第二章 デュ・ラク・ラクレイノの娘⑩
『緑の影の送り』もどうにか無事に済んだ。
久しぶりに顔を合わせたレライアーノ公爵とリュクサレイノの曾祖父さまが、多少、冷ややかなやり取りをしていたものの、大きくもめることもなく儀式はしめやかに執り行われた。
喪中なりの日常が始まった。
黒や灰色、白などを基調にしたあっさりとした普段着の左胸に、弔意を表す黒いリボンの喪章をつけ、学友の少女たちも春宮へ出仕し始める。
フィオリーナも学友の少女たちと同じような装いで、彼女たちと一緒に学習や訓練を始めた
借りてきた猫のように静かで、ほとんど口も利かない王女に皆、居心地が悪そうだった。
しかし、学友の集まりが二度三度繰り返されてもフィオリーナの落ち込み様が変わらないのに、彼女たちも次第に心配になってきたらしい。
近しい身内の死を具体的には知らなくても、それがどんなに辛く悲しいかくらいは想像がつく。
普段フィオリーナ王女の言動に振り回され、困惑してきた彼女たちだが、落ち込む王女に同情するくらいの親しみは持っている。
「姫殿下。少しよろしいでしょうか?」
自然と少女たちのとりまとめ役になったサリアーナ・デュ・ラク・ロクサーノ、春宮侍従長の末の妹がお茶会へ向かう途中でフィオリーナへ話しかけてきた。
「みんなとも少し話したのですが。紅葉もまだ綺麗ですし、もしよろしければ神山の麓の森へ遠乗りに出かけませんか?」
唐突な誘いに、フィオリーナは怪訝そうにサリアーナの顔を見た。
神山の麓の森は王家の所領だが、奥にある王家の墓地周辺部以外は、昔から比較的自由に出入りを許している。
森番を置いて管理しているがさほど厳しい訳でなく、近隣の者がきのこやクルミなどの森の恵みや、焚きつけ用の枯れ枝を取りに行くことくらいは黙認されているし、貴人の子弟がのんびり馬で遊びに行ったり出来る場所として古くから開放されてもいる。
「実は昨日、陛下の正護衛官を務めていらっしゃったクシュタン護衛官が兄を訪ねてこられたのです。クシュタン殿は、殿下のご様子を気にして心配なさっていらっしゃいました」
クシュタン護衛官は父の正護衛官で、さながら影のようにいつも父のそばにいた。
かの遺言状を渡された時も、クシュタンだけが父のそばにいたものだ。
当然、彼はフィオリーナのこともよく知っている。
フィオリーナの方もまだ舌が回らない頃から、彼をトルーノと愛称で呼んできた。ある意味デュランより親しいかもしれない。
しかし彼はあくまでセイイールの護衛官、セイイールが亡くなってからはどうしてもフィオリーナとは疎遠になる。
彼個人としてはフィオリーナが落ち込んでいるのを気にしていたのだろうが、それを伝える機会すらなかったのだろう。
「あの方は、出来れば殿下をお慰めしたいのがどうしたらいいのかわからない、学友の貴女ならご存知だろうから教えてほしい、殿下は何がお好きなのだろうかとお尋ねになられました。そこでわたくし、差し出がましいかとは思いましたけど、殿下は乗馬がお好きですと申し上げました。それならば我々が護衛を務めるので、殿下と令嬢方で森へでも遠乗りに出かけては如何かと。クシュタン殿とその部下の皆さんは今現在、所属が浮いた状態ですから時間の融通をつけやすいのだそうです」
いい気晴らしになると思いますが、と、少しばかり気の置けるふうにこちらをのぞき見ながら、サリアーナはつけ加える。
フィオリーナはかすかに苦笑した。
彼女たちの気持ちは嬉しい。
落ち込んでいるフィオリーナへ、ちらちらと気の毒そうな視線を向けているのも知っていた。
だけどこの提案は彼女たち、特にサリアーナにとって全く下心がないとも言えないのだ。
護衛官は、剣技をはじめとした武官としての技能はもちろん、健全な人格、幅広い知識と賢明さとを持ち、容姿もある程度以上だと認められなければ任官されない近衛武官の精鋭だ。
少女たちから憧れの目で見つめられることも多い。
護衛官は近衛隊の中で最も激務、故に貴族階級の者であえて護衛官を目指す者は少ない。
が、平民であっても護衛官として務めれば退官後、一代限りの爵位である『準爵』と小さな荘園を賜るので、中流以下の貴族の子女との婚姻も可能だ。
フィオリーナの正護衛官であるデュランは年齢が高すぎて憧れの対象から外れているが、『理想のおとうさま』として密かに人気があったりする。
サリアーナは以前からクシュタン護衛官に憧れ、淡い恋心を抱いている。
お茶会で一度、どんな殿方が理想の恋人かなどという話が出た時、サリアーナは、クシュタン護衛官のような方が理想だと言って頬を染めていた。
クシュタンはすらりとしていて立ち姿が美しく、セイイールにもどこか似た雰囲気の青い瞳、繊細で端正な顔立ちをしている。
セイイールの乳兄弟であるから父親世代の男性だが、家庭を持っていない為か実年齢よりも若く見える。
武官は普通短く髪を刈り上げているものだが、クシュタンは違った。
磨いた銅にも似た赤みがかった金の髪を、長く伸ばしてひとつにまとめているのだ。
なんでも、セイイールがごく若い頃、彼の美しい髪を愛でて短くすることを禁じたという逸話がある。
その貴人のような髪型に相応しい優雅な立ち居振る舞いの彼は、現実の武官というより、物語に出てくる姫を守る騎士のようでさえある。
サリアーナだけでなく、クシュタンに憧れめいた気分を抱いている少女は少なくない。
フィオリーナくらいの年頃の少女が遠乗りとなると、殿方が乗る馬に相乗りさせてもらうことになる。
そうなると、フィオリーナは正護衛官のデュランと相乗りすることになるだろうから、少女たちの誰かがクシュタンと相乗りすることになる。サリアーナたちはそれを期待しているに違いない。
元気のないフィオリーナを慰めたいという気持ちも嘘ではなかろうが、憧れのクシュタンと相乗り出来るかもしれない期待で、彼女たちはこの話を持ってきたのだろう。
わかりやすくも可愛らしい下心だ。
だけどフィオリーナは決して、こういうのは嫌いではない。
王女の憂鬱を慰めながらも自分は自分でちゃっかり楽しむ。
たくましくも正直で、いっそ小気味がいい。
フィオリーナの苦笑はいつの間にか、本物のほほ笑みに変わっていた。
「そうね、それも面白そう。くわしいことはサリアーナ・デュ・ラク・ロクサーノにお任せしてもいいのかしら?」
「もちろんです、殿下」
サリアーナは花が咲いたように明るく笑い、応えた。
当日。
さすがに王の喪中であるので派手な色合いは避けられているものの、それぞれに可愛らしい乗馬服姿の少女たち七人が集まった。
フィオリーナを入れて八人、『学友』の少女たちのほとんどが集まったことになる。
馬を曳いた武官たちがやって来た。
「おはようございます、フィオリーナ殿下。そしてお嬢様方」
先頭にいたクシュタンが口を開く。
「今日は一日、よろしくお願いいたします」
クシュタンとその部下、デュランの部下で計十人の護衛官が馬を曳いている。
「あら、デュラン護衛官はどうしたの?」
さっきまでそばにいたし、てっきり馬を連れてくる為に席を外しているのだと思っていたが、何故か彼だけがいない。
クシュタンが申し訳なさそうに眉を寄せた。
「いえ。実はさっき突然、デュラン護衛官が近衛隊の方から呼び出されまして。彼は当然、今日は殿下の護衛をして森へ行く予定だから用は後にしてくれと言ったのですが、デュラン護衛官でなくてはわからない仕事が緊急に入ったからすぐ来るように、殿下の護衛はクシュタンに代わってもらえばいいから、と……」
番狂わせに、ざわ、と少女たちが声なくざわめいた。
特にサリアーナは驚愕したように目を見開いている。
申し訳なさそうにクシュタンは目を伏せ、フィオリーナの前に片膝をついて頭を下げる。
「そんな訳ですので、本日の遠乗りでのフィオリーナ殿下の護衛は私トルニエール・クシュタンが務めさせていただくこととなりました。デュラン護衛官のようには参りませんが、精いっぱい務めさせていただきますので、なにとぞご容赦下さいませ」
「頭を上げて下さい」
型通りにフィオリーナは応える。
学友の少女たちの目がやや怖いが、フィオリーナに選択の余地はない。
クシュタンはこの中で一番階級も能力も高い護衛官だし、フィオリーナは当然、少女たちの中で一番身分の高い王女、それも現時点で唯一の『デュ・ラク・ラクレイノ』だ。この場合『デュ・ラク・ラクレイノ』の護衛を任せるのなら、クシュタン以外は有り得ない。
「事情はわかりました。それではクシュタン護衛官に護衛をお願いします」
「御心のままに」
頭を下げるクシュタンとうらやましそうなサリアーナを前に、フィオリーナは内心、ため息をつく。
(なんだか最初から面倒なことになってしまったわね)
クシュタンと相乗りをしてフィオリーナは進む。ゆっくり目の常歩だ。
「怖くはありませんか、フィオリーナ殿下」
二人乗り用の鞍の前側に座っているフィオリーナへ、クシュタンは気を遣った口調で問う。
フィオリーナは笑みを作って軽く振り向いた。
「殿下じゃなくてフィオリーナでいいわよ、トルーノ」
学友たちの目がなくなったのでフィオリーナの口調が砕けた。
「そりゃあ武官のあなた方の足元にも及ばないでしょうけど、これでもわたくしは女の子たちの中では一番、乗馬は得意なのよ。渋るおとうさまに無理を言って、夏頃から速足以上を教えてくれる乗馬の先生をつけてもらったくらいですもの。もっと早くてもかまわないくらいだわ」
苦笑まじりながら、クシュタンは嬉しそうに小さく笑う。
「そうですか。では遠慮なく。しっかりつかまっていて下さいませ」
言うと彼は、そばを行く己れの部下の一人に目顔で合図した。上官の指示を了解し、彼は駆け出す。
「では我々も行きましょう!」
楽しそうにクシュタンは言うと、軽く鞭を鳴らした。
突然景色が動く。
速歩から駈歩へと瞬くうちに馬は速度を上げる。
後ろの方で少女たちのうちの誰かの悲鳴が聞こえた気がしたが、フィオリーナは手綱を握りしめて飛びすさる風景を見ているしかなかった。
「身体の力を抜いて下さい」
トルーノの声。
フィオリーナはハッとして肩の力を抜き、軽く前傾姿勢になる。馬の動きに逆らわず馬と自分を合わせてゆく気持ちで前を見る。
速度が上がるにつれ、頭から言葉が消えてゆく。
身体が風に溶け、もやもやも風の中へと溶け去る。
先に着いたクシュタンの部下が、森の奥の四阿のそばで火を起こしてくれていた。
クシュタンに助けられながら馬から降りたフィオリーナは、思わずよろめいてしまった。
「大丈夫ですか?申し訳ありません、フィオリーナ姫。馬の速度を上げ過ぎましたね」
心配して謝るクシュタンへ、フィオリーナはやや引きつりながらも笑む。
「大丈夫よ。ごめんなさい。でも襲歩って思っていたよりずっと速いのね、ちょっと……びっくりしちゃったわ」
四阿の木の長椅子の、背もたれに寄りかかるように座り、フィオリーナは休む。ここしばらく乗馬どころじゃなかったとはいえ、すっかり身体がなまっていたらしい。関節がきしむような気すらする。
クシュタンと彼の部下はきびきびと動き、馬の世話をしたりヤカンを火にかけてお茶の支度をしたりしていた。
沸かし立ての湯で入れてくれたお茶に、木の実をたっぷり入れて焼きしめた菓子を添えて勧めてくれたので、礼を言っていただく。砂糖を多めに入れた熱いお茶が、森の空気の中で冷え始めた身体に沁みる。美味しい。
クシュタンもお茶を持って来て、フィオリーナのそばに立った。
「こちらでお相伴させていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「もちろんよ。座って下さいな、畏まる必要なんかないわ。あなたは時々、おとうさまのお茶に付き合っていたじゃない。わたくしのお茶にも付き合って下さいな」
フィオリーナが言うと、お心遣いに感謝致します、とクシュタンはお茶を手に少し離れたところにある背もたれのない小さな椅子に座る。
お茶とお菓子を楽しみながら、フィオリーナはクシュタンと他愛のないおしゃべりをする。
芳しい落ち葉のにおいの中でのお茶は、居間で飲むより数倍美味しく感じられた。
「少しは……気が晴れましたか?姫」




