第四章 虚ろの玉座⑧
ガタゴト、ガタゴト、ガタゴト……耳慣れない音と、揺れ。
フィオリーナはうつ伏せに横たわっている。
身体の下が硬い。
地面の上ではなさそうだが、硬く冷たいこの感触は何だろう?
「あ、おねえさま。もう気が付いたの?」
聞き覚えのある幼い声。ルイだ。
「すごーい。大人のアンジェリン叔母さまでもまだお目が覚めないのに。おねえさまはやっぱり、ライオナール殿下の子供だね。ライオナール殿下はこの毒を塗った矢を腕に受けたのに、お亡くなりになるまで三日かかったんだって。きっとラクレイド王家かリュクサレイノ家のお血筋の方は、この毒にタイセイがあるんだね」
先生が知ったら、きっと目の色変えちゃうね。
そんなことを言って笑うルイの声が、靄のかかったような頭にガンガン響く。
身体中が重い。
何とか首を上げ、辺りを見回す。
薄暗くてよく見えないが、しゃがんでいるらしい小さな人影がルイだろう。
「ルイ……」
呼びかける声が枯れている。変な感じにのどが引きつる。
「まだ動いたりしゃべったりしない方がいいよ、おねえさま。解毒剤を注射しているけど、完全に解毒するのはもっと後になる筈だからね」
チュウシャ、とフィオリーナは茫然とルイの言葉を繰り返す。
博物学の教授から、そういう名前の新しい医療技術があるらしいことは聞きかじった覚えがある。
が……そんな言葉が何故今この時に、出てくるのだ?
ルイは一体何を言っているのだ?
霞のかかっている頭でなくても、フィオリーナには何もかもが理解できない。
「でも安心して。この解毒剤は本当に良く効くから。お船に乗る頃には頭もはっきりしてくるよ。ぼくも一度、練習中に間違って傷から毒が入ったことがあるんだけど、解毒剤を打って治したんだよ。半日寝てたら治ったよ」
「ルイ!」
詳しいことはわからなくても、ルイが異常なことを言っているのだけはわかった。
起き上がろうとして目が回る。ひどい眩暈のせいで戻しそうになった。慌てて頭を下げ、身体から力を抜いた。
「動いちゃ駄目だってば。気分悪くなって吐いちゃうよ」
目を閉じていても身体を強く前後に揺さぶられているような感覚があり、本当に気分が悪い。
「大人しくじっとしてたら楽になってくるよ。ぼくもそうだったから」
あどけない声で何でもないことのように、ルイは言って笑う。
「嬉しいな。これからぼく、ずっとおねえさまと一緒だね。一緒にラルーナで暮らして、大人になったら結婚して……ぼくらは一緒にデュクラとラクレイドの王様になって、同じルードラの王国の一員として神様に仕えて暮らすんだね」
まるで森遊びの話をする時のように楽しげに、ルイは、ルイとルイの周りではすでに決まっているであろう計画を話している……らしい。
(ルイ!ルイ!)
これは一体何なのだ?
何がどうなっているのだ?
悪夢、なのか?
実はまだ夜が明けていなくて、寝台の中でうなされているのか?
でもこんな悪夢、ひどい、ひどすぎる!
ガタゴト、ガタゴト、ガタゴト……と音は響き続ける。
揺れるせいか、ますます気分が悪くなってきた。フィオリーナはぐったりしたまま、ぎゅっとまぶたを閉ざした。
くやしさと情けなさに、知らず知らずのうちに涙が浮いてくる。
「お……おねえさま。大丈夫だよ、怖くないよ。泣かないで、おねえさま」
ややうろたえたようなルイの声。
逡巡した気配の後、おずおずと手が伸びてきて、フィオリーナの髪をそっと撫ぜた。
「ごめんなさい。怖い思いさせてごめんなさい、おねえさま。でも、ぼくはルードラの戦士だから。おねえさまを騙してでも連れてくるのが、今回のぼくのシメイだから……」
ルイの声が不意にうるんだ。
ささやくような声音で、彼は必死に言葉を連ねる。
「でも、ぼくがおねえさまのこと好きなのは本当だよ。おねえさまが『フィオリーナ王女殿下』で、ぼくは本当に嬉しかったんだ。一目でおねえさまのこと、大好きになったんだよ」
小さな手が優しくそっと、フィオリーナの髪を撫ぜ続ける。
「ルードラの教えでは、それぞれを同じように愛する自信のある男は、三人まで妻を持っていいってことになってるけど。ぼくは、おねえさまだけをお嫁さんに迎えるつもりだよ。おねえさまがぼくのお嫁さんになる時に、ラクレイドのしきたり通り、チュウセイを誓ってもいいよ」
『お前に忠誠を誓いたがる男の一人や二人や三人、すぐに現れるさ』
在りし日の父の言葉が、不意に思い出される。
(おとうさま、おとうさま、おとうさま!)
心の中でフィオリーナは叫ぶ。
ガタゴト響く音を聞いているうちに、フィオリーナの意識は再び曖昧になっていった。
次に意識がはっきりしたのは、小さな船の底、船倉らしい部分でだった。
湿ったような匂いのする木箱らしいものに、もたれかかるように座らされていて、手首と足首が戒められていた。
右のてのひらと手首に、真新しい白い包帯が巻かれていた。
天井に小さなランタンが吊るされ、船が傾ぐ度に灯りが揺れた。
斜め向かい側にぼんやりしている母が座らされていて……彼女もフィオリーナと同じように手足を戒められ、手首に包帯が巻かれていた。
「ここは……何処?」
母の声に、フィオリーナは顔を上げた。
目が合うと、母はまじまじとフィオリーナの顔を見つめた。
「フィオリーナ……」
名前を呼んだ途端、母の目に生気が戻った。動こうとして初めて母は、手足の戒めに気付いた様子だった。
「ちょっと……何?これは。どうしてこんな……」
「わたしだってよくわからないけど」
むっつりとフィオリーナは言う。
口の中が変にねばついたようで不快だ。
「ルイに騙されて毒を盛られ、連れてこられたみたいね」
母は言葉もなくフィオリーナを見つめた。彼女が何をどう判断したのかわからないが、不意に高い声で笑い始めた。
「おかあさま!」
腹が立ったのと恐ろしいのとで、きつい声でフィオリーナは母を呼んだ。
彼女は笑い過ぎてにじんだ涙を肩でぬぐい、息を調える。
「ごめんなさい、フィオリーナ。つながった、つながったわ、すべてが」
背を伸ばした母の瞳が強く輝く。何となく、カタリーナお祖母さまを思わせるまなざしだった。
「デュクラはすでに滅んでいたのね。いいえ、自ら望んで滅んだのよ。自分の子供、それも年端もいかない幼子にこんなことをさせるなんて……」
一度目を閉じ、母は大きく息をついた。
「デュクラ王 ピエール・ドゥ・デュクラータン。あなたは最早、わたくしの兄でもなければ一国の王でもない。最低の卑怯者だわ」




