第三章 際どい一手⑦
エミルナールが清書した書類に公爵が署名し、紋章印が捺された。出来上がった書類を封した頃には、さすがに夜も更けていた。
「遅くまでお疲れ様。明日朝一番に夏宮の宰相まで届けるよう、タイスン護衛官に託してくれ」
「承りました。御心のままに」
寝台へ戻り、公爵は軽く笑んだ。
「明日の朝には『海蛇屋』が来る。聞いていると思うが、こちらと合流する予定のクシュタンも一緒に来るはずだ。彼らが来たら本格始動だ。……今夜はよく休んでくれ」
「承りました」
翌朝。
『よく休んでくれ』と言われたが、神経が高ぶって休めるものではない。あまり熟睡できないまま夜が明けた。
腫れぼったい顔でエミルナールは、日課の早歩きを済ませて厨へ行く。
厨にはタイスンがいて、彼と親しそうに話している見知らぬ男の後姿が見えた。
『海蛇屋』の者と同じ厚地の綿シャツの上に毛皮のベストを着た、赤みがかった褐色の、短髪の男だった。
「コーリン」
タイスンがエミルナールに気付き、声をかけてくる。
「朝めしか?さっき、昨日のパンの残りにとき玉子をつけて焼いたのを結構作った。良かったら食ってくれ」
いただきます、と応えた時、短髪の男が振り返った。
タイスンほどの年頃の、深みのある青い瞳が印象的な端正な顔立ち。どこかで見たような……と思った瞬間、
「お久しぶり、になるのでしょうか?コーリン秘書官」
と短髪の男が言う。エミルナールは思わず目を見張った。
「え?ひょっとして、クシュタン護衛官ですか?」
彼は苦笑いする。
「護衛官は辞めました。だから私……いや。今の俺は、ただのトルニエールですよ、コーリンさん」
トルーノでかまいません、皆そう呼びますしと笑う彼は、宮廷勤め特有の生真面目さの名残りはあるものの、どこか肩の力が抜けた印象があった。
「髪を……」
エミルナールが言いかけると、クシュタンはうなずく。
「ええ。バッサリ切りました。あの髪は元々、陛下のご下命で伸ばしていただけですから。久し振りにここまで短くしましたけど、頭が軽いと心も軽くなりますねえ」
さばさばとそんなことを言うクシュタンに、屈託らしい屈託は感じられない。タイスンは渋い顔をする。
「おいおい、何を気楽なこと言ってやがる。お前、暇をもらって気合いが抜けてないか?ちゃんと護衛の仕事が出来るんだろうな?」
さすがにクシュタンは気を悪くしたか、美しい眉を寄せた。
「失礼なことを言うな。これでも一応俺は、元ふたつ名持ちだぞ」
(『赤銅のクシュタン』は、髪を短くするとずいぶん印象が変わるんだな……)
エミルナールは、タイスンが聞いたら渋い顔をしそうな、なんとものん気な感慨にふけった。
宮殿でのトルニエール・クシュタンは正に絵に描いたような護衛官で、任務中はほぼ無表情、かなり近寄りがたかった。
それでいて、武官らしくない長く伸ばした髪も彼ならば許されると納得させられてしまう、優雅で何とも言えない品のある男でもあった。
タイスンが、どちらかと言えば同性に好かれ、敬われるふたつ名持ちの護衛官だとすれば、クシュタンは異性に好かれ、憧れを寄せられるふたつ名持ちではないかとエミルナールは思っていた。
しかし、長く伸ばしていた時は磨いた銅を思わせる赤みがかった金色に見えていた彼の髪も、短くするとただの赤褐色とでもいう感じのごくありふれた色合いになるようだ。陛下が伸ばせと命じたのも、おそらくそのせいだろう。
赤みがかった金の髪が赤褐色になると、つられたように立ち居振る舞いも庶民的になるように感じられる。
もしかすると、これがクシュタンの地なのかもしれない。今後人の中にまぎれるには、確かにこの方が好都合だろう。
「朝めし食っちまえよ、コーリン。多分、今日の午後以降、宮廷の方から呼び出されるぞ」
タイスンの言葉にはっとし、エミルナールは軽く唇をかんでうなずいた。
タイスンの言葉通り、午になるかならないかの頃に宮殿から宰相の使いが来た。
今までの形式だけに近いような使いではなく、ほとんど脅すような態度で公爵の出仕を迫ってきた。
「先程から申し上げておりますが、当家の主は体調を崩して臥せっております。出仕しないのではなく、したくとも出来ないのであります」
無表情にいつも通りの回答を繰り返す老執事へ、苛立ったように使者は声を荒げる。
「事態は逼迫しております。体調が悪いとおっしゃるが、まさか瀕死の重病という訳でもありますまい。海軍将軍でいらっしゃる閣下に、是非ともご説明いただかなくてはならない事情があるとのこと。どうしても渋られるようなら、宰相閣下より出頭命令という形を取らせていただくと……」
「何の騒ぎだ」
大きくはないがよく通る声が、押し問答の続く玄関広間に響く。
声のする方へ一同の目が向く。
寝間着の上に暖かそうなガウンをはおっただけの、髪もろくに整えていないレライアーノ公爵が不機嫌そうな顔で立っていた。
青ざめたこけた頬の公爵を認め、使者は、なんだ仮病ではなかったのかと言いたそうな顔を一瞬、した。
「うちの執事も融通が利かない方なので、使者殿に失礼をしたのかもしれないがね。そんなきつい言い方をなさらなくても、事情は把握していますよ。宰相殿へお伝えください、今から支度をし、すぐに参ります、と。すぐと申し上げても今から支度を致しますのでさすがに小一時間ほどかかりますし、体調が悪いのも事実です。ですから、事情の説明をさせていただき次第、中座させていただくでしょうがそこはお含み置きくださいとお伝え願います」
よろしいでしょうか、と静かに念を押され、気圧されたように使者は、承りましたと頭を下げた。
その後すぐ、砂糖湯をチビチビ飲みながら公爵は、久し振りに『青軍服』へ袖を通した。
驚いたことに、身体にぴったりだった彼の青軍服は今、借りてきた衣装さながらにぶかぶかだった。
「ずいぶん痩せてしまったな」
他人事のように感心しながら公爵は、執事が差し出す喪章をつける。
「ちょうどいい。この姿を見ればさすがに誰も、レライアーノ公爵は仮病を使って怠けていたとは言えまい。計算外だが悪くない効果だ。鬱陶しい持病が初めて役に立ってくれたな」
公爵と同じく喪章をつけた青軍服姿でそばに控えていたエミルナールは、思わず苦笑いまじりにこう言った。
「前向きですね、閣下は」
公爵はちらっとエミルナールへ目をやると、にやっと、例のくせ者将軍の笑みを浮かべた。
「当然だよ。私を誰だと思っているんだい、コーリン。アイオール・デュ・ラクレイノ・レライアーノなんだよ。ちょっとイカレてるくらい前向きじゃなけりゃ、とてもじゃないけど『レライアーノ公爵』などやってられないさ」
公爵は馬車で、エミルナールとタイスンは馬で、宮殿へ向かう。
馬車の御者は執事のデュ・ロクサーノ氏が務める。
元々御者を務めていた者にはとっくに暇を出しているから、誰か他の者が御者を務めるしかない。
が、まさか執事自らが鞭を執って馬車を走らせるとは、エミルナールも思っていなかった。
「あの人は宮仕えを引退した後、今までやらなかったことを片っ端からやってあれこれ身に付けたとは言ってたけど。御者の技術まで身に付けていたとは思わなかったな。何だかこんな事態が来るのを想定していたみたいだぜ」
馬上のタイスンがあきれ半分・感心半分な感じでエミルナールへ言った。
夏宮。
普段なら御前会議が行われる円卓の会議室へと導かれる。
玉座は当然、空である。
渋い顔のお歴々が席について待っていたが、喪章とつけ毛をきちんと付けた青軍服のレライアーノ公爵の姿を一目見た途端、ざわめきが広がった。
「皆様、お待たせをいたしました。体調が思わしくないとはいえ、長く勝手を致しておりました。まずはそのことをお詫び申し上げます」
そう言って頭を下げ、公爵は席に着く。
目を見張って言葉を失くした様子だった宰相が、はっと我に返って軽く咳払いをする。
「えー、ご体調が思わしくないとは聞いておりましたが、レライアーノ公爵。不躾をお許し下さい、一体どうなさったのですか?『緑の影の送り』からまだ半月ほどしか経っていませんが、そのう、あの時よりもずいぶんお痩せになられたご様子ですが」
公爵は力なく笑う。
「いえ、若い頃からの持病が再発したのですよ。私は昔から、心労が重なり過ぎますと激しく戻して食事を一切受け付けなくなる、厄介な持病がありましてね。と言いましても、決して他人にうつるような類いの病ではありませんのでその点はご安心を。陛下がお亡くなりになられて以来、それこれと物思いも致しますし、今朝方宰相閣下へご報告を上げた件も、実を申しますと以前から気になっておりました。心痛が積み重なったせいでしょう、『緑の影の送り』以来、私はずっと吐き気に悩まされております。正直に申し上げて今も軽い吐き気を抑えながら話をしております。場合によればこの場で失礼をするかもしません。万一の場合は、なにとぞお許しを」
隠しからハンカチを取り出し、公爵は口許を覆った。
お歴々が無意識に、一斉に軽く身を引いたのが、エミルナールは少々滑稽だった。
「なるほど、確かにあなたにはお若い頃から、そういう持病がありましたね」
宰相の隣に、普段はいらっしゃらない王太后陛下がいらっしゃった。
黒い喪の装いながら、すっと背筋の伸びたかの方には不思議な威圧感があった。
人の上に立ち慣れた者特有の貫禄は、隣の宰相以上と言えよう。
「健康に不安のある方が組織の責任ある立場でいらっしゃるのは、何かと差しさわりがあると思いますね、レライアーノ公爵。お務めが出来なくては何もなりませんから、お身体はくれぐれもご自愛下さい」
気遣いながらのさり気ない牽制。
さすがの公爵も苦笑いまじりに頭を下げ、お心遣いに感謝致しますと当たり障りのない返事をした。
「それでは今朝方、宰相閣下へ上げた報告についてご説明させていただきましょう」
公爵が話を進めようとした途端、宰相は本来の目的を思い出したような表情になった。
「ああ、いえ。そちらももちろんなのですが、本日無理にでも閣下に来ていただいたのは、至急お聞きしたいことがあるからなのです」
宰相の鳶色の瞳に、怒りとも困惑ともつかない不快そうな影がかすめる。
「デュクラとの国境近く、南東の海にある『果ての島』はご存知ですね?そちらにラクレイドの軍船が上陸して、兵士の休憩や船の整備などでなさそうな作業をしている模様、一体どういうことかという緊急の問い合わせがデュクラから来ています。ご説明いただけませんか、閣下」
「報告書にも書かせていただきましたが」
飄々と公爵は応える。
「結論から申し上げて、デュクラはルードラントーに屈しました」
あまりにもあっさりとした口調でとんでもないことを言われ、会議室のお歴々は宰相以外、ポカンとした。
「我が海軍の特殊部隊が調べ上げた情報を分析すると、十のうち九までそうとしか言えない状況であると結論しました。デュクラ方面が危ういことは、皆さまも薄々察していらっしゃいましょう。しかし、だからといって伝統あるデュクラが東方の新興国に簡単に屈するはずはない、私も皆さま同様そう思っていました。残念ながら、現実は我々の予想以上に深刻だったのです」
そこで公爵はひとつ息をついた。
「そもそも私は以前から、再々皆様へ申し上げてきましたが。東方の問題は深刻であります。デュクラがあちらに屈する前から、深刻だという認識で私は動いておりました。今回の弔事で王都へ参る際、私は、海軍の副官たちに命令を置いてから参りました。万一の場合は『果ての島』に防衛の拠点を築くように、と。そのために必要な合図も暗号も、事前に取り決めておきました。この命令は、出来れば出さないで済ませたかったのですが……叶わなかったということなのです」




