第二章 デュ・ラク・ラクレイノの娘⑦
不吉な貴人を垣間見た、翌日の夜。
寝入りばなのフィオリーナを母が起こしに来た。
最初は一瞬、幽鬼かと思った。
灯火を横に受けた母の顔は灯りと反対側の影が異常に深く、恐ろしかった。
「フィオリーナ。おとうさまが呼んでいらっしゃるわ。来て頂戴」
鋭い母のささやき声。いよいよその時が来たのかと慄いた。
無言でうなずき、フィオリーナは寝台から降りる。
震えながらハンガーからガウンを取り、はおる。
勇猛な武人であった先祖を持つラクレイド王家は、質素で自律的、質実剛健であることを尊ぶ。
壮麗な宮殿や華やかな装飾品は自分たちの為ではなく、ラクレイドという国を飾る盛装のようなもの。国の盛装はあくまで国の為のもので、己れの為の日常と思うなかれ。
代々家訓として伝えられている。
その精神を受け継ぐ躾のひとつとして、王子も王女も最低限の身の回りのあれこれは自分でするよう幼い頃から教えられる。
ごく幼い頃や病中病後を除き、日常の着替えや使ったものを元に戻すなどは自分でする。
震える手でガウンの帯紐を結びながら、こういう場合は自分で出来て良かったとフィオリーナは心の隅でぼんやり思う。
がくがく震える身体や指先を他人に見られ、気遣われるのはこういう場合、うとましい。
気遣ってくれるのはありがたいが、うとましい。
学友の少女の中には、着替えすらまともに出来ない者も少なからずいる。
乗馬服から普段着に着替えるのも、側付きの者に手伝ってもらっているらしい彼女たちに驚いたのはついこの間だ。
彼女たちはこういう場合も、侍女の手を煩わすのだろうか。
己れひとりでは着替えすら満足に出来ない、他人に頼るしかない儚くか弱い貴婦人。
こういう貴婦人を、殿方は思わず庇いたくなるかもしれない。
でも。
(わたし……わたくしは、嫌)
そんなことを思いながら灯りを手にした母の後ろに従う。
そうよ、嫌。何もかも他人任せの人生なんて嫌。
睨むように母の背を見ながらフィオリーナは思った。
父の寝室。
壁際にクシュタン護衛官が立像のように控えているだけで、他に誰もいない。
「陛下」
母の声に、父はまぶたをこじ開けた。
「アンジェリン。フィオリーナ」
しわがれた声で名を呼ぶ。母と二人で寝台へ近付く。
「アンジェリン。遺言状を預ける」
言葉と同時に、クシュタンが銀の角盆に乗せられた封筒を差し出す。母は目に見えて青ざめた。
「ラクレイドでは王の遺言は王妃が預かるのが慣習だ。葬儀の後に『虚ろの玉座の嘆き』と呼ばれている会食があり、その終盤に王の遺言が発表される。その時まで王妃が遺言状を、誰にも言わず、見せず、肌身離さず厳重に保管するのがこの国の慣習だ。暗黙の了解なので誰も聞いてこないだろう。……貴女に託す。よろしく頼む」
何度か大きく息をつき、母は、奥歯をきつく噛んでうなずいた。角盆の遺言状をそっと取り上げる。
「私の亡き後、一時的に宮廷は混乱するかもしれない。貴女に託したこの遺言は、更なる混乱を招くかもしれない」
父に声は小さい。
「それでも。貴女方二人にとり、そして何よりこの国にとり、最善を考え抜いた末での遺言だ。守っておくれ」
「御心のままに」
母が応え、フィオリーナもうなずく。
「御心のままに。公開されるその日まで、決して誰にも言わず、見せず、おかあさまと一緒に保管致します」
応えた途端、フィオリーナの目からぽろぽろと涙が流れ出た。
痛ましそうにこちらを見る父。
涙を見せるつもりなどなかったのに。思い、フィオリーナは唇をかんで涙を止めようと力を入れたが、無駄だった。
母がフィオリーナを抱き寄せる。
髪を撫ぜる指が冷たく、湿っている。彼女も泣いているのだとしばらくして気付く。
「アンジェリン。フィオリーナ」
しわがれた父の声が震える。
「私は二人とも愛している、この上なく。二人を最後まで守れなくて申し訳ない。申し訳ないですまないことはわかっているが、今の私は謝る以外、他に何も出来ないのだ。謝る以外何も出来ない、ふがいないこの身が情けない……」
父の目尻に涙が一筋流れ出た。
「たとえ死んでも私は二人の幸せを祈っている。幸せに、なっておくれ」
私は二人と出会えて幸せだったよ。
そう言った後、父はまぶたを閉じた。
セイイールさま、という母のつぶやき。
母が『陛下』『おとうさま』以外の呼び方で、それも名前で父を呼んだのを、フィオリーナは初めて聞いた。
そのまま父がまぶたを開けることはなかった。
時々軽いいびきをかく昏迷が以後二日ばかり続き……昏睡に陥り、やがてゆっくりと彼は呼吸を止めた。
満二十七歳、この晩秋にようやく二十八歳。
まだ青年と呼べなくもない若さだった。
目まぐるしさの中で時々、フィオリーナは放心している。
陽射しはうららかだ。
神山はいつも通り美しい。
吹く風に枯葉の匂いがまざり始めている。近く神山の初冠雪が見られるだろう。
同じだ、いつもの年の秋と。
だけど決定的に違う。
父がいない。
フィオリーナは、いわゆるお父さんっ子だった。
母親と仲が悪い訳ではないが、父親の方に懐いている子だ。
父がいつか、娘でないのなら私がお前に忠誠を誓いにゆくなどと言い出したが、親馬鹿を割り引いてもその理由はわからなくもない。
恋がどんなものかは知らないが、父と娘というだけでなく、フィオリーナはセイイールと気が合った。
同じ年頃だったなら、少なくとも無二の親友になれたかもしれない。
フィオリーナの母・アンジェリン妃は美しく品があり、物腰柔らかな貴婦人のお手本のような女性だ。
憧れる気持ちはなくもないがあまりに完璧な彼女に、フィオリーナは幼い頃から反発があった。
母のようになれないことがわかっている自分へ、周囲は母のようにあるよう無言で促す。
フィオリーナがたおやかな貴婦人でなくても、父はまったく否定しなかった。
フィオリーナがフィオリーナらしくいられたのは、一番は父の前、次にアイオール叔父さま、後は、強いて言うなら乳母のジャスティン夫人くらいなものだ。
最もジャスティン夫人の場合は、認めているというよりあきらめているに近いかもしれないが。
母とは……フィオリーナが距離を置く前から距離があった、気がする。
母から大切にされていないとは思っていないが、無条件に愛されている気もしない、何故か。
自分の娘というよりも、ラクレイドの王女として大切にされている、気がしてならない。
彼女が心の隅にセイイール以外の男性を棲まわせていることを知って以来、表立って態度を変えないように努めてはきたものの、フィオリーナの反発はさらに高まった。
しかし、彼女が心に棲まわせている男性こそが自分の実父なのだから、怒りも憤りもやり場がなかった。精神的に距離を置く以外、フィオリーナには対処する方法がなかった。
風に揺れる黄ばみ始めた木立を、フィオリーナはぼんやり見つめる。
葉擦れの音が寂しく響く。
この世にひとりきりで置き去りにされたような、虚脱するしかない寂しさを持て余す。虚しくて涙も出ない。
ふと思う。
頼れる身内がひとりもいないラクレイドの宮廷で、赤子の自分を抱えた母がライオナールに死なれた頃、ひょっとすると母は、こんな寂しさ虚しさを持て余したのかもしれない、と。
彼女が娘を真っ直ぐ愛せないのは、だからなのかもしれない、と、ゆれる木立を見ながら思った。
愛する男の忘れ形見であると同時に、己れをラクレイドに縛りつける忌まわしい鋼鉄のくびき。
それが、彼女にとってのフィオリーナなのかもしれない。
「姫さま。レライアーノ公爵閣下とご家族が、お悔やみをとこちらへ……」
ジャスティン夫人の声で我に返る。
そうだ、今日は埋葬の儀式の日。ぼんやりなどしていられない。
喪の装いの二人の子供が、こわばった顔でこちらへ来る。シラノールは手に、白い薔薇を一輪持っていた。
「お悔やみを申し上げます、フィオリーナおねえさま」
ポリアーナの言葉と同時に、シラノールが白薔薇を差し出す。こわばった顔の幼いいとこたちを、フィオリーナは立ち上がって迎え、それぞれの小さくて細い肩を抱く。
「ポリアーナ。シラノール」
名を呼び、薔薇を受け取ってほほ笑む。
「ありがとう。こちらで少しお話をしましょう」
(ひとりじゃない。ひとりじゃないわ、わたしは)
軽く涙ぐみ、フィオリーナは思った。




