第三章 際どい一手②
翌日。
練習の場にふらっと公爵が現れた。
その時エミルナールは、土をつめた麻袋を両腕に抱え、その場でしゃがんだり立ったりを繰り返す鍛錬をやっていた。
足腰のばねを鍛える鍛錬なのだそうだ。
フウフウ言いながら立ったりしゃがんだりしている視界の隅に、ねずみ色の仕着せを着た、ひょろっとした小柄な下男が屋敷の方から近付いてくるのは見えていた。
珍しいくらい暗い髪色の男だなと、ぼんやり思ってもいた。
「なかなか腰が据わってきたじゃないか」
だしぬけに公爵の声がしたので、エミルナールはぎょっとそちらを見た。思わず麻袋を取り落とす。
「か、閣下?」
下男の仕着せを着た男がにやっと笑う。
「なんて格好してやがる。あんた仮にもデュ・ラクレイノだろう?」
さすがのタイスンもあきれた声でそう言った。
「別にいいだろう?動きやすいし替えもたくさんある。私の屋敷の中で私が何を着ていても、誰にも迷惑はかけないしかまわないじゃないか」
うそぶく公爵へ、そりゃまそうですけどねとタイスンはため息をつく。
「ロンさんが泣かないか?」
ロンさんこと執事のデュ・ロクサーノ氏は昔、王子時代の公爵が住んでいた離宮の侍従長を務めていたと聞いている。
確かに、かつて自分がお世話申し上げていた王子様が嬉しそうに下男の扮装をしている姿、それも妻子ある二十六歳のいい大人になってそうしている姿を見れば、情けなくて泣けてくるかもしれない。
もし大伯母が生きていて、今の公爵の姿を見たのなら。
落涙はしないまでも、激しく困惑するだろうなとエミルナールは思った。
「そうでもないんじゃないか。そもそも、動きやすい服がいいから下男の仕着せを持って来てくれと、私は直接ロンさんに頼んだのだよ。彼は眉一つ動かさず、承りました、御心のままにと言ってすぐ持って来てくれたけどねえ」
さようですか、とタイスンはあきらめたように答えた。思わずのように彼は、片手で軽く額を押さえる。
「まあいい。動きやすさにこだわったところをみると、あんたも鍛錬をしに来たのか?」
「ああ。しばらくろくな鍛錬をしてこなかったから、まずは軽い肩慣らしからだけど。マーノ、相手を頼む」
何故かふっとタイスンの顔が曇る。
「……御心のままに」
公爵とタイスンは向き合って立つ。
「コーリン」
肩や手足の関節をほぐしながら、公爵はエミルナールへ声をかける。
「肩慣らしだから、あまりいい模範にはならないかもしれないけど。実際の動きの中で受け身をどう取るか、攻撃をどう躱すか、少しは参考になるだろうからよく見ておけ」
はい、学ばせていただきますとエミルナールが答えるか否かの頃合いに、組手は始まった。
タイスンが近付く。足音どころか気配もなく。
ハッと気付いた時には公爵の腕をつかんで投げていた。
公爵は軽く体を丸め、頭を守りながら猫のような動作で素早く回り、中腰で起き上がる。
(頭を守るのを意識しろ。転がる場合、視線はへその辺り。体幹、つまり身体の芯ではなく、肩先や身体の側面など端の方で力を受けること。肘や膝は無造作に伸ばしっぱなしにはしない。関節は常に柔らかくしておくこと……)
タイスンから教わった、受け身を取る時のあれこれが浮かぶ。
起き上がった公爵は素早くタイスンに近付き、腰を落として相手の脚を蹴った。
いや蹴ろうとした。
タイスンは攻撃の反対側へ軽く横に転がり、逃げる。
起き上がりざまに踏み込み、公爵へ手刀を繰り出す。
公爵は手刀を躱し、反動を使って自分より余程大きなタイスンを、肩にかつぐようにして投げる。
タイスンはくるりと地を転がり、起き上がる。
演武にも似た息の合った組手だ。
いつしかエミルナールは、舞でも鑑賞しているような気分でふたりを見ていた。
やがて公爵は地面に仰向けに転がったまま動きを止め、大息をついた。
「ああ、くそう。持久力がないな、相変わらず」
弾んだ息でいまいましそうに言う。
タイスンもさすがにひとつ、大息をついた。
「そうでもないね。久し振りでそんだけ動けりゃ大したもんだ」
まんざら世辞でもなさそうに言う己れの護衛官へ、公爵は軽く苦笑する。
「と言っても。所詮は新人武官並みだろう?」
「貴人の分際で新人武官並みなのが、すでにお化けなんだよ、閣下様」
諧謔の口調だったが、タイスンの目の色は暗かった。
「コーリン」
公爵は寝転がったまま、エミルナールへ鋭く目をやる。
エミルナールは我に返ったように、あわてて膝を折り、公爵へ向き直った。
「この程度は出来るようになれ。……君の為だ」
「う……ど、努力致します」
絶対無理だ、と胸で悲鳴を上げながら、エミルナールはそう応えた。
タイスンと食堂へ向かう。早めの昼食だ。
このところ、屋敷内は閑散としている。召使いの数がごっそり減っているからだ。
大きな声では言えないが、夜盗に見せかけた刺客がいつ来るのかわからないと、公爵とタイスンは懸念している。
場合によれば屋敷に火がつけられる可能性も否定出来ない。
だから最近公爵は、フィスタやウエンリィ、近場ではロクサーノ子爵邸などへ、手伝いと称して屋敷から召使いたちを送り出している。
退職金をはずんで解雇し、故郷へ帰れるよう手配してやる場合もある。万が一騒動の巻き添えになっては哀れだという配慮だ。
今現在公爵邸に残っている者のほとんどは、古くから仕えていて身寄りや行く場所もない、老爺や老婆だ。
たとえ巻き添えになってもこちらにいたいと彼らは言っている。老いてるが皆、忠誠心に厚い優秀な仕事人だ。
「だが力仕事は、さすがにじいさまたちだけではきつい。奥方とお子方が無事にレーンへ渡ったらクラーレンともう一人、若いのがこちらへ戻ってくる予定だ。護衛官の仕事とはいえないが、あいつらにもその辺をちょっと手伝ってもらえれば、じいさまたちの負担も少しはましになってくるだろうがな」
タイスンはこのところ早朝に、薪を割ったり馬の世話を手伝ったりしているそうだ。
まったく、彼はいつ寝ているのだろうかとエミルナールは思う。
炙った塩漬け肉をパンにはさんだものを、玉ねぎととうもろこしのスープと一緒に食べる。
食事の支度も近いうちに、自分たちですることになるだろう。
王の喪の行事である『緑の影の送り』が済む頃、料理人たちもそれぞれ新しい職場へ向かう予定だ。
「タイスン殿」
食べながらエミルナールは、タイスンへ話しかける。
「閣下は……強いですねえ」
貴人としては不必要なくらい、実践的な意味で強いですよね。
何気なくエミルナールがそう続けると、タイスンは手を止めた。
「ああ……そうだな」
意外なほど苦い声での答えだったので、エミルナールは驚く。思わず手を止め、タイスンの顔を覗いた。
エミルナールと目が合うと、タイスンは思い出したようにスプーンを動かし、やや苦く笑う。
「確かに強いな、不必要なくらいに。そりゃあ、護衛の対象が強いのは護衛官にとっちゃ助かる話だがね。……強くならなきゃ落ち着かなかったのだろうよ、あいつは」
タイスンの最後のつぶやきが、妙に耳に残った。
どういう意味か問いたかったが、タイスンの暗い目を見てはとても気軽に訊けはしなかった。
そんな感じで日は過ぎ、『緑の影の送り』の日になった。
このところ下男の仕着せばかり着ていた公爵も当然、身分に相応しい貴色の喪服で身を固め、きちんとつけ毛もつけてタイスンと出かけた。
当然だがその身なりの方が、下男の仕着せよりずっと彼に似合っていた。
彼はやはり王子として生まれ育った人なのだなあと、執事と一緒に王宮へ向かう馬車を見送りながら、改めてエミルナールは思った。
『緑の影の送り』は国事ではあるが埋葬の儀同様、お身内の方だけでしめやかに行われるのが慣習なので、エミルナールは随行しない。
だから今日もエミルナールは、裏庭の楡の木の下で鍛錬をしていた。
日課の柔軟体操を念入りにやりながら、エミルナールは考えごとにふける。
公爵は最近、鞘に収まったままのナイフを使った戦闘訓練に励んでいる。相手は当然、タイスンだ。
タイスンは素手、もしくは練習用の片手剣を手に公爵へ向き合う。
正直、睨み合っている時間の方が多い。どちらかが動いた次の瞬間には、大抵勝負が決まっている。
当然、大体の場合はタイスンが公爵の動きを封じて無力化している。
が、見ている限り決して楽に公爵を圧倒しているのでもなさそうだった。
ふたつ名持ちの護衛官が本気で相手をしている、という事実。
そこに思い至り、エミルナールは、公爵の戦闘能力の異常な高さが恐ろしくなった。
公爵の攻撃は、相手の急所を一撃で狙う獣の狩りを思わせた。張りつめた殺気に、エミルナールはただ圧倒される。
(強くならなきゃ落ち着かなかったのだろうよ、あいつは……確かタイスンはそう言っていたな)
刺客が来るかもしれないのだから、用心しなくてはならないのはわかる。
貴人であっても油断せず、せっせと己れの護身の腕を磨くのも、彼の性格ならわかる気がする。
しかしタイスンの『落ち着かなかった』という言い回しは、考えてみればどこか変だ。
何故『落ち着かない』ではないのだろう?
ずっと前から公爵は、身の危険に備え続けてきたということなのか?
「リュクサレイノを甘くみるな」
国葬の日の夜の公爵の言葉をふと思い出す。
ひどく実感がこもっていた。
もしかして公爵は過去、リュクサレイノに命を狙われた経験があるのか?
(だとすれば……何故?)
外国から来た側室の王子など、リュクサレイノが邪魔に思うだろうか?
レーンとの同盟は南方の海域の防衛上重要な意味があり、大切だ。が、宮廷内の力関係に及ぼす影響は小さい。レライアーノ公爵が、スタニエール王やセイイール王の宮廷で大きな力を持つとも思えない。
それに引きかえ、リュクサレイノは王の外戚だ。
セイイール陛下にせよフィオリーナ王女にせよ、リュクサレイノの血筋。
王が早逝なさるなどという事態に至った今ならいざ知らず、過去の公爵をリュクサレイノが狙う意味などない。
(そういう、ことではない……のか?)
『虚ろの玉座の嘆き』で我を忘れて公爵を罵っていた、老リュクサレイノの醜くゆがんだ顔を思い出す。
彼がいくら年老い、自制が利きにくくなっているにせよ。
公の場で、腹違いとはいえ亡くなった王の弟君である方へ対し、魔女の息子だのレクライエーンの申し子だのという暴言を吐くなど、普通考えられない。
王の外戚であるとはいえ、彼は一侯爵家の隠居に過ぎないのだから。
(私怨?)
ふと思う。
レライアーノ公爵と老リュクサレイノは、意見が違う政敵だとか要するに虫が好かないとか、そう言う単純な問題なのではなく。
どちらかがどちらかを殲滅せずには収まらない、拗れ切った関係……なのかもしれない。
いつしか鍛錬の手が止まっていた。
神山ラクレイは今日も静かに冷ややかに、冴えた空へ向かって白い峰を光らせていた。




