第四章 虚ろの玉座④
「おかあさま。お加減は如何ですか?」
お祖母さまと午後を過ごした後、フィオリーナは母を訪ねた。
寝台に横たわっていた母は、フィオリーナを見るとほほ笑んで半身を起こす。
「心配かけてごめんなさいね、フィオリーナ。昨日よりはずいぶんと楽よ」
そう言うが、母の瞳はやはりどこか虚ろだ。
「すっかり仕事を怠けてしまっているわね。気になってはいるのですけど、思うように身体が動かなくて」
フィオリーナは思わず母の手を取る。
母が、少し驚いたようにフィオリーナを見た。
そう言えばフィオリーナの方から母の手を取らなくなって久しい。
成長したからでもあるが、フィオリーナがここ最近、それとなく母から距離を置いていたからでもある。
「お疲れがたまっているのですよ、おかあさま。少しくらいお仕事を休んだって、後でいくらでも取り返しがつきます。わたくしだって、今までみたいに春宮でのんびりしているだけじゃないわ。出来るだけおかあさまの手助けを致しますし、お祖母さまだって手伝って下さいます。だから……」
そうね、ありがとうとつぶやいたものの、母の瞳に力は戻らない。
自分の居間に戻り、長椅子に沈み込むようにして座る。
すぐにジャスティン夫人がお茶を持ってきてくれた。
「ありがとう、乳母や」
「母君さまのお加減は……」
問いかけたもののフィオリーナの暗い目を見て察したのか、ジャスティン夫人は語尾を濁して小さくため息をつき、目礼して下がった。
蜂蜜を多めに入れ、のろのろとカップを取り上げる。
お茶の渋みを和らげる蜂蜜の香りと甘みが身に沁みる。思わずほうっと深い息をついてしまった。
お茶へ蜂蜜を多めに落とすようになったのは最近だ。甘みに心がなだめられるのだと知ったのも。
(疲れた……)
口に出して言ってはならない言葉を、胸の中でこっそりつぶやく。
騒々しい気配と時折高く響く声が、急にこちらへ近付いて来る。
訪問を告げる声に、フィオリーナは身構える。
基本は善意で動いている(のだろう、彼としては)のに、フィオリーナにとって十全の信頼が置けない、リュクサレイノの曾祖父さまが来たのだ。
(だけど考えてみれば。十全の信頼を置ける人なんて、今のわたしの周りには誰もいないのかもしれないわね……)
思い、苦く笑う。
これが王という者のさだめなのだろう。
「王女殿下。フィオリーナ姫。ご機嫌は如何でございましょうか?」
妙につやつやした血色のいい頬で、焦げ茶の高襟の服をきちんと着た曾祖父さまは挨拶する。
「正直に言ってよろしいのでしたら、あまり良くないわ。曾祖父さまはご機嫌よろしゅう」
皮肉を込めて言うが、彼には十分伝わっていない様子だ。
「おやおや、いけませんなあ。まあ、母君さまのことが気がかりでしょうから、当然でありますね」
殊勝そうに眉を寄せるが、高揚した気分は隠せていない。
お座りになって下さい、とフィオリーナが言うと、彼は嬉しそうにフィオリーナの向かい側の席に着く。
「母君さまのご心痛はまもなく晴れますよ」
給仕されたお茶へ牛乳と蜂蜜を入れ、美味しそうに飲んでから彼は言う。
「実は、私はあれからデュクラのチュラタン卿にそれとなくあちらの様子をうかがったのですが。デュクラの宮廷にこれという変化は見られないようですぞ。いよいよあの情報が、レライアーノ公爵の悪質な嘘であることがはっきりしてきました。でたらめだとの確証が持て次第、アンジェリン殿下へその旨をお伝え致します。そうすれば母君さまもきっと、元気を取り戻されましょう」
「そうね、もしそうならば」
含みを持たせた返事をしながら、フィオリーナは自分が嫌になる。
父が存命であったならもっとあからさまに言いたいことが言えるのに、と思い、自分がいかに父に守られていたのかを痛感する。
「フィオリーナ姫。いえ、王女殿下」
曾祖父さまはふと頬を引く。
「色々と物思いをなさることも多いでしょうが、貴女様には多くの味方がついておりますよ」
フィオリーナは無言で曾祖父の瞳を見返す。
彼は真顔で言葉を続ける。
「こんな状況です、すぐに落ち着くことはないでしょう。ですが、なにとぞお心を楽になさって下さい。貴女様のご心痛の種、厄介ごとのあれこれは、我々と王太后陛下にお任せ下さい。フィオリーナ殿下の未来に禍根を残すようなことなど、我らは決して致しません。この爺の無駄に長生きした命、無駄なままで終わらせは致しません。亡きセイイール陛下の亡骸を前にした時、私は誓いました。フィオリーナ殿下の御為に、私の残りの命すべてを捧げます、と……」
(曾祖父さま……)
彼の青い瞳は真面目で真剣だった。
フィオリーナのよく知る、曾孫を溺愛している一曾祖父の瞳でもあった。
本気なのだ、彼は。
自身と自身の勢力の為だけでなく、本気でフィオリーナの未来、フィオリーナの治世に幸多かれと思っているのだ。
皮肉でも取りつくろいでもない笑みが、ふとフィオリーナの頬に浮かぶ。
「ええ……ありがとう、曾祖父さま」
だけど残念ながら、本気の思いだけで現実が変わる訳ではない。
お祖母さまから預かった書類の写しを、フィオリーナはその夜、寝室の小卓の上へ広げた。
素っ気ない硬い文章で、緻密に綴られた公的な書類だ。
まだ子供のフィオリーナが読み解くのはひどく骨が折れた。
お祖母さまが今日の午後、かいつまんで簡潔に要点を説明して下さっていたので、なんとか読み取れたが。
(要するに……)
一通り目を通し、フィオリーナはため息をつく。
集中して小難しい文章を読んだせいか、頭が痛くなってきた。寝台に寝転び、苦労して拾い上げた情報を整理してゆく。
デュクラはフィオリーナが生まれるかなり前から、あちこちで起こっていた内乱に悩まされていた様子。
ルードラントーからの侵略がここ三、四年ほど前に本格的に始まり、更に疲弊している。
デュクラの現王であるピエール陛下は、強い求心力で臣下を率いる王というよりも、臣下たちの主張や思惑を汲み上げ、調整することで宮廷を運営する王だ。
もちろん決して悪いやり方ではないが、比較的若い王であることもあって、臣下に甘くみられている傾向も否めない。
デュクラは昨今、長く断続的に続いてきた戦いに倦み、宮廷にも国内にも厭戦気分がはびこっている。
散々叩かれた後にルードラ側から示された不平等な和平案を、この国情故に呑まざるを得なかった部分がある。
ルードラントー側について言うのなら。
現王は老齢期を迎えていたが、跡取りに恵まれていない。
目をかけていた優秀な息子は早死にし、それ以外の息子は王としても宗教指導者としても弱い。
そもそも現王があまりにも突出した存在だったので、彼に頼り切る雰囲気がかの国には蔓延している。
それ故、現王以外では国がまとまらないという弊害が、時代が進むにつれ顕著になってきている。
王はここ数年、自らの亡き後を憂えるようになり、己れが元気なうちに出来る限り『ルードラの王国』の版図を広げたいと思うようになっている様子。
デュクラの次にラクレイドを摂取出来れば大陸の大半を『ルードラの王国』に出来る、と、かの王が考えているのは想像に難くない。
(この流れから考えるのなら。レライアーノ公爵のもたらした情報の方が信憑性はあるわね。ここまでの情報でデュクラが屈したと判断するのは早計かもしれないけど、そんなことは有り得ないと一蹴するのはとても危険だわ。お祖母さまも……そう判断なさっているご様子)
むしろ、そう判断しない曾祖父さまたちの考え方の方が、フィオリーナにはわかりにくい。
リュクサレイノの曾祖父さまに限れば、要するに感情的にレライアーノ公爵の情報を信じたくない、という部分が大きいだろう。
彼の判断に関しては取りあえず無視してもいい。
しかし、海軍そのものの力や海軍将軍としてのレライアーノ公爵をある程度認めている宰相も、『五分五分』と判断している。
大陸ではラクレイドに次いで古い歴史を誇るデュクラが、辺境の地で興った新しい国に膝を屈するという事態が常識として考えられない、ということなのかもしれない。
(常識……)
『王という存在には、ある時には苛烈なまでに果断、ある時には狡猾なまでに奸智に長ける、そういう部分がどうしても必要になってきます』
ある日のレライアーノ公爵……大好きな叔父さまであっただけの時の彼が言っていた言葉を、フィオリーナはふと思い出す。
『常識すら疑い、必要なら捨て去る柔軟な感性も必要でしょう』
大きなため息をつきながら半身を起こし、小卓の引き出しにしまっている封筒を取り出す。
よれかけたそれは、離職の挨拶に来たクシュタンが渡してくれた父からの最後の手紙だ。
(わたしの直感は神のご意志)
少なくとも父はそう言ってくれている。
目を閉じ、静かに深呼吸をしてみた。
が、フィオリーナの行く道を示す光は見えなかった。




