第四章 虚ろの玉座⑦
その当日。
フィオリーナは母やルイと同じ馬車で揺られながら、森遊びへと向かった。
ルイと初めて会ったあの日以来、母は目に見えて回復してきた。
少なくとも一日寝台に横たわっているような状態は脱した。
居間で本を読んだり、刺繍や編み物などの手仕事をして過ごすようになった母へ、ルイは熱心に誘った。
「アンジェリン叔母さまも一緒に行きませんか?ちょっと寒いけど、森の空気は美味しいですよ。ぼくは森へ遊びに行くと、いつもすごく元気になるんです。きっと叔母さまも元気になられますよ」
いつもは必要以上に自分を抑えている、幼い甥っ子の健気で愛らしいお願い。母は簡単に屈した。
渋る侍医を説得し、身体が冷えないよう十分あたたかくして、歩くとしても無理のない範囲での散策、基本は馬車の中や火のそばで休んでいるならという条件付きで、外出許可をもぎ取った。
森遊びが決まってからルイは、ずっとそわそわと落ち着きがなかった。
森で食べるおやつは木の実のたっぷり入った焼き菓子がいい、とか、火を焚いてお茶を沸かして飲みたい、とか、上ずった声であれこれ大人たちへ言っていた。
「嬉しいな。ぼく、デュランタの麓の、反対側の森へ行ってみたいなってずっと思ってたんです。ラルーナの端っこはデュランタの麓だから、小さい頃から何回も森遊びに行ってるんですよ。だからぼく、ラクレイド側の森へも行ってみたいなあって……」
『デュランタ』は、あちらでの神山ラクレイの呼び方だ。『デュクラ最高峰』とでもいう意味合いになる。
ルイは急に、はっとしたような顔になった。
「あ、ラクレイドでは『ラクレイ』って呼ばなきゃいけないんですよね?」
神様のお山だし、と顔をこわばらせるルイの生真面目さに、フィオリーナは思わず笑ってしまった。
「そんなに気を遣わなくてもいいのよ、ルイ。デュランタでもラクレイでも、どちらでも呼びやすい方でいいんじゃなくて?どちらの名前も正しいんですもの、どちらで呼ばれてもお山は怒ったりなさらないわ」
どちらも正しい、と、ルイは目を伏せてつぶやく。
屈託のある苦みの影がふと、彼の幼い、白く端正な面にかすめる。
「ルイ?」
子供らしからぬ陰りを怪訝に思い、フィオリーナは幼い従弟へ呼びかけた。途端にルイは、不自然なほど綺麗な、満面の笑顔でフィオリーナを見上げた。
「なあに、おねえさま?」
さっきの陰りは見間違いだったのではと思うような、いかにも外出が楽しみで浮かれている七歳の少年の笑顔だ。フィオリーナは口ごもる。
「……いいえ。別に、何でもないわ」
午よりかなり前に森に着いた。
王家の森で一番大きな湖には、すでに鴨や雁が渡ってきている。
馬車と馬の気配に驚いたのか、鳥たちは次々と水面を蹴って飛び立った。
「あ、羽根がいっぱい落ちてる!」
馬車の窓から乗り出すように外を見ていたルイが、はしゃいだ声で叫んだ。
湖のそばには大きな四阿が設えられている。馬の為の水飲み場もある。
こちらにはフィオリーナが『学友』たちと遠乗りに出かけた場所と、ほぼ同じ施設が整えられている。
鴨猟が解禁されると貴族の子弟は我先に宮廷へ届けを出し、ここで猟を楽しむのが昔からの晩秋の風物詩だ。その時に、休憩したり馬を休ませたりする為に造られたそうだ。
馬車が止まると、待ち構えていたようにルイは外へ飛び出す。
馬で付き従っていたルイの護衛二人が、きびきびとした動作で下馬して従い、ラクレイドの近衛武官は散開して辺りの哨戒や護衛を始める。
フィオリーナと母も馬車を降りる。
やはり馬で付き従っていたデュラン護衛官とその部下が、ゆるく二人を囲んで守る。
「ものものしいわね。異国の王子と一緒だから当然でしょうけど」
思わずフィオリーナがぼやくと、デュランはかすかに苦笑する。
「申し訳ありません。いつもならもっとさり気なく護衛の任に着くのですが。デュクラの方に安心感を持っていただく為、あえてこういうわかりやすい行動を取ることに致しました」
「わかっていますよ。ご苦労様です」
母がねぎらうと、もったいないお言葉ですとデュランは頭を下げた。
最もルイは、護衛の大人たちがうろうろしていても関係なさそうだった。
彼の瞳には地面を覆っている赤や黄の落ち葉、その落ち葉の陰にちらりと見かける鳥の羽根しか映っていないようだ。
「おねえさまおねえさま!ものすごく大きなどんぐりがあるよ!栗の実くらい大きいよ!」
はしゃいだルイの声が晩秋の澄んだ空気に響く。
そちらへ向かって返事をしながら、フィオリーナは思わず何度も深い呼吸をする。
芳しい森の空気が身の内側を洗う。
来て良かった、としみじみ思った。
「来て良かったわ」
母のつぶやきにフィオリーナは足を止め、振り返った。目が合い、母とほほ笑み合う。
次の瞬間、のどに何かがせり上がってきた。不意に視界がうるんでゆがむ。
フィオリーナは困惑し、あわてて前を向くと目をしばたたき、急ぎ足でルイを追った。
別になんてことのない、あたたかくさり気ない、母と娘の普通のやり取り。
それがあまりに久しぶりだったせいか、フィオリーナは胸がつまった。
流れるように自然な、あまりにも普通の親子のやり取り。
慣れなくて胸がつまった。
両のてのひらいっぱいに戦利品を乗せ、ルイはひょこひょこと歩いてくる。
頬は薔薇色に染まり、瞳はキラキラと輝いていた。
「見て見て、ほら!」
差し出すひときわ大きなどんぐりの実へ、フィオリーナは手を伸ばす。
「痛っ」
どんぐりの先が思ったより尖っていたらしい。不用意に伸ばしたてのひらへ、気が急いていたのか押し付けるようにルイはどんぐりを置いた。ちくっとした痛みに思わず手を引っ込める。どんぐりは枯れ葉の陰に転がり落ちた。
「あ、ごめんなさい。痛かった?手は大丈夫?」
ルイの声に、フィオリーナはてのひらを見る。思いがけなく血がにじんでいた。
「わ、大変!ばあや!ばあや!おねえさまが怪我を……」
戦利品をその場にぶちまけるようにして、ルイは馬車の方へ走り出した。
「ちょ、ちょっと。ルイ、待って!」
大袈裟にしたくない、かすり傷なのだから。
慌ててルイを追って走り出したが、何故かぐらりと視界が揺れた。
「姫殿下!」
焦ったようなデュラン護衛官の声を最後に、フィオリーナの意識は曖昧になった。




