第二章 デュ・ラク・ラクレイノの娘⑪
クシュタンの言葉を聞いた途端、胸に影が差したような心地がしたが、
「ええ。ありがとう」
と礼を言って、フィオリーナは笑みを作った。
クシュタンの表情が微妙にゆれる。
が、あえてのように彼も笑みを作り、お役に立てて光栄ですと答えた。
「ごめんなさい、何だか心配をかけてしまったみたいね」
フィオリーナが言うと、クシュタンは少し表情を引き締めた。
「余計なことではありますが、確かに少し気にしておりました。遠くからちらちらとお姿をうかがっていただけですが、お父上が亡くなられたからというだけでなく、フィオリーナ姫のお顔からどんどん明るさが消えていくような印象を持ちましたので」
フィオリーナは思わず苦笑いする。
いかにもクシュタンらしい。
言いにくい、普通ならもう少し遠回しに言うであろうことでも彼は、さらっと真顔で言う。そう言えば父ですら時に、あまりにも真っ直ぐ過ぎるクシュタンの言葉に絶句していた。
フィオリーナの胸がゆらいだ。
瞬間的に、ここしばらくのもやもやのすべてをぶちまけたい衝動に駆られたが、いくら父の腹心である古くからの馴染みであっても、何もかもあけすけに言う訳にはいかない。
ひとつ大きく息をつき、少し考えてこう言う。
「仕方ないわ、だってわたくしは王女なのよ。王であるおとうさまが亡くなったのですもの、わたくしはもうただのフィオリーナではいられないの。わたくし自身は愚かな子供に過ぎなくても、王女である限りは責任があるでしょう?わたくしはわたくしの為でなく、まずは国や皆のことを考えなくてはならないのですから」
クシュタンはかすかに眉を寄せた。
「たとえどんなご身分やお立場であっても、自分のことをまったく考えないではいられないでしょうし、むしろそういうお立場の方こそ、なおさらきちんと考えるべきだ、私はそう思いますよ、フィオリーナ姫」
クシュタンは言葉を探すように、ひとつ小さく息を落とした。
「私は陛下の護衛官でしたから、どうしてもかの方のお心持ちにそった物の見方をしてしまいますが。どんな道をお選びになるにせよ、まずはフィオリーナ姫がお幸せでいらっしゃることがすべての基本で、お父上の願いでもあると私は思います」
クシュタンはどこか父にも似た青い瞳で真っ直ぐ、フィオリーナを見ている。
「かの方はお亡くなりになる直前まで、フィオリーナ姫の行く末が幸せであるよう願っておられました。あの子がデュクラへもレーンへも、可能ならルードラントーへも行けるようにしてやりたい、あの子の翼をもぐようなことはしたくない、繰り返しそうおっしゃってもいました」
(おとうさま……)
言葉を失くす。
あの何気ない雑談を父は覚えていて、しかも大切に考えてくれていたらしい。
「姫のお心がけは立派ですが、姫ご自身がお幸せでないのなら、決して本当の意味で周りを幸せに出来ない、そんな風にも私は思います。あまりご自身を縛りつけないで下さいませ」
クシュタンの静かな言葉は、今飲んでいるあたたかいお茶のように心へ沁みてくる。作ったのではないかすかな笑みが浮かぶ。
「そうね……ありがとう、トルーノ」
クシュタンは照れくさそうに笑い、お茶を一口、飲んだ。
久しぶりの遠乗りは、疲れたが快い疲れ方だった。思い切り動いたおかげか、身体中に気持ちよく血がめぐった気がする。
湯を浴びて寝間着に着替え、寝台にもぐって脚を伸ばすと身体の芯からホッとした。
上掛けを引きかぶって寝返りを打つ。
その時、帰る道々に聞かされたクシュタンの話を不意に思い出し、胸が暗くなった。
「実は近々、お暇をいただくことになりました」
クシュタンは唐突に、まるで天気の話でもするようにあっさり、とんでもないことを言った。
「物心ついて以来お世話になってきた宮殿から離れるのは、正直心許ない部分もあるのですが……」
「ちょ、ちょっと待って。どういうことなのトルーノ」
驚いて、思わずフィオリーナは高い声でクシュタンに尋ねていた。
「あなたみたいに優秀な護衛官が、辞める?そんなこと、そもそも近衛隊が許したの?」
クシュタンは『赤銅のクシュタン』というふたつ名を持っている。
ふたつ名を捧げられる護衛官は、当代で一、二を争う優秀な護衛官だけだ。
目立つ癖や特徴がないのが特徴のクシュタンの剣は、その地味なたたずまいに惑わされて一見大したことないような印象を与える。
が、実際に対峙した者は口をそろえて、一分の隙もない剣だと言う。
クシュタンには剣がひとふりあれば、護衛官として鉄壁の防御が可能だとさえ言われている。
彼の特徴でもある長く伸ばしたあかがね色の髪と、鉄壁の防御力を誇る剣技の素晴らしさからこのふたつ名がついた、と、フィオリーナは聞いている。
ふたつ名持ちで三十前なら、優秀な上に護衛官として脂の乗り切った時期であろう。
実際の護衛の任務だけでなく、後進の指導官としても大いに近衛隊から期待される立場のはず。
クシュタンは苦い笑みを口許に含み、ええまあ……と言葉を濁す。
「しかし私は以前から、セイイール陛下の護衛官以外を務める気はないと近衛隊の長官に話していたのですよ。私にセイイール陛下の護衛を務めるだけの力がなくなった時か、もしくはセイイール陛下がお亡くなりになられた時が私が務めを辞める時だと思っている、と」
その時期が思いがけないほど早かっただけですよ、と、彼は淡々と言う。フィオリーナは絶句した。
そんな馬鹿なと思うかたわら、クシュタンらしい気もされた。
彼が武官として務め続けるのを望むならまだしも、『セイイールの護衛官』という務めがあまりにもはまっていた彼に、近衛隊での他の役目や仕事は似つかわしくないかもしれない。
「わたくしの……護衛官になってくれる、という道はないの?」
退けられるのを承知でフィオリーナは言ってみた。クシュタンは小さく笑う。
「嬉しいことをおっしゃって下さいますね。ですが今現在、姫の正護衛官はデュラン護衛官です。彼は近衛隊でも指折りの優秀な護衛官で、フィオリーナ王女殿下の護衛官であることを誇りに思って務めていますよ。最も、殿下がどうしても彼になじめないとおっしゃるのなら、別の護衛官へ替えることになるかと思いますが……」
「あ、いいえ。デュラン護衛官が嫌とかそう言うことじゃないの」
フィオリーナは慌てて言う。
『学友』制度が始まり、春宮のフィオリーナの客間や居間へ貴族の子女が出入りする機会が増えるのを機に、デュランは配属されてきた。
父親世代ではあるし、友達のような親しみが持てる訳ではないが、責任感ある誠実な彼をフィオリーナは信頼している。
しかしクシュタンへ自分の護衛官になれと言うことは、結果的にデュランを更迭することになる。
そんなつもりはなくても、デュランの経歴と心を傷付けてしまう。
フィオリーナは思わずため息をついた。
「駄目ね、さっきあんなに偉そうなことを言ってたのに。不用意なことを言えば傷付ける必要のない人を傷付けてしまう立場よね、わたくしは」
「それを知っていてさえ下されば、大丈夫ですよ、姫」
優しくクシュタンは言ってくれたが、フィオリーナは恥ずかしい。
しばらく黙って二人は進む。常歩から速歩で進む馬のひずめの音だけが響いた。
王宮が近付いてきた頃、クシュタンは言った。
「近いうちに離職の挨拶に参ります。離れてしまう立場の者が言うべきではありませんが、お小さい頃から姫を身近で見知っている大人の一人として、貴女様がお幸せな人生を送れるよう影ながらお祈りいたしております。どうぞラクレイアーンの光と共にあられますよう」
「あなたこそ。ラクレイアーンの光と共にありますように」
型通りに紋切りの返事を深く考えずに返した瞬間、フィオリーナは途轍もなく寂しくなった。
にじむ涙をこらえ、唇をかんでただ前だけを見つめた。
どうして親しい者がみんなみんな、自分のそばからいなくなるのだろう?
寝台に落ち着いた後、フィオリーナはふと思った。
これがわたしに課せられた、前世の罪に対する罰なのだろうか?
罰なのだから粛々と受け入れ、乗り越える姿を神へお見せするようにと、少なくとも神官ならそう諭すだろう。
前世のフィオリーナはよほど傲慢で、身近な人を大切にしなかったかもしれない。
(レクライエーン。わたくしが前世、罪深かったのだとしても。お願い致します、どうぞこれ以上は奪わないで下さいませ。なにとぞ……なにとぞお願い申し上げます、奪わないで下さいませ)
まぶたを閉じて祈っているうちにフィオリーナは、いつしかまどろんでいた。
数日後、クシュタンが離職の挨拶に来た。
その際、生前の父から託されたという手紙が渡された。フィオリーナが悩んでいるようなら渡してくれと託されたのだそうだ。
簡単で短い手紙だったが、どこか謎めいた文面だった。
『私の愛する娘 フィオリーナへ
もし進むべき道に迷ったのなら、直感を信じていい。
大丈夫。
貴女の直感は正しい。
直感が命じぬ方向は進むべき道ではない。
貴女はデュ・ラク・ラクレイノの娘。
貴女の直感は神のご意志だ。
貴女の父 セイイール・デュ・ラク・ラクレイノ』




