第四章 虚ろの玉座⑥
愛らしいデュクラの王子は、瞬くうちにラクレイドの宮廷人たちの心をつかんでしまった。
まずは病の母の心を融かした。
フィオリーナと対面した後、ルイは王妃の居間にいる母へ挨拶することになった。
部屋着の上にショールを羽織った母が、安楽椅子に座って待っていた。
デュクラからルイが来ると聞いて以来、母の病状は少しずつ上向いている。最近では起きている時間も増えてきたのだそうだ。
デュクラから見捨てられた訳ではない、と思えたからかもしれない。
いかにもデュクラータンの血を感じさせる髪と瞳の少年に、彼女はまず目を見張った。
高く可愛らしい子供の声で、ルイは一生懸命、デュクラ語で挨拶と見舞いの言葉を述べた。その姿に母は瞳を潤ませる。
「まあ。髪の色といい瞳といい鼻の頭のそばかすといい、あなたはおとうさまに生き写しね、ルイ」
上ずったような声で母は、デュクラ語でそう言った。
「はい。よく言われます。ぼくは子供の頃の父上にそっくりだそうです」
「でもあなたは、おとうさまがお小さい頃よりずっとしっかりなさっているわね。普段はラルーナでお暮しなんでしょう?お寂しくない?」
「寂しくなくはないですけど、ぼくはラルーナが好きです。お魚も美味しいですし」
母が不意に声を上げて笑ったので、フィオリーナは本気で驚いた。楽しそうに声を上げて笑う母を見たのは、実に実に久しぶりだ。
口許にいつも優しげなほほ笑みを浮かべている母だったが、高い声を上げて笑うことは滅多になかった。フィオリーナの記憶の中にも、声を上げて笑う母の姿はほとんどない。
「そうそう、そうね。確かにラルーナのお魚は絶品ね。デュクラでも、内陸の王都じゃ干物くらいしか食べられないものね。海で獲れた新鮮なお魚でなければ、生では食べられないわよね」
「お魚を、生で食べるの?」
気味悪そうに眉をひそめるフィオリーナへ、母はほほ笑んだまま視線を向けた。
「そうよ。うんと新鮮なものじゃないととてもそんな食べ方は出来ないけど、お魚の一番美味しい食べ方はやっぱり、生でしょうね。一は生で、二は焼いて、捨てるくらいなら煮込んで食べろ。それがラルーナで言われている魚の食べ方よ」
咄嗟にフィオリーナの頭の中で、獣のように生魚を丸かぶりしている母とルイの姿が浮かび、おぞましさに鳥肌が立った。
「わ、わたしは焼くか、煮込んでからいただくわ」
粟立つ腕をさり気なくさすりながら横を向くフィオリーナの顔を、ルイが覗き込んできた。
「おねえさま。ひょっとして、何かすごい勘違いしてらっしゃらない?お魚は当然料理人が、鱗も皮も内臓もちゃんと取って、食べやすい大きさに切り分けて、油やお酢、柑橘のしぼり汁なんかで軽く和えるんだよ?」
「あ……そ、そう、なの?」
おぞましさは少し和らいだが、やはり生魚は勘弁してほしいとフィオリーナは思った。
「薄切りの生玉ねぎとよく合って、とても美味しいのよ、フィオリーナ。機会があったらフィオリーナも食べてごらんなさいな」
懐かしいわね、ラルーナへ遊びに行くと真鯛を食べるのが楽しみだったわ、と、遠い目をして母はつぶやく。
「あ、でも。ぼくは玉ねぎが苦手なんです……生じゃないのなら食べられますけど」
もぞもぞときまり悪そうに口を濁すルイの様子に、母が再び楽しそうに笑った。
(おかあさまって。こんなに楽しそうに笑うんだ……)
フィオリーナは茫然と、いつになく楽しそうな母と、母につられてにこにこしているルイを見つめる。
自分だけが取り残されたような、何とも言えない寂しさを持て余した。
『私的に』という建前であるので、ルイは基本、王家の客人として春宮で過ごすことになっている。
予定として彼は、五日から六日ほど滞在することになっている。
しかしその期間、遊んでいられる訳ではない。
保守派の貴族たちを中心に三々五々、それとなく春宮へご機嫌伺いにやってくるから、部屋でのんびり寛ぐことすらなかなか出来ない状況だった。
祖父母の世代のおじさまおばさまたちを相手に、ルイはよく頑張っていた。
たどたどしさは残るものの、綺麗なラクレイド語を話すデュクラの王子。
利発だがわがままでも生意気でもなく、一生懸命『デュクラの王子』としての役目を果たそうと努めている姿。
その健気な愛らしさに、ラクレイドの貴人たちは皆、夢中になった。
「あの幼さであれだけの、王家の者としてお覚悟。かの方がデュクラ王になられる日を、待ち遠しいとすら私は思いますな。おそらくこの先、ラクレイドとデュクラは安泰でありましょう。この爺も、ようやく安心して死ねそうな気がいたします」
リュクサレイノの曾祖父さまはそう言い、軽く涙ぐんだ。
しかし三日目になると、ルイの表情にも疲れの気配が見えてきた。
「無理しなくてもいいのよ、ルイ。疲れたでしょう?」
一緒にお茶を飲みながら、フィオリーナは言う。ルイは、ややこわばっているものの笑みを作った。
「ありがとう、おねえさま。でも、ぼくはデュクラの王子だもの。お役目はちゃんと果たさないと……」
「お役目ならもう十分よ」
フィオリーナは思わずそう言う。
「せっかくラクレイドに来たのに、おじさまたちの顔を見るだけじゃつまらないでしょう?明日か明後日は面会を断って、一日ルイの好きなことをしましょうよ。何がしたい?乗馬?」
「乗馬がしたいのはフィオリーナでしょう?」
微苦笑を浮かべてたしなめるのは、同席していたカタリーナお祖母さまだ。
「でもルイ殿下がお疲れなのは明らかですね。今日の午後以降と明日は静養していただいて、明後日に城下町の散策でもしていただく……と。そんな感じでお過ごしになっては如何でしょうか?」
「え、でも。いいのですか、その……ぼくにはお務めがあるのに、休んだり遊んだりして……」
おどおどと目を泳がす小さな従弟へ、フィオリーナはあえて強く言う。
「構うものですか、もう十分お役目は果たしてるってば。ルイはいい子過ぎるのよ、ちょっとくらいわがままを言ってちょうどいいくらいだわ」
その刹那、ルイの瞳が何故か異様に輝いた。
フィオリーナが違和感を持つか否かの瞬間に、屈託のない満面の笑みをルイは浮かべた。
「ホント?ホントにわがまま言ってもいいの?」
「も、もちろんよ。何かやりたいことがあるの?」
あまりにも嬉しそうなルイに、フィオリーナはややたじろいた。
「ぼく、王家の森の方へ行ってみたいなって思っていたんです。今の時期って、湖に鴨が来るのでしょう?ぼく、綺麗な鳥の羽とか、赤や黄色の落ち葉とか、集めるの好きなんです!」
勢い込んでそう言った後、ルイは頬を赤らめた。
「あ、でも。やっぱりわがまますぎますよね」
カタリーナお祖母さまが少し考える。
「明後日ならば……手配出来るのじゃないでしょうか。午前中だけ王家の森の湖周辺への出入りを禁じれば、安心して遊ぶことが出来るでしょう。鴨猟の解禁までまだ少し間がありますし」
カタリーナお祖母さまはほほ笑む。
「そうね。城下町の散策より森遊びの方が、ずっと殿下のお心が癒されるでしょう。早速手配させましょう」
「ありがとうございます、王太后陛下!」
小躍りせんばかりに喜ぶルイはほほ笑ましかったが、フィオリーナの胸の隅に何故か、かすかな違和感がもやもやとわだかまるのは否めなかった。




