第四章 虚ろの玉座②
春宮へ帰ると母は、糸が切れたあやつり人形のようになってしまった。
大叔父さまへ怒鳴りつけた後、リュクサレイノの曾祖父さまは檻に入れられた熊か何かのように、しばらく部屋の中を歩き回った。
しかし彼は不意に立ち止まると、何故かにやっとした。
そして、用を思い出したので失礼を致します、とカタリーナお祖母さまと母へ頭を下げ、大叔父さまを引きずるようにして出て行った。
「フィオリーナ」
お祖母さまに呼ばれたので席を立つ。
「おかあさまを連れて春宮にお戻りなさい。それでなくてもおかあさまは、視察からお戻りになられたばかりでお疲れでしょうから。フィオリーナもいたわって差し上げて」
そしてお祖母さまは母を見やる。
父と同じ蒼の瞳が気の毒そうに陰る。
「アンジェリン王妃。詳しいことがわかり次第、貴女にはちゃんとお知らせ致しますから、今日は執務を終えて春宮にお戻りなさいな。お顔の色が真っ青ですよ」
母ははっとしてように目を上げ、何か言いかけたが大きく息をついた。
「……ええ。今はそうさせていただきます。お心遣いに感謝致します、王太后陛下」
手を取るようにして母を馬車に乗せ、フィオリーナは共に春宮へ戻る。
侍女たちに命じて洗面器にお湯を用意させ、茫然としている母を着替えさせて化粧も落とす。
じっとしていられなくて、フィオリーナもあれこれ手伝った。
母を寝台に寝かせる。
天蓋を見上げる緑の瞳は今までになく虚ろで、フィオリーナはふと、割れた硝子玉を連想した。
「レライアーノ公爵は……何故、誰も知らないデュクラの内情を知っているのかしら」
誰に問うともなく、母はつぶやく。
「兄上……ピエール陛下は。何故わたくしにそのことを伝えて下さらないのかしら」
「はっきりしたことはまだわからないわ、おかあさま」
フィオリーナは言ったが、母の耳に届いているかどうかは不明だ。
「もしルイが人質なら、仕方がないのかもしれないわね。でも……」
わたくしがラクレイドへ来た意味は何?
そういう意味のことをデュクラ語でつぶやき、母は、疲れたようにまぶたを閉じた。
夕方になり、カタリーナお祖母さまが春宮へいらっしゃった。
新しくわかったことはないし色々錯綜もしているが、今わかっていることだけでもフィオリーナへ説明しておきたい、と。
フィオリーナの居間にお茶だけが用意され、人払いがなされた。
「つまり……」
一通りの話の後、震えながらフィオリーナは確認した。
「デュクラはすでにルードラントーの属国で、ゆくゆくは『ルードラの王国』として正式にあちらへ編入される予定。その第一段階として、ルードラントーの本格的なラクレイド侵略の基地として動くつもりである、と?」
『ルードラの王国』とは、ルードラ教を国教としたルードラ教を信奉する者のみが住む国のうち、ルードラントーへ臣従した国のことを指す。
厳密にはもっと厳しい意味があるらしいが、概ねはそれで外れていない筈だ。
『ルードラ教』以外認めない、ということは、結果的にその土地の既存の宗教や文化が強く否定される。
今まで各地で軋轢が起こってきた主な理由が、頑ななまでにひとつの信仰を強要するかの国のやり方のせいだが、ルードラントーの王は宗教指導者でもあるので、この部分は決して譲らない。
カタリーナお祖母さまは微苦笑を含みながらお茶を一口、飲んだ。
「レライアーノ公爵の報告書にはそうあります。示された数値や町の状況の描写が具体的で、恐ろしく現実味がありますね。元々彼は、ふざけたような態度を取ってわざとのように保守派の顰蹙を買っていましたが、こと仕事に関して決していい加減なことはしてこなかった人です。その彼がこんな報告を上げてきたのですから、信憑性は高いと判断した方がいいでしょう」
のどがカラカラに渇く。
フィオリーナは無意識のうちにカップを取り上げ、ひと息にお茶を飲み干した。
「フィオリーナ」
お祖母さまがフィオリーナの瞳を見据える。
「貴女は国主として、この事態をどう乗り切る、もしくは乗り切りたいと思いますか?」
絶句するしかなかった。
頭が真っ白になり、フィオリーナはただただ、お祖母さまの蒼い瞳を見つめ返した。
軽い食事の後に入浴を済ませ、自分の寝室で寝台に横たわる。
色々なことを聞かされ、フィオリーナの頭の中はごちゃごちゃだ。
『貴女は国主として、この事態をどう乗り切る、もしくは乗り切りたいと思いますか?』
お祖母さまの言葉が何度もよみがえる。絶句するしか出来なかった自分が恥ずかしい。
お祖母さまは辛そうに眉を寄せ、酷なことを聞いてごめんなさい、でも遅かれ早かれ、貴女はそういう決断を迫られる立場なのよとおっしゃった後、切ない目をしたままこう続けた。
「今の今、決断するべきではないでしょうし決断する為の情報も少なすぎるわ。でも国主としてこの国をどう導くのかは、今から考えておいて遅くはないでしょうからあえて問いました。……王たる者の、永遠の宿題ですね」
(王、たる者……)
フィオリーナは『緑の影の送り』を思い出す。
作法に従い玉座の上から緑色の練り絹を取り去ると、何もない玉座が現れた。当然なのに、思わずはっと息を呑んだ。
練り絹すらない玉座を目の当たりにし、フィオリーナは初めて、この国には今現在王がいないのだと強烈に思い知った。
『父』の不在ではなく、『王』の不在に慄いた。
(……おとうさま)
決して届かぬことを承知でフィオリーナは、眠りの国の扉の彼方へと逝ってしまった父へ呼びかける。
(おとうさま。ラクレイドは今、危急存亡の秋です。ラクレイドに今現在王がいないのは、おそらく国始まって以来の危機です、おとうさま……)
悲しみよりも悔しさで、フィオリーナの視界は曇る。
(千里を見通すセイイール王の眼力が、これほどまでに必要とされている時があるでしょうか?)
唇を噛みしめる。
(おとうさま。おとうさま、おかあさまを愛しているのでしょう?おかあさまをお救いになって、今すぐに!)




