第四章 虚ろの玉座⑤
それからしばらく後。
レライアーノ公爵の失踪が公然の秘密になり、その理由についての噂も落ち着き始めた頃だった。
春宮へ、リュクサレイノの曾祖父さまと宰相が連れ立ってやってきた。
「ご機嫌伺いとご相談があって参りました、王女殿下」
にこにこしながら曾祖父さまが言う。窓の外は寒風が吹きすさんでいるが、曾祖父さまには関係なさそうだ。頬は桃色で瞳にも力がある。
「殿下の即位宣言の件ですが、年明けすぐに行いたいと考えております。よろしいでしょうか?」
父親のたたずまいとは違い、ほぼ無表情な宰相の言葉。
一瞬息を呑むが、時期も内容も想定していたことだ。
フィオリーナは笑みを作ってうなずく。
「そうなると殿下はますますお忙しくなられましょう。特に年末の一ヶ月ばかりは、常になくお忙しいのを覚悟していただかなくてはなりますまい」
曾祖父さまは鹿爪らしく言った後、孫へ贈り物を差し出す好々爺のような笑みを浮かべた。
「殿下。その前祝いにと、お従弟様に来ていただけそうな話がありますぞ」
『従弟』と聞いた瞬間、フィオリーナはレライアーノ公爵家の従姉弟達のことかと思った。
が、曾祖父さまならそんな表現はしない筈だとすぐ思い直した。
彼は、ポリアーナやシラノールを『レライアーノ公爵家のお子方』という、非礼にならない程度に素っ気ない呼び方しか絶対しない。
ほとんど子供じみているくらい頑なに、だ。
たまさか当人たちへ話しかける場合は、『公女様』『公子様』とだけ彼は呼んだ。
決して礼を失してはいないが、彼の声音も態度も幼い子供へ対するにしては冷たかった。
あからさまに言うのなら、慇懃無礼な態度に終始してきたと言える。
曾祖父さまは続ける。
「実はデュクラの王子でいらっしゃるルイ殿下から、セイイール陛下のお悔やみとフィオリーナ殿下の即位宣言のお祝いを直接述べたいので、近いうちにそちらを訪ねたいという打診がありました。ごく私的な、少人数での非公式の訪問を考えているそうです。あちらも、将来の国主たるお二人が早くから知り合い、気心を通じ合わせてほしいという思いがあるようですな。悪い話ではありますまい、ルイ殿下は姫の母君さまの甥御にあたられる方。久し振りにデュクラのお身内に会えば、アンジェリン殿下もお心が慰められましょう」
フィオリーナは自室にこもっている母を思う。
相変わらず体調がすっきりせず、未だに寝たり起きたりを繰り返している。
この病は要するに、気鬱からくる病であろう。デュクラの身内が来れば彼女も気が変わり、ひょっとすると体調が好転するかもしれない。
曾祖父さまの言葉の端々にも、そんな慮りがなくもなかった。
しかし、フィオリーナの胸の中で何かがやもやとわだかまった。
まだ幼いデュクラの王子が、友好国とはいえ混乱が否めない王亡き隣国へ、中途半端なこの時期に公式の用でなく訪問してくる。
上手く言えないが、状況が不自然だ。
こんな落ち付かない時期ではなく、むしろ一年後の正式な即位式の時に国賓として訪問してくる方が、よほど自然ではないだろうか?
ラクレイド王家とデュクラ王家は確かに縁が深い。
が、十年ほど前、あちらの要請を受けて友軍の将として出征した王太子が戦死して以来、公的にはともかく私的に親しく行き来するほどの間柄ではない、というのが正直なところだ。
「ルイ殿下がわざわざこちらへ来てくれるの?それも、少人数で私的に?」
フィオリーナの問いに、宰相がうなずく。
「ええ。かの方は御幼少で、それも事実上の王太子殿下ですから、長くお国を離れることは出来ますまい。こちらはこちらでそもそも喪中、あちらもラクレイドに長居なさるおつもりは端からないでしょう。ならば非公式の、ごく私的な訪問という形の方がお互いに面倒がない、という判断のようですね」
淡々と説明する宰相の言葉の後を、曾祖父さまが引き取る。
「要するに、先々を見据えた顔つなぎという訳ですよ。お二人が直にお会いする機会は、今後も決して多いとは言えますまい。しかしながら、古くからの友好国である二つの国の国主同士が、互いに顔も見たことがないでは今後何かと不都合も生じてきましょう。あちらからの文書にもその懸念がほの見えました。そちらのフィオリーナ殿下が忙しくなられる前に、一度お会いする機会を持っていただけないかと言ってきたのです。どうでしょう、殿下。せっかくあちらから言ってきたのです、デュクラの未来の国王陛下とお会いになっては?」
そう言われれば退けるほどの理由もない。
友好国との親善は、王家の者の義務でもある。
昨今のデュクラにきな臭さがないといえば嘘になるが、ラクレイド側に今、デュクラともめる必要性はまったくない。
むしろデュクラがデュクラのままならば、同盟は更に強化すべきだ。
あちらもそういう機微を見越し、あえて今、ルイを寄越すのかもしれない。
つまり、王太子に準じる王子をこんな時期に無造作に訪問させるくらい、こちらはラクレイドを信頼していますよという無言のほのめかしだ。
ラクレイドの王太子が戦死して以来、なんとなくわだかまりが出来て疎遠になってしまった縁を、次世代では結び直したいという思惑。
その辺りがデュクラ側の意図なのだろう。
フィオリーナは大人たちへうなずいた。
「わかりました。ではデュクラからのお客様を迎える準備をお願いします。多分、客人の為に冬宮を開ける程でもないでしょうから、春宮の客間を幾つか準備すればいいでしょう。侍従長や女官長とよく諮って下さいな」
御心のままに、と大人たちは頭を下げた。
デュクラからルイがやって来た。
事前に打ち合わせていたように、お付きの文官の他はお世話係と護衛程度の、十人ばかりの少人数だった。
曾祖父さまの話から十日も経っていない。
あちらからの移動を含めて考えると、ずいぶん短期間だ。
ルイは普段、ラクレイドとの国境に近い港町ラルーナにいることはフィオリーナも知っていたし、船や馬車を使えばそちらからラクレイドの王都まで五日から六日の旅程だから、別に不審というほどでもない。
ないが、水面下で準備が進んでいたのだろうことを含め、ぼんやり嫌な感じがする。
「お初にお目にかかります、フィオリーナ王女殿下。ぼくはルイ・ドゥ・デュクラータンと申します。デュクラ王ピエールの息子です、今後ともよろしくお願いいたします」
大人たちの思惑はともかく。
たどたどしさの残るラクレイド語で一生懸命に挨拶する七歳の少年は、フィオリーナの母とよく似た縮れた赤い髪で、エメラルドの輝きに似た緑の瞳はキラキラしていた。
カメオ細工の乙女を思わせる白い顔は緊張でややこわばり、頬と耳が赤かった。
繊細な造作の顔立ちだったが、鼻の辺りに少しそばかすが散っている。
そこが何とも言えない愛嬌になっていて、完璧すぎる冷たい美貌を、いい意味で崩していた。
彼は細くて小さな身体を、素っ気ない白いレースの縁かがり程度の装飾しかない、黒ずくめの衣装で包んでいる。
こちらの喪に配慮しての装いだろうが、幼い子供の黒ずくめは、なんとなく痛々しかった。
「ようこそお越しくださいました。わたくしはフィオリーナ・デュ・ラク・ラクレイノ。セイイールの娘です」
フィオリーナが返すと、ルイは少し気弱そうに笑んだ。
「ぼくのラクレイド語、通じますか?」
「ええ。とても綺麗な発音ですよ」
社交辞令的に返した後、フィオリーナは少し考え、思い切ってデュクラ語でこう言った。
「よろしければデュクラ語で話して下さいませ。後であなたにわたくしの母を紹介させていただきますが、デュクラ語で話して下さった方が、おそらく母も喜ぶでしょう」
ルイはまんまるに目を見開いた。
「王女殿下!とても綺麗なデュクラ語ですね!」
よほど驚いたのか、彼はデュクラ語で叫ぶようにそう言った。
「おそれいります。実は先王である父に、お前の母はデュクラから来られた方、母方の御親戚に失礼が無いよう綺麗なデュクラ語を話せるようになりなさいと、物心がつく頃から躾けられて参りましたので」
そこでフィオリーナは、王女としてのかしこまった表情を崩し、いたずらっぽく笑ってみせた。
「フィオリーナで結構ですよ、ルイ殿下。お嫌でなければ、あなたのことはルイさまとお呼びしてもよろしいでしょうか?わたくしのことはフィオリーナとお呼び下さい。今回あなたは、こちらへは私的に、つまり遊びにいらっしゃったのでしょう?親戚の家へ遊びに来たつもりで、どうぞ寛いで滞在なさって下さいませ」
「ルイでかまいません、フィオリーナさま。ぼくの方が小さいんですから、『さま』はいりません」
真剣な顔でそう言う幼い従弟に、フィオリーナは思わず笑みを誘われた。
「そうですか?では、ルイとお呼びいたしましょう。……いいえ。わたしたちは従姉弟なんですもの、かしこまりすぎるのも窮屈ね。もっと肩の力を抜いた話し方をしましょう。……はじめまして、ルイ。これからよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします、フィオリーナさま」
応えた後、ルイは逡巡するように一瞬目を伏せたが、顔を上げると思い切ったようにこう言った。
「失礼でないなら、フィオリーナさまをおねえさまって呼んでいいですか?ぼく、前から兄弟、それもおねえさまが欲しいなって思っていたんです」
可愛らしいお願いだ。フィオリーナは笑みを深める。
「ええ。かまわないわよ。わたしもちょうど、可愛い弟が欲しかったの」




