第三章 際どい一手⑥
結局その日、公爵はずっと寝室で臥せっていた。
この持病で戻した時はいつもそうだという話だが、食事も摂れないらしい。
「旦那様はここしばらくずっと、まともにお食事を摂っていらっしゃらなかったので余計に心配です」
老執事が顔を曇らせる。
「ああ、それはともかく。旦那様からコーリン殿へ伝言がございます。夕食後に筆記具を持って、こちらまで来てほしいとおっしゃっていらっしゃいました。次へ進む、と」
はっと息を呑み、わかりましたと執事へ応える。
仕事の段取りをあれこれを考えながら、エミルナールは自室へ戻った。
書類の用意に一段落がつき、机の前で伸びをする。
そろそろランタンに火を灯さなければ、手元が暗くなってくる時間だ。
そう言えば昼食時に、陛下の正護衛官だったクシュタンが務めを辞め、こちらに合流するとタイスンから聞いた。
『際どい一手』作戦に、彼も加わってくれるらしい。
彼は、レライアーノ公爵が必要とするのなら一度だけでいい、与してやってくれと死の間際の陛下から頼まれたのだそうだ。
トルニエール・クシュタンは、タイスンと並び称されているふたつ名持ちだ。
エミルナールも当然、陛下のそばで影のように控えている彼を、今までに何度も見かけた。機会もなかったので口をきいたことはほとんどないが。
クシュタンはいかにも宮殿勤めに相応しい、優雅で洗練された立ち居振る舞いの護衛官で、タイスンとはずいぶん雰囲気が違った。
しかし聞くところによると二人は幼馴染で、『マーノ』『トルーノ』と呼び合う親しい間柄なのだそうだ。
クラーレンの言を信じるのなら、ふたつ名持ちの護衛官は一人で五人分以上の働きが出来るということになる。味方になってくれればかなり心強い。
(いよいよ、だな)
身体が震える。なんだか背筋がぞくぞくしてきた。
夕食後、筆記具を手に公爵の寝室を訪れる。
さっきまとめた書類の草案ももちろん持ってきている。
グスコの報告があって以来、少しずつ書類の用意はしていたから、まとめるのはさほど大変ではなかった。公爵に確認後清書すれば、エミルナールの当面の仕事はけりが付く。
主の寝室の扉を軽く叩く。しばらく待ったが返事がない。
もう一度叩いてみたが、やはり返事はない。
エミルナールは首を傾げた。いない、のだろうか?それとも眠り込んでいるのか?
眠り込んでいるのなら出直せばいいが、もしかすると返事も出来ないくらい苦しんでいる、可能性もあると思い付く。
楡の木の下で長々と身を横たえていた、生気のない公爵の顔が浮かんだ。
お抱え医師のサーティン先生は夫人たちに附いて行ったから、体調の悪い公爵を医療面で支える者は今、屋敷内にいない。
だから彼は、従者たちに余計な心配をかけまいと寝台にうずくまって耐えている可能性もある。
(とにかく様子を見てみよう)
エミルナールはそっと扉を開けた。
薄暗い寝室。
寝台の上には、上掛けを引きかぶって横たわる人影が見える。
眠っているのかと思った次の瞬間、低いうなり声が響いてきた。やはり苦しいのを我慢しているのだ。
エミルナールはあわてて寝台へ近付く。
うつ伏せに横たわり、公爵はうなっていた。
「閣下。閣下どうなさいました?お苦しいのではありませんか?」
声をかけたが、低いうなり声は止まない。
「閣下」
少しためらったが、エミルナールは思い切って公爵の肩をゆさぶった。
弾かれたように公爵は半身を起こす。薄暗い中、彼の瞳が異様に輝いていた。
「さ、触るな」
あえぎながら彼は言う。
「触るな殺せ、いっそ殺せ!」
「閣下!」
エミルナールは大きな声で公爵へ呼びかける。
「閣下、私です。コーリンです!」
ふ、と公爵の焦点がエミルナールの顔に合った。
「あ……」
気の抜けた声がもれ、公爵はずるずると再びうつ伏せに倒れ込んであえいだ。
「すまないコーリン。変な夢を見ていて……寝ぼけてしまった。許せ」
「出直しましょうか?」
エミルナールが問うと、公爵はかぶりを振った。
「いや。大丈夫だ」
大きくひとつ息をつき、公爵は身を起こす。瞳に力が戻っていた。
「仕事にかかろう」
草案を少し修正した程度で清書するよう命じられた。
満足そうに草案を返しながら、公爵は笑む。
「相変わらず手際のいい仕事ぶりだ、コーリン。出来れば今日中に清書を仕上げてもらいたいんだが、大丈夫か?」
「もちろんです。夜が更ける前には」
では頼む、と言い、公爵は再び寝台に横たわった。
張っていた気が抜けたのだろう、枕に頭を落とした途端、彼は深いため息をついた。
「あの、閣下」
なんだ、と、どことなく疲れた顔でこちらを見る公爵が、ひどくやつれているのにエミルナールは気付き、ぎょっとした。
早馬で強引に帰ってきた日以上に憔悴している気がする。
おそらく、今日になって急にここまでになった訳ではなかろう。
グスコの報告以来、公爵は食が進まなかったし憑かれたように鍛錬してもいた。
ここしばらくでゆっくりと痩せ……否、やつれていったと考えられる。
最近、なんとなく公爵の身体が細くなったような印象は持っていたが、正直な話ここまでひどいとは思っていなかった。
「どうした?私の顔に何かついているのか?」
怪訝そうに問われ、エミルナールは我に返る。
「あ、いえ。その、余計なことではありますが、何か召し上がった方がよろしいのではありませんか?たとえば、スープのようなものとか……」
可笑しそうに公爵は口許をゆがめる。
「君はうちの執事か?」
「は?」
「いや、何でもない。心配をかけて悪いが、今は食べない方がいいんだ。好むと好まざるとに関わらず、私はこの持病とは付き合いが長い。今の感じだと食べても戻すだけだろうからね。でも……そうだな。のどは乾いてきた。白湯がもらえると有り難い。あ、くれぐれもただの白湯を頼む。帰りがけに誰かに頼んでくれないかな」
承りましたと応え、エミルナールは辞した。
誰かに、と言っても余裕のある者などいないだろう、最近の公爵邸では。
老執事か侍女頭に頼めばいいのだろうが、わざわざ彼らを探すくらいなら自分で用意した方が良さそうだ。
仕事の道具を自室に置き、エミルナールは厨へ向かう。
やかんに水を入れ、かまどの火をかきたてる。
湯が沸くまでの間に、ティーカップとポットを用意する。
ポットに湯を入れたものを枕元に置いておけば、湯冷ましになってのどを湿らせるくらいには役立つだろう。
「よう。あんたも茶を飲みに来たのか?」
のそっと現れたのはタイスンだ。
「ああ、いえ。さっきまで仕事で閣下のお部屋に行っていたのですが。食事は出来ないけど白湯は欲しいとおっしゃるので、用意させていただいてるんです」
ああ、とタイスンは顔を曇らせる。
「そうか。まあ……そうだろうな」
言いながら彼はやかんを覗いて水の量を確認し、足りると判断したようだ。自分用のカップとポットを手早く用意する。
そもそも武官には野営の心得もあるからか、タイスンはこういう厨の手仕事も小器用にこなす。
幼い頃から母や小間使いたちにこういうことを任せっぱなしだったエミルナールは、料理人がいなくなった当初、要領がわからなくて右往左往したものだった。
「ついでだ、あんたも飲むなら茶を入れるぞ」
「そうですね。いただきます」
茶葉の用意をするタイスンの後姿へ、少しためらったが、エミルナールは声をかける。
「タイスン殿」
ああ?と彼は振り向く。
「実は先程閣下の寝室へ伺ったところ、閣下は、うつ伏せになってうなっていらっしゃったんです。お苦しみになっているのかとそばに寄り、肩をゆすって呼びかけました。すると閣下は恐ろしい勢いで起き上がり、触るな殺せ、と仰せになって……」
タイスンは手を止め、瞬間的に目を見張った。
「あの、実は同じうわ言を、王都に帰った日の夜にシラノールさまも聞かれたらしいのです。お子様方はおとうさまのただならぬご様子を、とても心配なさっていました。一体、閣下は……」
「コーリン」
ため息まじりにタイスンは、柔らかく、しかしきっぱりと、エミルナールを制した。
「それに関しては、知らなくもないが俺の口からは言えねえな。これはあいつが抱えてる傷の中で、おそらく一番深くて大きな古傷だ。例の持病の原因でもある。だけどあいつが自分から話すんじゃない限り、知らんふりでそっとしておいてやってくれないかな」
優しい口調だったがどこか恐ろしい……いや。苦しそうな言葉だった。タイスンの目の色がいつになく暗い。
エミルナールはこう答えるしかなかった。
「わかり……ました」




