第二章 デュ・ラク・ラクレイノの娘⑨
国葬の翌朝。
さすがに疲れたのだろう、フィオリーナはだるくて起き上がれなかった。
微熱もあるので侍医が呼ばれ、安静にしているようにと指示された。
しかし、半日横になっているとさすがに少し元気も出てきた。寝台の上でただ安静しているのも時間を持て余す。
蜂蜜湯と一緒にゼリーや果物などの軽いものを摂った後、フィオリーナは、乳母のジャスティン夫人に頼んで書庫から本をいくつか持って来てもらった。
半身を起こし、そのうちの一冊を取ってページを繰る。
少し前に、首座神官の弟子のひとりである若い女性神官の指導のもと、学友の少女たちと読んだ子供向けにまとめられたラクレイド神話の本だ。
『遥かな昔。
すべてが混沌とした中から、一柱の神がお立ちになられた。
光と生の神・ラクレイアーンである。
ラクレイアーンは辺りを見回し、あまりに何もかもが混ざり合っているのは良くないとお思いになられた。
そこで神は混沌を整えようと、腕をひと振り、ふた振り、三振りなされた。
空と大地、太陽、月と星々が生まれた。
山と川と森が生まれた。川の果ては海となった。
草の萌える平らな野が生まれた。
これだけではさびしいと、神はそこに住まう獣と鳥をお創りになられた。
木や草は花を咲かせ実をつけて神の奇跡を繰り返し、獣と鳥も番って子を成し、やはり神の奇跡を繰り返した。命を繋げたものは役割を終え、大地に溶けて混沌へと返った。
混沌はただの混沌ではなく、美しい秩序の流れに組み込まれた』
『創世神ラクレイアーンは最後に自身の似姿を、土と水、木を組み合わせてお作りになられた。それを火にくべて焼き固め、ふうっと息を吹き込まれた。神の似姿と息吹をいただいた特別な生き物は、秩序ある世界を治める者・人間と呼ばれる。
秩序ある世界を治める者を生み出し、安心なさった神は北の地にお座りになられ、静かに目を閉ざして眠りにつかれた。
これが神山ラクレイである』
誰もが知る創世神話だ。
神山ラクレイとは眠っている創世神ラクレイアーン。眠りながら神は、我らを見守っていて下さる。
ラクレイドの信仰の基本だ。
国葬が済み、喪の行事は一段落がついた。
次の行事はあと二十日ほど後の『緑の影の送り』と呼ばれる儀式だ。
『影送り』はラクレイドで広く行われている喪の儀式だ。
死後、別れを惜しんでこの世にとどまっている魂が迷わぬよう、月がひと巡りした翌朝、故人の服や愛用品を火にくべて、その煙があやまたず神山ラクレイへ向かうよう、近しい者たちで見送る儀式だ。
『緑』はセイイール・デュ・ラク・ラクレイノの貴色。
『緑の影』とは、死後月がひと巡りする間この世にとどまる、セイイール王の魂を指す。
月がひと巡りした夜が明けた朝、玉座から緑、すなわち王の貴色の練り絹を首座神官の立ち合いの許、王の最も近しい親族が取る。
そしてそれを神官たちと共に大神殿へ運んで聖なる火にくべ、その煙が神山ラクレイへ向かうよう見送る儀式である。
これをもって王の魂は完全に眠りの国へと行かれるのだ、と伝えられている。
残された者は翌年の命日まで喪に服し、王を悼んで身を慎んで暮らす。
玉座は虚ろのまま命日まで置かれる。
王の命日が過ぎると次の王の貴色である練り絹が、翌新年朔日の正式の即位の日まで玉座にかけられるのが慣習だ。
正式に即位するまで次の王は仮の王で、公には『執政』と呼ばれる。執政の君と呼ばれる場合もある。
敬称は殿下など、王になる以前のまま。
正式の即位をもって名実ともにラクレイド王となり、そこで初めて彼ないし彼女は玉座へ座る。
『緑の影の送り』でフィオリーナは、玉座の練り絹を取る役を担うことになっている。
普通は、玉座から練り絹を取る者が次に玉座へ座る訳だが……今回はどうなるのかまったくわからない。
フィオリーナの貴色は正式に定まっていないが、祖父である故スタニエール陛下の貴色である『黄』を受け継ぐ予定ではある。
フィオリーナ姫の為に最上級の黄の練り絹を用意させます、と、そう言えば国葬の前にリュクサレイノの曾祖父さまはフィオリーナへ言った。
聞きようによれば不謹慎でもあり、答えようがなくて苦笑いでごまかした。
ため息をつきながら、フィオリーナは再びページを繰った。
『深い眠りにつかれた神は、閉じたまぶたの裏で己れの内側をご覧になられた。
眠りの闇は混沌ですらない。それをじっと見つめるうち、神の瞳は研ぎ澄まされ、すべてを切り裂く鋭い刃となった。
闇を見つめている眠るラクレイアーンを、レクライエーンと称する。
命を繋ぎ、役割をまっとうしたとはいえ人間たちは特別な生き物、混沌へは溶け込まず神の眠りに引かれてやって来るようになった。
眠りの国の王となられたラクレイアーン改めレクライエーンは、鋭いまなざしで命をまっとうした人間たちの生きた道のりすべてを見通し、裁くようになられた。
眠りの国の王レクライエーンは裁く神、すべてを見通す神、闇と死の神となられた。
レクライエーンに嘘もごまかしも通じない。
かの神の前に立つ者はただ、己れの生きてきた道のりすべてをさらすのみである。
秩序ある世界を治める者として恥ずかしくない、立派な生き方をしてきた者であると神はお喜びになり、褒美としてその者を、生前より良い環境へと生まれ変わらせて下さる。
秩序ある世界を治める者として相応しくない、罪深い生き方をしてきた者であると神はお怒りになられ、罰としてその者を、生前より悪い環境へと生まれ変わらせてしまわれる。
すさまじい罪を犯した者は生まれ変わることさえ禁じられ、神山を支える永遠の罪人として終わりのない罰を課せられるであろう』
『神がお喜びになる生き方をする者より、お怒りを受ける生き方をする者の方があまりに増えると、レクライエーンは目をお覚ましになる。
そして、怒りの声を上げてお立ちになられるだろう。
それこそが神山の噴火。この世の終わりである。
レクライエーンを目覚めさせてはならない。
故に人間は、死後神の御前に立って恥ずかしくないよう生きるべきである。
罪を重ねる者が増えれば、この世の終わりが近付いてくるのだから』
なんだかだるくなってきて、フィオリーナは本を伏せた。
(レクライエーンの申し子……)
ささやき声でそう呼ばれている叔父を思い出す。
あの優しい叔父さまが何故そう呼ばれているのか、フィオリーナはいつも不思議だった。
髪と瞳の色が暗いせいで皆、彼を恐ろしい人物のように思い込んでいるのだろうと、内心怒りすら感じていた。
しかし、どうやら見た目の印象だけで彼が『レクライエーンの申し子』と呼ばれている訳ではないらしい。
昨日の『虚ろの玉座の嘆き』でフィオリーナはそれを痛感した。
緑の練り絹をまとった玉座の前に立つ彼が、なんと大きく見えたことか。
ふてぶてしいまでに落ち着き払っていたことか。
腹立たしいまでに人を食った態度であったことか。
善いにせよ悪いにせよ、彼は並みの者ではない。
それだけは子供でもわかる。
フィオリーナはもう一度大きくため息をつき、本を閉じてかたわらの小卓へ置いた。
明かり取りの向こうの空は、昼間だというのに暗い。
父が亡くなって以来、フィオリーナが信じていた世界は変わってしまった。
確かなことは何もないし、何を誰を信じればいいのかもわからない。
自分がセイイール・デュ・ラク・ラクレイノの実の娘ではないと知った時も、信じていた世界ががらがらと音を立てて崩れたような気がした。が、今ほど虚しくはなかったかもしれない。
父に次いで頼りに思っていた叔父も、フィオリーナには大層甘い曾祖父も、普段は隠居である秋宮で趣味の刺繍を刺しながら静かに暮らしていらっしゃる祖母も。
フィオリーナが知る以外の、恐ろしい顔をお持ちなのだ。
(……当然じゃないの)
王弟で将軍、長く宰相を務めてきた侯爵、そして先代王の正妃で王太后。
フィオリーナの前で見せる私的な顔以外に、恐ろしくも強かな顔を持っていて当然なのだ、彼らは。
むしろ持っていない方がおかしいだろう。
ただ穏やかで優しいだけの人間に、国など背負えるはずがない。
おそらく父も、フィオリーナが知っている以上に苛烈な面を持っていたはずだ。
(でも……)
頭では理解しても心は納得してくれない。
フィオリーナはゆっくりと寝台に横たわり、上掛けに包まって目を閉じた。また微熱がぶり返してきたらしく、まぶたが重だるいし口が渇く。
(ラクレイアーン。いえ、レクライエーン)
靄のかかり始めた頭で彼女は、無意識のうちに冷徹な神へ祈り、願った。
否、愚痴を言ったが正しいのかもしれない。
(わたしの世界を……返して下さい)
父がいて母がいて、時に祖母と一緒に午後のお茶を飲む。
曾祖父が甘い顔でほほ笑み、時に潮のかおりがする叔父が珍しいお土産を持って遊びに来る。
幼いいとこたちと森遊びをしたり、新年祭のお菓子を一緒に楽しんだりする、そんなフィオリーナの日常。
閉じたまぶたがぼんやり熱い。少し息苦しいのは微熱のせいだろうか。
(わたしの世界を返して下さい)
願いをもう一度繰り返したあたりで、フィオリーナは疲れてしまったようだ。うとうとと眠り始めていた。
まぶたに浮いた彼女の涙は、夕闇の気配の中でいつしか冷たくなっていた。




