第二章 デュ・ラク・ラクレイノの娘④
翌日からしばらく、フィオリーナには珍しく微熱が出て、寝込んでしまった。
乳母も侍医も侍女たちも、余計なことは何も言わず静かにフィオリーナの世話をしてくれた。
フィオリーナもあまりものを言わず、大人しく横になっていた。
しゃべる元気がそもそもなかったし、考えたいことも山ほどあった。
フィオリーナの世界は色合いが変わった。
良くなったのか悪くなったのか、一口には言えない。
ただこうは思った。
同じ調子でペッタリ絵の具を塗られた絵より、微妙に色合いの違う絵の具を重ね合わせて描かれた絵の方が。
あるいは、傷ひとつない真っ新な建物よりも、ひび割れやよごれが少しある建物の方が。
趣きが、深い。
フィオリーナの世界はそんな風に、心に響く趣き深いものに近付いたのかもしれない。
心に響く趣き深いものは、哀しかったり寂しかったりするのだなと、フィオリーナは明かり取りの向こうで輝く初夏の青空を見上げ、思った。
お仕事が終わると、父は着替えをする間も惜しんでフィオリーナの様子を見に来てくれる。
ただ顔を見てほほ笑み合い、ぽつぽつと他愛のないことを話す為に。
この人が父で良かった、とフィオリーナは思う。
『情より知が勝つ』と呼ばれているのがラクレイドの王族かもしれないが、それは違うとフィオリーナは思った。
知や理で抑え込まなくては、激しすぎる情に心が壊されてしまう、それがデュ・ラクレイノの血のもろさなのだと知った。
母とはあれ以後、顔は合わすもののほとんど話をしていない。
訊きたいことや言いたいことは山ほどあるが、何を訊いても何を言っても彼女を傷付け、自分も傷付くのが目に見えていた。
彼女の立場、彼女に課せられた役割を考えれば、今の立場以外に選択肢はほぼないことも理解出来なくない。
デュクラの王女としてラクレイドの王太子に嫁ぎ、やがてラクレイドの王妃となる。
その相手がライオナールであれセイイールであれ、彼女は夫となる人物を大切にし、愛する努力をする、だけ。
彼女が本当はどちらを愛しているのか、あるいはどちらも愛していないのかなど、ラクレイドとデュクラにとっては些細なことだ。
大切なのはデュクラの王女がラクレイド王の正妃となり、世継ぎをあげて両国の恒久的な懸け橋となること。
王の娘に生まれたのなら当然の役目ともいえる政略結婚を、いろいろな意味で成功に導く努力をする。彼女に出来るのはそれだけだ。
ゆるゆると考えているうちにフィオリーナはそう結論し、母の哀しさや寂しさ、やるせなさが少しは察せられる気もした。
彼女に対して複雑なわだかまりはなくもないが、彼女を激しく責めたいすさまじい怒りや敵意は、時間が経つにつれ徐々に薄れていった。
だけど、母のような生き方だけは絶対嫌だと、フィオリーナは強く思った。
あの運命の日から十日後。
王女が病に臥せっていたので休みになっていた、『学友』たちとの勉強が再開された。
身支度を乳母や侍女たちに任せながらながら考える。
母のような生き方が嫌なら、フィオリーナは母とは違うやり方で戦わなければならないだろう。
少なくとも、嫌だからと逃げてばかりいれば母よりみじめな人生が待っている。
そう。
何はどうあれ、彼女は、周りは敵ばかりといっても過言ではない他国の宮廷で、ほほ笑みと気配りという武器と己れの才覚のすべてを傾けて戦い、生き延びた。
彼女自身の心はどうあれ、ラクレイドの王子であった二人の男の心を確実につかんだ。
セイイールは彼女の下僕に等しいし、あの手紙を読む限り、実父であるライオナールも母にメロメロだったのは確実だ。
内容もそうだが、末尾に『貴女の夫にして忠実なる騎士』とあったからだ。
この国では『騎士として貴婦人へ忠誠を誓う』には二通りの意味がある。
ひとつは、己れの主の妻もしくは娘などに、肉体的欲望を伴わない至高の敬愛を捧げること。
もうひとつは妻に、貴女だけを愛すると誓うこと。
結婚の誓いは、互いに『あなたと苦楽を共にする』という誓いであるが、殿方にとって堅固な貞操の誓いとまでは言えない。しかし妻へ『騎士として忠誠を誓う』のは、今後愛人を持つどころか浮気もしないという表明であり、古来、かなり堅固で神聖な誓いとして知られている。
破った場合は妻に殺されてもいいという表明でもある。
一国の王太子がそんなことを誓っても、情勢によっては破らざるを得なくなるだろうが、それでもライオナールはあえて誓ったのだろう。
要するに誓いたくなるほど母を愛していたのだ、ライオナールは。
フィオリーナは鏡に映る自分を見る。
豊かな黄金の髪に、怜悧なはしばみ色の瞳。
そこだけは美しいと褒められなくもないだろうが、他は残念ながら凡庸だ。
醜いとまでは言えないだろうが、どう贔屓目に見ても一目で相手の心を奪うような美貌ではない。
特に、ややえらの張った、リュクサレイノの血を感じさせるライオナール譲りのあごの線が全体の調和を乱している。
自分は美しくないという自覚を持つのは、思春期に差し掛かる少女にとってかなりつらい。
だけど、自分を正しく知らないままではどんな戦いにも勝てやしない。
そしてフィオリーナは、どんな戦いも負けるつもりはない。
王女としても個人としても、誇りをかけ、最善を尽くして戦う。
その結果負けたのなら自分の中で納得がいく。
「乳母や」
髪を梳き、丁寧にみつあみを編んでいるジャスティン夫人に声をかける。
「リボンは赤にしてちょうだい」
ライオナールの貴色を身に着け、フィオリーナはフィオリーナの戦場へ向かった。
王女が病み上がりなので、講義は古典詩の復習が中心になった。
お茶会も軽く短めにということで、少女たちは当たり障りなく、講義で習った詩を話題に選んだ。
「姫殿下はどの詩がお好きですの?」
春宮侍従長を務めているロクサーノ子爵の、末の妹であるサリアーナが問う。彼女は少女たちの中で一番年上の十二歳、自然と皆の取りまとめ役になっている。
「そうね」
少し首を傾げ、フィオリーナは答える。
「『神狼と乙女』は、素敵だけど今のわたくしにはピンとこないわ。ただひとりしか見えなくなる恋って、憧れるけど今のわたくしは恐ろしいわね、まだ子供だからかもしれないけど」
いつもはほとんどしゃべらない王女が饒舌なので、少女たちは怪訝な顔をした。
「古典詩のような格調ある作品じゃないけど、こういうの、ご存知かしら」
言ってフィオリーナは立ち上がり、暗唱する。
「かの方は日輪のごとし。熱く輝く紅蓮の炎。
……熱く激しく燃え上がり、骨をも残さず焼き滅ぼす」
少女たちの顔がこわばった。
たとえ具体的には知らなくとも、これが王族の誰かを歌った『陰歌』……こっそりと歌われる悪口の歌なのがわかる。フィオリーナは続ける。
「かの方は月影のごとし。玲瓏たる知性の輝き。
……どこまでも冷たく美しい、蒼き血潮の銀の影」
「で、殿下」
サリアーナがやや青くなる。
当然かもしれない、これは現王セイイールの陰歌だ。フィオリーナはほほ笑む。
「故ライオナール王太子殿下とセイイール陛下の陰歌よ。陰歌は真実そのものとは違うけれど、真実のかけらは歌っているわね。調べてみたんだけど、ライオナール殿下は気性が激しい上に真っ直ぐ過ぎてよく周りの者を困らせたそうだし、セイイール陛下は陛下で、ご自分が先の先まで見通せるから愚図や愚か者に厳しいわ」
ひとつ息をつく。
「ねえ、皆さん。わたくしはそういう血筋の娘よ。母上のように、すべての人に隔てなく優しく出来る自信は、少なくとも今はないの。この集まりは『学友』……共に学ぶお友達、でしょう?こんな欠点だらけのわたくしとお友達として付き合ってもいい、そういう方だけ残って下さいな」
少女たちは戸惑ったように互いの顔を見合う。
どう判断していいのかわからないのだろう。
フィオリーナは息をついて少女たちに顔を見渡した。
「実はわたくし、思いのままに行動してしまったらきっと皆さんを困らせる、そう思って今まで静かにしてきたのですけど。でもそれじゃあ、お互いにいつまで経ってもお友達になれないままだ、そう気付いたの」
フィオリーナは婉然とほほ笑んだ。
男女も年齢も美醜も超越した、不思議と魅力的、蠱惑的なほほ笑みだった。
本人はまったく自覚していないだろうが、王家の者にのみ浮かべることが出来る、支配者の誇りと自負が刻まれたほほ笑みといえよう。
少女たちはポカンと王女の笑顔を見つめた。見とれた、のかもしれない。
「欠点だらけのデュ・ラク・ラクレイノの娘と友達になってもいい、そう思う方だけ残って下さいな。途中でついて来られないと思った方は、その段階で席から外れて下さっても恨まないし、むしろ申し訳ないと思うくらいだわ。だって、悪いのは皆さんじゃなくてわたくしなんですもの。でもわたくし、わがままを通す限りは嫌われても仕方がない、そう覚悟を決めました」
これが正しいのかどうかはわからない。
だけど、気持ちが悪いと思うことを押し隠し、ほほ笑みでごまかすのはやめる。やめる限りは軋轢も引き受ける。そう決めた。
ほほ笑みでごまかし、包み込み、だけど最終的には自分の味方に引き入れてしまう母とは、まったく真逆のやり方。
だけどこれが自分の戦い方だ。
「突然こんなことを言い出してごめんなさい。でももしこんなわたくしの『学友』でいて下さるのなら。次の講義もご一緒しましょう」
それではごきげんよう。
そう言ってフィオリーナは、もう一度婉然とほほ笑んだ。




