に隠れるようにして声を呑んで泣いているのを、カタリーナは何度も見かけたものだ。
幼い頃はこの怒声を聞く度に哀しくなった。
母と自分が、人間ではないと言われている気がして哀しかった。
でも。
「ではわたくしも騒ぎましょうか?叫び、罵り、恨み言を連ね……髪をかきむしり、物を壊し、暴れまわって泣き叫びましょうか?」
刃を潜めたようなカタリーナの静かな言葉に、老リュクサレイノもさすがに口をつぐむ。
「そうすれば二人が戻ってくるのなら。狂い死にするまでわたくしは暴れますよ。……戻ってくるのなら」
申し訳ありません、口が過ぎました。
老リュクサレイノは真顔でそう言い、頭を下げた。




