第四章 虚ろの玉座①
「で、そのままおめおめと公爵を帰したというのか?この大馬鹿者めが!」
リュクサレイノの曾祖父さまの声が響く。
宰相のリュクサレイノ侯爵……フィオリーナにとって大叔父にあたる方が椅子の上で、その大きな身体を叱られた幼児のように縮めている。
夏宮・王妃の居間。
形ばかりお茶の用意がなされている。
テーブルを囲んでいるのは母、曾祖父さま、大叔父さま。そして王太后・カタリーナお祖母さま。
曾祖父さまは、熟したトマトのように顔を赤くして怒り狂い、大叔父さまと母は苦い薬を飲まされたような顔をしてうつむき、青ざめている。
手元にある書類へ目を落としているカタリーナお祖母さまだけが、常と変わらないお顔の色でいらっしゃる。だが目の鋭さは尋常ではない。
(一体……何?)
訳もわからず、フィオリーナは席に着く。
すぐさまお茶と軽食が給仕された。
そもそもフィオリーナがこちらへ呼ばれたことからして普通ではない。
たとえ王子や王女であっても、基本的に成人前の子供は公務や政務に関わらないのがラクレイドの古くからの慣習だ。
「落ち着いて下さいませ。まずはお茶をいただきましょう」
書類から目を上げ、お祖母さまがおっしゃる。フィオリーナを見、目許を少しゆるめてほほ笑む。
「フィオリーナが驚いているわ」
さらに何か言い募ろうとしていた曾祖父さまも、さすがに口をつぐんだ。
持て余す怒りをごまかすように、彼は、薄く切ったパンへ刻んだゆで玉子をあしらった軽食を、やや乱暴につかんで咀嚼した。
お祖母さまは微苦笑を含んだ口許で、優しくフィオリーナへこう言った。
「急に呼び立ててごめんなさいね、フィオリーナ。迷ったのだけど、貴女も知るべきだと判断したのでこちらへ来ていただきました」
まずはお茶を飲んで下さいな、と勧められたので、フィオリーナはおずおずとカップに口をつける。
ついさっきのことだ。
乗馬の訓練を終え、自分の居間でお茶を飲みながら休んでいる時だった。
失礼致します、と、侍従長が突然、早足で近付いてきた。
「殿下、母君様がお呼びでいらっしゃいます。至急、夏宮の王妃の居間へと向かって下さいませ」
瞬くうちに移動用の簡素な二頭立て馬車が用意され、フィオリーナは夏宮へ向かうことになった。詳しいことは何も聞かされなかったが、自分のような子供が執務の場である夏宮へ呼ばれる自体、異常だ。緊張しながら馬車へ乗り込む。
(ああ、でも……)
さっき一口だけ食べた林檎のパイの歯ざわりと甘味が、背もたれに身を預けた途端、急によみがえった。
(今日のパイ、すごくいい感じに焼けていて美味しかったのに。残してしまって残念だわ)
フィオリーナは勧められるままお茶を飲み、急ごしらえらしい軽食を口へ運ぶ。
もちろん決して不味くはないが、さっきの林檎のパイを思い出すと少し切ない。
「実は今朝方、海軍将軍レライアーノ公爵より急ぎの報告書が夏宮へもたらされました」
そこでお祖母さまは一度、軽く目を閉じて小さく息を落とした。
「デュクラはルードラントーに屈して属国化され、『ゆるやかなルードラ化』を受け入れた模様……だと」
フィオリーナは口の中の物を咀嚼するのを忘れた。
「あの男のでたらめですよ、そうに決まってる!」
がぶりとお茶を飲み、曾祖父さまが叫ぶように話へ割って入る。
「いくら何でもそんな馬鹿なことはあり得ませんぞ。そんな状況ならデュクラの宮廷の空気がもっと変わっていましょう。先日のセイイール陛下の国葬に参列なさったチュラタン卿の様子に、変わったところはまったくありませんでした。ルイ殿下をラルーナで養育なさっているという話は出ましたが、そのお陰でかの方は年齢以上にしっかりなさっていると自慢していらっしゃっいましたぞ。それにルイ殿下は別に、ラルーナに軟禁されている様子でもありません。折に触れて王都へ戻られ、ご両親ともお過ごしだとか。人質だなどと、言うに事欠いてあの男は!」
「リュクサレイノ卿」
静かながら有無を言わせぬ響きのある声。
カタリーナお祖母さまだ。
さすがに怯み、曾祖父さまは黙る。お祖母さまが『父上』ではなく『リュクサレイノ卿』と曾祖父さまを呼ぶ時は、娘ではなく王太后として接している証拠だ。
「卿のおっしゃっていることが間違っているとは思いませんが。印象だけを並べていても話は前へ進みませんよ。……宰相殿」
お祖母さまは宰相へ声をかける。
「一通り目を通しました。この情報の信憑性を、宰相としてどう判断されますか?」
彼は一瞬ちらっと父親の顔色を窺ったが、あえて目をそらし、言った。
「信憑性は決して低くありませんね。海軍の特殊部隊の能力は、公平に見て陸軍の比ではありません。特に国外の情報に関しては、早さも確かさも信頼出来ます。ただ……」
大叔父さまは大きく息をつく。
「さすがに今回の情報は……五分五分、という印象です。挙げられている情報は具体的ですが、ラルーナを始めとした港町における物流や物価の変化が普通ではない、デュクラのあちこちの町にルードラ教の寺院がここ最近次々建てられ、そのせいかルードラ教への忌避感が目に見えて薄れてきている……などというつかみどころのない情報だけでは、判断をつけにくいのが本音です。デュクラがルードラントーと和平を結ぶ際の条件のひとつに、デュクラ辺境部の町の幾つかに、ルードラ教の寺院を建てる許可を出すというものがあったのは確かです。デュクラ王国としてはルードラ教を積極的に庇護しないが、布教そのものは邪魔しない、という条件でした」
「聞きました。今すぐはそれほどではなくても、長い目で見ればあやうい条件だと危惧していましたが」
お祖母さまへ大叔父さまはうなずく。
「ええ。しかし、それを認めない場合はデュクラを滅ぼすのも辞さない、というのがあちら側の方針だったそうですから、デュクラとしては飲まざるを得なかったのでしょうね」
ふん、と曾祖父さまが鼻を鳴らす。
「異国の寺院が珍しいから、一時的に流行っているだけですよ。少なくともあちらの王都にはルードラ教の影響は見られない筈。確かに長い目で見ればあやういでしょうが、所詮は他国の宗教。デュクラ人の魂まで、わずかな期間でそう簡単に乗っ取られはしますまい」
それよりも、と曾祖父さまは目を光らせる。
「レライアーノ公爵の方が余程あやういでしょう。あの男の行動の方が、デュクラの動向以上に不穏ではないかと私としては愚考致しますな。違いますか、王太后陛下?」
「否定出来ませんね。彼の言動は『虚ろの玉座の嘆き』以来、不可解な点が多すぎますから」
「……レライアーノ公爵に、直接話を伺いたいのですが」
母が低い声で場に問う。
喪の行事に一段落がつき、昨日から母は、久しぶりに王領の視察へ行っていた。
戻ってきていきなり聞かされた青天の霹靂に、半ば放心しているようにフィオリーナには見えた。
曾祖父さまは深くうなずく。
「ええ。来てもらいましょう、王妃殿下。そもそも宮廷の許可なく海軍の軍船を国境近くの海域まで進めるなど、場合によっては反逆罪にもなり得る重大な事案ですからな。この独断は一体どういうことなのか、公爵から王妃殿下と王女殿下へきっちり説明していただくべきでしょう」
王妃と王女の連名で命令書を出せばさすがの公爵も従いましょう、などと言っていたところへ、曾祖父さま宛ての急ぎの伝言が来た。
鬱陶しそうに伝言へ目をやった途端、曾祖父さまの顔色が変わった。
「どうなさったのです?」
怪訝そうに問う宰相へ、曾祖父さまは伝言が書かれた紙を投げつける。
「公爵が逃げた!」
「は?」
間の抜けた顔で見返す息子へ、苛立ったように曾祖父さまは吠える。
「公爵が逃げたのだ!公爵邸はジジイやババアの召使いがうろうろしているだけだそうだ。公爵本人はもちろん、金魚の糞の護衛官や秘書官も消え失せているそうだ!」
「ど……ういうことなのでしょう?」
「どうもこうもあるか!」
曾祖父さまは再び、熟したトマトのような真っ赤な顔になった。
「お前が公爵を帰してしまったのが、そもそもの間違いなんだ、この大馬鹿者が!」




