第三章 際どい一手⑤
鍛錬も終わり、エミルナールはタイスンと厨へ向かう。
料理人もほぼいなくなったので、屋敷の主である公爵以外は各自で食事を作り、摂るようになっている。
「コーリン。豚もも肉の塩漬けを切って炙ろうかと思うんだが、あんたも食うか?」
タイスンの問いに、
「あ、はい。いただきます」
と答えながら、エミルナールは鍋を覗く。
誰が作ったのか知らないが、鍋には野菜のスープが残っていた。
「タイスン殿。野菜スープが残っていますよ。置いてあるってことは、食べていいんですよね?温めますか?」
「いや待て。それは閣下様用にロンさんがこしらえたスープじゃねえか?旦那様は食が進まれないご様子だから、一口で滋養の取れるものを……とか何とか言いながら、あの人は鍋をかき回していたぜ、今朝方」
「あー……苦労なさいますね、彼も」
タイスンは手を止め、苦笑いする。
「まったくだ。まあ、なんだかんだ言ってもあの人は、宮仕え時代の最後にお世話申し上げた、アイオール・デュ・ラクレイノさまが可愛いのさ。当の本人はすっかりひねくれたおっさんだけどよ、ロンさん的には心のどっかで、稚くも可愛らしい王子様のままなんだろうな」
思わず吹き出したが、なんとなくわからなくもない。
もし十年二十年経ち、大人になったポリアーナやシラノールを見たとしても。
おそらくエミルナールには、エミーノ遊ぼうよとまとわりついてきた、幼い彼らの姿が二重写しに見えるだろうから。
タイスンは炙った厚切りの塩漬け肉を皿に乗せる。
エミルナールはお茶を入れ、パンとチーズを切り分ける。少し寂しいかと、食糧庫にあった砂糖漬けの野苺や乾燥無花果を小鉢に取り分ける。
先日フィスタから、クラーレンと今年の春に護衛官になったばかりの新人・ラクランが戻った。
彼らが買い出しをしてくれるので、最近多少は新鮮なものを食べられるようになった。
公爵がフィスタから戻って以来、護衛官たちに指示された公爵邸の従者は、出入りの商人へ上手く言い聞かせ、少しずつ取引を減らして彼らが敷地内へ入らないようにしてきた。
刺客や間諜に対する警戒だ。
買い物自体も、同じ店からばかり買わないよう、同じものを多量に買わないよう、気を配っているらしい。
お陰で買える物が制限されるので、備蓄食料中心の味気ない食事が続いている。
「この程度の警戒には限界があるけどな、気休め以上の意味はある。それから言えば、外国の行商人から安易に食料品や日用品を買うなんて、ラルーナのアチラさんはゆるんでいるよな」
「油断している、ということでしょうか?」
食べながら問うと、タイスンは眉根を寄せる。
「油断、もあるだろうが。デュクラの王子は有用だが最重要の駒ではない、アチラさんの気分が透けて見えるな」
のどが詰まりそうな気分で、エミルナールは口中の物を飲み下す。
「どうやら、アチラの教義を突き詰めると、地上に神の国を具現する為なら何をしても良いし、その為に失われる命は神に祝福され、最終的には救いになるのだそうだ。そんなのはルードラの神の教えじゃないって、アチラからフィスタへ逃げてきた者はみんな怒ってるけどな。まあ、俺もちらっと聞いただけだから言い切れはしねえけどよ、教義を文字通り、馬鹿みたいにきっちり解釈すると、そういう過激な発想に流れやすいというか、あやうい感じのある教えみたいだな」
宗教ってのは、生きてる人間を救う為にあるんじゃないのかねえ。
手を止め、遠くを見るような目をしてタイスンはつぶやいた。
現場主義・現実主義の彼にしては珍しい、哲学的な感慨だった。
翌日の朝。
エミルナールの実践訓練でなく、公爵とタイスンの、本気の実践訓練が行われることになった。
クラーレンとラクランも見学に来た。
護衛官の彼らが見学する意味がある、訓練だということだろう。
身体をほぐした後、公爵とタイスンは向き合う。
得物は公爵が鞘付きのナイフ、タイスンは練習用の片手剣だ。
タイスンが静かな表情のまま、隠しから取り出した布で目隠しをしたのには驚いた。
視力のない状態で立つタイスンの身体はしかし、常とどこも変わらぬ落ち着いたたたずまいだった。
公爵が動く。
腰を沈め、素早く蹴りが放たれる。
ほんの少し腕を動かしたようにしか見えなかったが、タイスンはその蹴りを剣身で払う。
そして、まるで見えているかのような的確さで剣を振り、公爵の肩に打ちかかる。
すんでのところで公爵は刃を避け、横受け身を取って転がった。
タイスンは片膝をつく。軽く頭を下げて気配を探っている様子だ。
息を調え、公爵は静かにタイスンの背後へ回ってナイフを振りかざす。
閃くような速さでタイスンはそちらを向き、剣身で公爵の手の甲を打ちナイフをはじき飛ばす。
気付くと剣の切っ先が、いつの間にか公爵ののど元にあった。
「公爵」
ややくぐもった声でタイスンは呼びかけた。
「相手の命を取ることばかりに執着するな。そこがかえって足枷になってるぞ。目隠しするとよりわかる、あんたから必要以上の、抑えきれない殺気がただよってくる。それじゃあ『ここにいます』と言ってるようなもんだ」
「……くそっ」
打たれた手の甲を軽く撫ぜ、のど元をさすりながら公爵は舌打ちした。
「クラーレン。ラクラン」
静かな声でタイスンは部下を呼ぶ。
「お前たち、得物を持っているか?」
「はい。練習用の片手剣を持って来ています」
クラーレンの返事に、タイスンはうなずく。
「では今から二人で、俺を無力化しろ。致命傷を与えずに、だ」
若い護衛官たちの気配が刹那、ピンと張った。
結論を言うなら。
タイスンは、逆に二人を無力化した。
『致命傷を与えずに』という枷で難易度が上がった為もあったのか、二人の若い護衛官は、思いがけないくらいあっけなくやられていた。
目隠し状態の上官にあっさり剣をはじかれた二人は、素手で一斉に飛びかかったものの、一人は胴を打たれ、一人は腕をひねられて組み伏せられた。
公爵を無力化した時間と大して変わらない。
「ちょっとたるんでるな、お前たち」
目隠しを取り、タイスンは渋い顔で部下たちをにらむ。
「気合を入れ直せ」
申し訳ありません、と、二人の部下は縮こまる。
「お前だって要求水準、高いじゃないか」
公爵がぶつぶつ言うと、タイスンはあきれたように眉を寄せた。
「阿呆。こいつらは武官、それも護衛官だ。このくらいの要求水準で当然なんだよ」
ひとりだけ蚊帳の外の実力のエミルナールは、思わず深い息をついた。
動悸がし、全身がなんとなく汗ばんでいる。
精鋭ぞろいの護衛官の中でも、ふたつ名持ちは格が違うという話は噂で聞いていたが、嫌というほどそれを実感した。
この男は本当に人類なのか?鬼神か魔物ではないのか?
(……タイスンを怒らせないようにしよう)
エミルナールは胸で、密かにひとりごちる。
翌日にも公爵とタイスンの実践訓練が行われた。
『タイスンの』訓練でもあるので、彼はやはり目隠しをしている。
昨日よりは打ち合う時間が長かったが、当然公爵はタイスンに無力化された。
「公爵。こだわりを捨てろと何度も言ってるだろう?」
タイスンの言葉へ、乱れた息で公爵は応える。
「こだわっている……つもりは……」
しかし最後まで言えなかった。
のどの奥で、ぐうう、とくぐもった不吉な音が漏れ出た途端、彼はくずおれた。
「アイオール!」
目隠しをむしり、タイスンが吠える。
ざああ、と、革袋から水をこぼすような音がした。
うずくまり、こちらへ背を向けている公爵の肩がゆれる。
「コーリン、水を持って来てくれ!」
十分事態が理解できないまま、エミルナールは厨へ走った。
木のカップに水を汲み、エミルナールは戻る。
楡の木陰に長々と身を横たえた公爵と、鍬で土を掘り、何かに被せているタイスンが見えた。
「公爵に水を勧めてみてくれ」
エミルナールを認めたタイスンが叫ぶ。うなずき、エミルナールは公爵へ近付いた。公爵は目の辺りを右の掌で覆ってぐったりしていた。
「閣下」
そっと呼びかけてみる。彼はのろのろと顔の上から掌をのけ、まぶたを開けた。生気のない青白い顔だ。
「閣下、水をお持ちしました。口を漱がれますか?」
公爵はかすかに笑みを作り、小さくうなずいて半身を起こす。
眩暈がするのか少し身体が傾いだが、楡の幹にもたれると落ち着いた様子だ。
「ありがとう。世話をかけたね」
静かな声でねぎらいの言葉をかけ、公爵はエミルナールからカップを受け取り、口を漱いで根元にそっと吐き出した。
口を漱ぐと彼はエミルナールへカップを戻し、立ち上がった。
「大丈夫ですか?まだ休んでいらっしゃった方が……」
どことなくふらついた様子なのでそう声をかけたが、公爵は苦笑して首を振る。
「大丈夫、例の持病だ。休めば良くなるから心配するな。私は寝室で横になるよ。君の方からタイスン護衛官に、世話をかけてすまないと言っておいてくれないかな?」
「承りました、御心のままに」
すまない、よろしく頼むとつぶやき、雲を踏むような足取りで公爵は屋敷へ戻った。
鍬をかついでタイスンがこちらへ来た。
「まずいな。ここ最近、顔色が悪いとは思っていたが」
渋い顔でタイスンは、半ば独り言のように言う。
「戻された、んですよね?ご本人は持病だとおっしゃってましたけど」
渋い顔のまま、タイスンはうなずく。
「ああ。だろうな。しかし吐くまでいっちまったら回復が長引く。まあ、心労続きだから危ないとは思っていたがな。先は長いのに……厄介だな」
ため息をつくタイスンにつられるように、エミルナールもまた、大きなため息をついていた。




