第二章 デュ・ラク・ラクレイノの娘③
その後の記憶は曖昧だ。
手紙と肖像画を引き出しにしまい、震えてしまう手で鍵を閉め、元通り鏡の裏へ隠したのまではなんとなく覚えている。
母の居間から出て、しばらくぼんやり廊下を歩いた。
やがて、血相を変えて走り回っていたデュラン護衛官と、やはり血相を変えた乳母のジャスティン夫人に見つかった。
彼等が口々に何か言っているのはわかったが、何を言っているのかはよくわからなかった。
「姫さま?姫さまどうなさったのですか?フィオリーナさま?」
強い声で呼びかけられ、フィオリーナはのろのろと声の主へ焦点を合わせた。
ジャスティン夫人だ。
夫人の青い瞳を、フィオリーナはただまじまじと見つめる。
いやだ、乳母やったら白目が血走ってるじゃないの、ちょっと気持ち悪いなと思った瞬間、フィオリーナの身体の奥で何かが弾けた。
「いやあああー!」
自分でも心のどこかで啞然とした、のどを破るようなすさまじい悲鳴。
ひるんだ大人たちの腕を振り払い、フィオリーナは駆けた。
とにかく逃げたい、それだけだった。
息が切れても彼女はもつれる足で駆け続け、気付いた時には自分の寝室の寝台の中に、上掛けを引きかぶってうずくまっていた。
腫れ物でも触るように、寝室の扉を開けては誰彼が声をかけてくる。
その度にフィオリーナは、枕やクッション、枕元の小卓に乗せていた本や人形、花を生けた花瓶さえ投げつけて撃退した。
「フィオリーナ」
母の声がしたのは夕方を過ぎた頃だ。
「一体どうしたの、フィオリーナ。みんな心配していますよ」
もっともらしい、母親らしい言葉だ。
すさまじい怒りの衝動に駆られ、フィオリーナは叫ぶ。
「放っておいて!嘘つきのおかあさまなんて大嫌い!」
「嘘つき?何故わたくしが嘘つきなの?」
戸惑う母へ、フィオリーナは叫ぶ。
「嘘つきじゃなくてなんだというのよ!嘘つき嘘つき大嘘つき!」
叫びと同時に枕元の小卓を力任せに倒す。ひどい音がして小卓は倒れ、引き出しが床に飛び出した。
「来ないでったら来ないで!みんな大っ嫌い!」
後は言葉にならなかった。
自分でも意味のわからないことをわめきながら、フィオリーナは大声で泣いた。
ひとしきり泣き、泣き疲れて眠っていたらしい。
気付くと辺りは真っ暗だった。
『仕方がないだろう、おとうさまはおかあさまを愛しているのだから』
暗闇の中で不意に思い出す父の言葉。
あれは確か五、六歳の頃だ。
アイオール叔父さまが一家で春宮へ遊びに来られたことがある。
叔父さまとマリアーナ叔母さまはいつも通り睦まじく、何かの折に叔父さまが、マリアーナ叔母さまの頬に軽くくちづけた。
それを見たフィオリーナが、
「おとうさま。おとうさまもおかあさまのほっぺにチュ、して」
と言って父を激しく困惑させたことがある。
白いお顔がみるみる赤く染まり、あうあうと意味のなさないことをおっしゃった。
その時は、母が笑いながら先に父の頬へ軽くくちづけ、さらに赤くなった父がきまり悪そうに母の頬にくちづけて終わった。
未だに父が母へ、見ているこちらが恥ずかしくなるくらい、それこそ少年のように真っ直ぐ恋しているのが、幼いフィオリーナの目にもはっきりわかった。
歴代指折りの賢王とさえ呼ばれているセイイール王だが、だらしないくらい母にメロメロで首ったけなのを改めて知り、フィオリーナはなんだか嬉しくなった。
いつもの、冷静沈着で知らないことなど何もないような父も好きだったが、赤くなったり青くなったりして言葉に詰まっている父は可愛らしくて、もっと好きになった。
以来フィオリーナは、時々その話をして父をからかった。父は苦笑いをしていたが、ある日
「仕方がないだろう、おとうさまはおかあさまを愛しているのだから」
と、ため息まじりに言った。
フィオリーナはふと頬を引いた。
開き直りに近い惚気の言葉だろう。
しかしそこには惚気だけでなく、言うに言えぬ苦さがあった。
幼いフィオリーナにさえ感じ取れる、隠し切れない苦み。
父ははっとしたように身じろぎし、ごまかすようにフィオリーナの頭をやや乱暴になでた。
その日からフィオリーナは、この件で父をからかうのをやめた。
気楽にからかってはいけない、何故かそう思ったのだ。
今思えば、そういう些細な、だけど何故か心の隅にわだかまりが残るようなことがちらほら、あったような気がする。
改めて考えてみると、リュクサレイノの曾祖父さまを含め周りの大人たちは、フィオリーナが赤ちゃんの頃の思い出話をしない。
ジャスティン夫人がまれに、元気でやんちゃで男の子のように活発でしたねくらいのことは言うが、それ以上のことは訊いてもはぐらかされてきたような気もする。
(おとうさまはおかあさまを愛している……)
では……おかあさまは?
母が父を愛していないなどと思ったことはない。
母はいつも父を気遣い、大切にしている。
父を見つめる母の優しい瞳に、嘘があるなんて微塵も思えなかった。
でも。
ではあの肖像画の青年は何?
何故寝室の化粧台の、それも鍵のかかる引き出しに隠すようにしてしまい込み、こっそり眺めているの?
そしてあの青年は……。
「フィオリーナ」
名を呼ぶのは父。
否。父だと信じてきた男の声。
「フィオリーナ、私だ。おとうさまだよ。入るからね」
言葉と同時に寝室の扉が開き、灯火を持ったセイイールが入ってきた。
フィオリーナは上掛けをかぶったまま半身を起こし、鋭く辺りを見回した。しかし、さすがにもう投げつけられるような物は何もなかった。
セイイールは床に散乱するあれこれに眉をひそめたが、ため息をひとつ吐いただけで何も言わなかった。
少し逡巡したが、自分で倒れている小卓を起こして戻し、その上に灯火を置いた。
「フィオリーナ」
寝台の端に座ってやや強い声で呼びかけるセイイールを、フィオリーナはにらみつける。上掛けをさらにきつく巻き付けながら、じりじりと後退る。
「一体何がどうしたんだ?こんな無茶苦茶をして。それに、おかあさまを嘘つきなどと罵ったそうだね。何があったのか知らないが、いくらお前でも言っていいことと悪いことが……」
「放っておいてよ!嘘つきに嘘つきと言って何がいけないの?」
フィオリーナはわめいた。
「あなただってそうよ、わたしのおとうさまでもないくせに!」
言った次の瞬間、フィオリーナは後悔した。
彼の顔から表情が消えた。
その顔を見た途端、すべての憶測が憶測ではないと悟った。
彼は表情を失くした。
彼は否定しない。
つまり彼は『父』ではない。
フィオリーナの目から涙が吹いた。ぐじゃぐじゃになった胸から、言葉が勝手に飛び出してゆく。
「嘘つき!あなたはわたしのおとうさまじゃない、叔父さまなんでしょう!知ってるのよ、わたしの本当のおとうさまはライオナールって方だって。どうして自分がおとうさまだなんて嘘をついたのよ!」
彼は苦く息をつくと、わめくフィオリーナの目を真っ直ぐに見つめた。
「嘘をついたつもりはないが」
彼はもう一度、苦い息をついた。
「否定はしない。血のつながりだけで言うのなら、フィオリーナのおとうさまは確かに私の兄であるライオナールだ。でも、今のフィオリーナのおとうさまは私だよ、誰が何と言おうとも。もう少し大人になったらその辺りのことを、きちんとお前に説明するつもりだったんだけどね。だけど曖昧なままにしてきたせいで、結果的には嘘をついてしまったことになる。悪かった、許してくれとは言わない。すまないフィオリーナ。お前を……傷付けてしまった」
涙を流し、フィオリーナはあえぐ。
おとうさまはおかあさまを愛しているのだからという言葉の意味が、その時突然、色を変えた。
「そこ……そこまでして」
何故かがくがくと身体が震えた。
「そこまでして、おかあさまが欲しかったの?」
セイイールが虚を衝かれたような顔をした。
まったく思いもよらなかったのかまさか図星を指されるとは思っていなかったのか、どちらなのかはわからない。
わからないが、フィオリーナにとってはどちらでも同じ気がした。
「おかあさまをデュクラへ返したくなかったから、わたしのおとうさまになるって言って、おかあさまを引き留めたのね」
身体の震えが止まらない。
「わ……わたしがラクレイドにいさえすれば、ラクレイドとデュクラの同盟の証になるわ。おかあさまがデュクラに帰っても良かった筈、でもあなたはおかあさまを帰したくなかった。だから、わたしのおとうさまになるからって言って、おかあさまと結婚したのね!」
セイイールの顔がゆがむ。絶望は証明された。
「おかあさまと結婚する為に、わたしを利用したのね!」
「フィオリーナ!」
すさまじい怒鳴り声に、思わずフィオリーナは涙を呑んだ。
セイイールの目が赤くなっていた。
彼が怒鳴るのも泣くのも、フィオリーナにとって信じられない出来事だった。
「……情けないことを言うな」
うるんだ声でそう言うセイイールに、フィオリーナは気圧された。
「そこまで私が信じられないか?おかあさまと結婚する為にお前を利用しただと?お前は、今まで己れの父だと信じてきた男が、そこまで情けない卑屈な男だと思っているのか?そんな生半可な気持ちで、お前の父になったと思うのか?」
流れる涙もぬぐわず、セイイールは歯を食いしばる。
「始まりは確かに姪に対する愛情だったかもしれない。だけどお前を可愛いと思いもしないで、お前の父になったと思うのか?」
「おとう、さま」
茫然とつぶやくフィオリーナを、セイイールはにらむように見つめる。
「お前は私の娘だ。直接の血のつながりなど関係ない、お前は第十一代ラクレイド王 セイイールの娘だ。仮におかあさまがお前を連れてデュクラへ帰ってしまわれたとしても、お前は変わりなくセイイールの娘だ。もしお前が私と絶縁して何処かへ去ったとしても、それでも変わらず私の娘だ。何があろうがなかろうが、お前は私の娘だ、フィオリーナ!」
キリキリと奥歯を噛み、セイイールは声を絞り出す。
「お前は……私の娘だ」
フィオリーナはセイイールにしがみついた。
お前は私の娘だと泣きながら言い切る男に、再び『父』を見出した。
ごめんなさい、おとうさまごめんなさいと、フィオリーナは泣きじゃくった。
髪を撫ぜる彼の指は、とても優しくてあたたかかった。




