第三章 際どい一手③
かすかな風切り音。
はっとした次の瞬間、エミルナールは横受け身で転がり、左腕を掲げて頭部を守りながら身構えた。細い木の枝がすぐそばに落ちる。
口笛が響く。
だが何かの合図ではなさそうだ。『ちょっと感心した』を表現したい場合の、おどけたような節回しだったから。
「これはこれは……」
楡の木の向こうから、マントをゆらして人影が現れた。
目深にフードを被った体格のいい中年の男だ。
各国をめぐる行商人がよく身に着けている、厚地のフード付きマント。
エミルナールは少しだけ、身体から力を抜いた。
あいつか、と、内心舌打ちする。敵ではないが味方とも言えない男だ、エミルナールにとっては。
「大したもんじゃないですか。一応は型に則った受け身ですねえ、少佐殿」
にやにや笑いを口許に含んだ、取りあえずは丁寧な口調。あからさまな慇懃無礼。
エミルナールはため息をつく。
「グスコ大尉。定例報告、ですか?」
将軍直属の特殊部隊『海蛇』の隊長・グスコ大尉だ。
行商人に扮して各国をめぐり、諜報活動や工作を行うのが役目だ。
彼は元々、フィスタでも大きな商家の息子である。
なんでも、レーンから出稼ぎに来た彼の祖父がフィスタに居着き、商売で成功したのだそう。
彼に姓がないのも異国風の名前なのも、その出自からだ。
商売関係のつてもあってあちこちに顔が利く上、情報も早い。そこを公爵に見込まれ、彼は公爵の着任まもなくから特殊部隊の隊長を務めている。
それはいいのだが、この男は何かとエミルナールへ突っかかってくる節があり、鬱陶しい。
彼は海軍創設時からいる古参の軍人、たたき上げだという自負も強かろう。
お勉強が出来るだけの文官など、彼にとってはただの役立たずだ。
そのくせ公爵に重用されていて、今は自分より階級も上、という状態がおそらく面白くないのだろう。
気持ちはわからなくもないが、子供みたいな男で不愉快だ。
「しっかしどうしたんです?あなたの仕事は、ケツで椅子を磨いていることだとばかり思ってましたがねえ。へっぴり腰とはいえその身のこなし、それなりに鍛錬したんでしょう?どういった風の吹き回しですかな?」
「閣下のご命令ですから」
相手をするのも面倒だ。
それだけを言い、エミルナールはきびすを返そうとした。
「なんだ、もう終わるんですか?」
声が追いかけてくるので一応立ち止まり、振り返る。
「終わりますよ。閣下はもうすぐお戻りです。秘書官の仕事もありますから」
ふん、と鼻を鳴らすような笑声が、後ろでかすかにした。
部屋に戻り、筆記具の準備をする。
ペン先はインクがこびりついた状態で、すっかり乾き切っていた。
思えば一ヵ月近く書き物をしていない。そのことに気付き、エミルナールは驚いた。驚愕、に近いかもしれない。
物心ついて以来、病気でもしない限り、机の前へ向かわなかった日が三日を超えることなどなかった。
少なくとも十代を過ぎてからはほぼ毎日、たとえ勉強はしなくても机へ向かい、本を読んだり日記をつけたり、あるいは思い付いたことを反故紙の裏などに気ままに書き綴ったり、してきた。
それらを一切せずひたすら身体を動かしてきたここ最近を、エミルナールは茫然と思い返す。
(……私は秘書官だ)
海軍の新兵でもなければ、護衛官見習いでもない。
自分で自分の頬を打つ。
しっかりしろ、エミルナール・コーリン。お前は秘書官だ、本分を忘れるな!
ひとつ大きく息をつき、丁寧にペン先の手入れをした。
昼前に公爵は戻って来た。
すぐ書斎へ来るよう呼ばれる。
グスコの報告をまとめる、いつもやっている業務の為だ。筆記具を手に向かう。
書斎の入り口でグスコと鉢合わせる。マントを脱いでどこかで寛いでいたのだろう、行商人らしい厚地の綿の上下と毛皮のベストから葉巻の香りがした。
グスコはエミルナールと目が合うと、レーン人らしい浅黒い肌と焦げ茶の瞳でにかっと笑った。白い歯がやたらまぶしい。
それが何故か、却って底意地悪そうに見える。
「おお、いつもの少佐殿だ」
グスコの言葉は軽く無視し、書斎の扉を軽く叩く。
「コーリンです。グスコ大尉もいます」
どうぞ、という声。エミルナールは扉を開ける。
喪の装いのままの公爵は机に座り、眉をきつくしかめてグスコからの報告書を読んでいた。
つけ毛まで付けた貴人らしい装いの公爵に驚いたのか、グスコは一瞬目をむいた。
別にエミルナールが何かした訳ではないが、なんとなく溜飲が下がる。
「ざっと読ませてもらった」
前置きもなく公爵は始めた。心なしか顔色が悪い。
「要するに。デュクラはルードラントーの軍門に降った……と?」
ぎくりとした。
いつかは……と懸念していたが、ついにその時が来てしまったらしい。
何故陛下がお亡くなりになったこの時に、と、エミルナールは思わず唇をかんだ。
「はい。確証が持てましたので急いでご報告に。実は、デュクラ王は二、三年前から、密かにルードラントーへ降っていたようです」
なに、とさすがの公爵も絶句する。グスコは続ける。
「と言いましても、ルードラントーへ降ったことはデュクラの宮廷でも知っている者はごくごく限られているはずです。デュクラは三年前、ルードラントーと休戦協定を結びました。どうやらその際、デュクラ王はあちらと密約を交わしたようですね。デュクラ王家……デュクラータン王朝の存続と引き換えに、デュクラの『ゆるやかなルードラ化』を受け入れる、と」
だから表面的には、特に変わっていないようにしか見えないでしょう。
グスコの言葉に公爵は青ざめる。
他国の宮廷の最高機密だ、そう簡単に知り得ないのは仕方がない。が、それにしてもそんなに前からデュクラが墜ちていたとは。
想定の中でも最悪……否。さすがに想定外の事態だ。
ルードラントーの戦い方は、圧倒的な武力で相手を屈服させるだけではない。
相手方の上層部へ食い込み、寝返りを誘い、元の国の形を保ったまま属国化させて『ルードラの神の教え』を国内に広める方法もしばしば取られる。
これがグスコの言う『ゆるやかなルードラ化』にあたる。
少しずつ少しずつ、その国の内部から『ルードラの神の教え』をしみこませてゆき、世代が変わる頃にはすっかり『ルードラの王国』になっているというやり方だ。
独自の文化も宗教も、気付くとルードラの教えに塗りつぶされている。
権力者の中には手中の権力を手放したくないばかりに、己れの国の矜持をあっさり捨て去る者もままいる。
デュクラ王 ピエール・ドゥ・デュクラータンもそうだったようだ。
「デュクラの宮廷内でもこのことを承知しているのはごく少数、王族と王の外戚・チュラタン氏くらいでしょう。ここ最近、王子のルイ様が王都を離れて暮らしているのを不審に思い、探っていました。家庭教師や世話をする者をルードラントーの息がかかった者で固め、あちら風の教育をなさっている様子。ルイ様は現在七つですが、二年前の五つの頃から一年の大半を、王家の別荘があるラルーナで暮らしていらっしゃいます。王は次代の王たるルイ様に、王都の王宮にいるだけでは得られない、様々な経験を積ませたいからだと説明していますが」
公爵は再びきつく眉をしかめ、椅子の背もたれに身を預ける。
「ご存知でしょうが、元々私の実家『海蛇屋』はラルーナに商売上のつてがあり、あちらでの商売許可証も持っています。良質なラクレイド産の葡萄酒や乳製品はあちらで喜ばれますから、細々ながら商売してきました。もう十年になりますね。実は最近、ラルーナにある王家の別荘にも少々、食料品や日用品を納めておりまして。質の良いのを価格を抑えて提供していますので、取引する気になったのでしょうな。デュクラ王家の台所事情が知れますね」
おかげでこの辺りの事情の確証が得られたわけですが、と、グスコは淡々と言う。
子供っぽいところのある不愉快な男だが、やるべきことはやるのだ。
しかし、十年ラルーナで商売をしてきた程度の外国の商人から、その国の王家が物を買い付けるなどあまり例を見ない。
趣味的な珍しい物なら外国の商人から買うのもわかる。が、食料品や日用品を恒常的に買うなどまずない。
そうせざるを得ないあちら側の事情に、良いことは考えられない。経済的な困窮をはじめ、忠誠心や規律の低下や鈍化も透けて見える。
眉をしかめたまま、公爵はつぶやく。
「デュクラはここ二十年ばかり、確かにあちこちで散発する反乱や小競り合いに悩まされているが。かなり……疲弊しているのだな。まあ、でなければさすがにルードラ化を受け入れる訳もないか」
「ルードラントー側が休戦を呑む条件として、かなり吹っ掛けてきたようですし……デュクラはもう駄目ですね」
無残なまでにグスコは切り捨てる。身も蓋もない。
苦笑いを含んでグスコを見る公爵へ、再び、駄目ですねとグスコは真顔でくり返し、続ける。
「連中の次の狙いはラクレイドです。セイイール陛下がお亡くなりになられ、ラクレイドの宮廷はかつてないほど求心力を欠き、烏合の衆となり果てています。私がルードラントーだったとしても、絶好の機会だと思うでしょう」
「まったくだ。私もそう思う」
苦い真顔で公爵は同意する。
「狙うとすれば……フィオリーナ王女殿下か」
「でしょうね。デュクラ王家の血も引くかの方は、ラクレイドだけでなくデュクラの首根っこたり得ましょう」
ふう、と公爵は息をついた。
「出来ればやりたくない、最悪の際どい一手を……打たなくてはなるまいな」
それから二、三、細かい報告を受けた後、公爵はグスコへいくつか指示を与えた。
再び旅装に身を固めたグスコを公爵と見送る。
「コーリン」
名を呼ぶ上官の目を、エミルナールは静かに見返す。
「聞いていた通りだ。今後……」
「ええ」
エミルナールはすべてを聞く前に諾う。
「閣下が何故私に、戦えるようになれとおっしゃっていたのか……見えてまいりました。この最悪の『際どい一手』が、お考えのひとつにあったからなのですね」
公爵はただ、苦笑いをした。




