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第二章 デュ・ラク・ラクレイノの娘②

 フィオリーナ九歳の初夏。

 恐ろしいものを見てしまった。


 事の起こりは、春から始まった『学友』制度で集まった少女たちとの付き合いに、心底うんざりしていたことだろう。

 ラクレイドに昔からある『学友』という制度は、王子や王女が同性の貴族の子弟と一緒に学んだり遊んだりして仲良くなるための制度、なのだそうだ。

 一般的に王子や王女が十歳前後から十四、五歳程度まで、三日に一度くらい共に午後、何らかの勉強や訓練を彼等彼女等と一緒にするならわしだ。

 フィオリーナの場合、それが今年の春から始まった。


 最初は楽しみだった。

 実際、同年配の少女たちと一緒に学べば、苦手な刺繍や楽器の練習も、新鮮で楽しかった。

 王女の場合はその後、日暮れ頃まで軽く茶菓を楽しみながらおしゃべりするのが普通だそうで、要するに社交界でどう振る舞うかが殿方以上にわずらわしい、貴婦人としての嗜みを学ぶ場という意味もあるのだろう。

 勉強や訓練はともかく、フィオリーナはこれがとにかく嫌だった。

 それでも最初は我慢していた。

 しかし、彼女たちのおしゃべりのつまらなさは、フィオリーナにとってほとんど拷問だった。

 はっきり言って、他人のドレスの色が青くても赤くてもフィオリーナは興味がないし、薔薇と百合ではどちらがより高貴な花なのかについても、別に好きな方を選べばいいだけの話で何をそうこだわるのか、フィオリーナには理解できなかった。

 赤いドレスや青いドレスはどういう染料でどうやって染めるのかとか、薔薇や百合から香水を抽出する方法はどうやるのかとか、そういう話なら大いに興味を持てるのだが。


 そして、いかにも仲良さそうに楽しそうにおしゃべりしているのに、実はその裏で互いに貶め合っているのだという事実に気付き、フィオリーナはますますうんざりした。

 彼女たちのおしゃべりに付き合っていると、フィオリーナはがっくりと消耗した。

 世界が狭く小さくなってゆくようで、心がどんどん沈んでゆく。

 愛想笑いをしながら行儀よくお茶を飲んでいるだけで、肩も首もばりばりに張ってくるのだ。

「フィオリーナ殿下は大人しやかな方なのですのね。さすがはデュ・ラク・ラクレイノのたるお方。わたくしたちのさえずり、姫殿下にはやかましいですわね、申し訳ありませんわ」

 いかにも殊勝そうに謝られるが、フィオリーナにはこう聞こえる。

(気取ってるわね、デュ・ラク・ラクレイノだからって。つまらなさそうな顔をして、気難しい人。盛り上げようと苦労しているこっちの身にもなってよね) 

 フィオリーナは初めて、母の仕事や交際の大変さを知った。

(おかあさま、尊敬致します。フィオリーナにはこんなの無理です)

 彼女たちのご機嫌をうかがうくらいなら、馬のご機嫌をうかがう方がよっぽどたやすい。

 少なくとも馬たちは、にこにこしながら相手を貶めたり、相手を褒め称えながらけなすような、意地の悪いことはしないではないか。



 瑞々しく晴れた、とある素晴らしい初夏の午後。

 空は青く、雲はあくまで白い。

 柔らかな新緑が、時折強く吹く風に揺れる。


 こんな日に『学友』たちと不毛なおしゃべりをするくらいなら、ひなたぼっこでもしていたい。

 それが無理なら、どこかに隠れて昼寝でもした方がよほど有意義だ。

 そう思ったフィオリーナは、母に呼ばれていると嘘をついて不毛なお茶会から抜け出した。

 そしていかにも用があるようなそぶりで、彼女は母の居間へと向かった。

 王妃の私室となると、いつもそばにいる正護衛官のデュランもさすがに遠慮する。扉の前に立つ彼を置いて、フィオリーナは厳かに扉を閉ざした。

(ああ、自由だ!)

 少なくとも、『学友』たちのお茶会が終わるまでの二時間ほどは。思い、うきうきと居間に続く寝室へと向かう。

 母の寝室でなら、たとえ昼寝をしていても邪魔しに来る者もいない。

 ばれると後で色々言われるかもしれないが、その時はその時だ。

 不敵なことを思いながら扉へ手をかけようとして……フィオリーナは妙な物音を聞いた。


 ぐう、ぐうう、とでもいう獣がうめくような声。

 最初は意味もわからず恐怖に駆られ、フィオリーナはすくんでしまった。

 が、そのうちこの奇妙な物音が、押し殺そうとしても洩れてしまう泣き声ではないかと気付き、フィオリーナは息が止まった。

(おかあさま?え?もしかしておかあさまなの?)

 母が泣いているところなど、フィオリーナは想像したことすらない。


 『デュクラより舞い降りし麗しの紅薔薇』と称えられている母は、いつもほほ笑んでいるような印象がある。

 デュクラ王家に多いくるくると縮れた赤毛をこてで伸ばして柔らかく結い上げ、エメラルドを思わせる輝く瞳、カメオの乙女のようになめらかな頬には、誰もがふと心を許したくなるような、柔らかなほほ笑みがいつも湛えられていた。

 端々にデュクラなまりの名残りのある優しい声で、丁寧に言葉を紡ぐふっくらとした唇は、春の風に舞う桃の花を思わせ、娘のフィオリーナでさえくちづけたくなるような可憐さだった。

 『情より知が勝つ』典型的なラクレイド王たる父を和らげ、周りと上手く取り持つ春風のような母に、涙も苦しいうめき声も似合わない。


 しかし母の寝室で声を呑んで泣いている者がいるとなると、それは母自身である可能性が高い。

 その他の者の可能性もなくはないが、それはそれで恐ろしい。


 近付くな、このままきびすを返して居間からも出て行くべき。

 知らない、何も知らない、そういうことにするんだ!


 フィオリーナの中からガンガン警告が聞こえてくるが、何故か立ち去れなかった。震える手で音を抑えるように気を付けてそっと扉を開け、わずかな隙間から身を滑り込ませ、中へ入った。


 扉の正面に天蓋を深く下げた寝台、入って右手に大きな鏡を備えた化粧台。

 扉を入って左手に、寝間着や下着類を収めた衣装箪笥や長椅子がある。

 足音を忍ばせ、素早く長椅子の陰に隠れた。

 これでもフィオリーナはダンスの教師にいつも、身のこなしが軽やかですねと褒められている。

 足音を忍ばせて物陰に隠れるくらいたやすい、褒められるような特技ではなかろうが。


 天蓋の向こうには、うつ伏せに倒れ込んでいる誰かがいた。

 寝台が広いせいもあるのだろうが、頼りないまでに小さな人だった。

 羽枕に完全に顔をうずめ、その人はうめいていた。

 深手を負った獣にも似たくぐもったうめき声だ。時折ひくひくと肩がゆらぐ。


 母だ。母だった。


 乱れた髪は、薄暗い天蓋の下であっても吟遊詩人たちが歌う『デュクラより舞い降りし麗しの紅薔薇』に相応しい、美しく輝く赤。

 美しいとは恐ろしい。

 フィオリーナは生まれて初めて、詩か何かで読みかじった言葉を実感する。


 やがてのろのろと母は顔を上げた。

 涙で汚れた頬を手の甲でぬぐい、鼻も頬も赤くしたまま、よろめきながら寝台から降りる。

 幽鬼じみた足取りで化粧台の椅子に座り、鏡に向いたまましばらく彼女は放心していた。

 ふと、彼女の瞳に意思のかけらが浮かぶ。

 鏡の裏を探り、小さな金色の鍵を取り出した。それで一番上の引き出しを開け、中をじっと見つめた。

「……」

 聞き取れない小さな声で誰かの名を呼ぶと、彼女はもう一度肩を震わせた。


 しかし一瞬後、決然と彼女は背を伸ばした。引き出しを閉め、再び鍵をかけて鏡の後ろへ隠した。

 白粉をはたき、涙の跡と鼻の赤みを消した。

 紅を指し、髪も整える。

 鏡の中でほほ笑む彼女は、いつもの春風のようなアンジェリン王妃だった。

 ひとつ息をつき、彼女は立ち上がる。

 そして軽やかな足取りで寝室を後にした。

 おそらくしわだらけのドレスを着替える為に、居間の向こうにある衣裳部屋へ向かったのだろう。


 フィオリーナは息を殺し、かなりの間じっとしていた。全身を耳にして物音を聞き取る。

 身支度を済ませた母が衣裳部屋から出てきて、居間の扉が開いて閉まる。

 母の気配が完全に部屋から消えた。

 それを確認し、フィオリーナはようやく長椅子の影から這い出した。あまり長くじっとしていたからか、足も腰も痺れてしまった。

 よろよろと化粧台へ向かう。

 やめろやめろという警告は相変わらず聞こえてくるが、フィオリーナは震えながら鏡の裏を探り、さらにがくがく震えながら金の鍵で引き出しを開けた。


 引き出しの中に入っていたのは小さな絵だった。

 鹿毛の馬に乗った笑顔の青年の、胸から上の肖像画。

 黄金の髪にはしばみ色の瞳。がっしりとした体格らしく、肩幅があるし胸板も厚そうだ。ややえらの張った顔の造作が、なんとなく懐かしい。


『フィオリーナ姫はこの爺の子供の頃の雰囲気に似ていらっしゃいますな』


 とろけるような笑顔でそう言った、リュクサレイノの曾祖父さまの声を不意に思い出す。


『父君様や母君様のような、誰が見てもお美しいとしか言えないお顔立ち……とは、残念ながら言えないやも知れませんな。申し訳ないです、この爺に似てしまわれたのでしょう。しかしそう悪くもありませんぞ。この世にはちゃんと、この顔は味があって好きだという者もいるのです。こう見えてこの爺、若い頃はそれなりにもてましたぞ』


 フィオリーナはふと顔を上げる。

 鏡に映っているやや青ざめた少女は、黄金の髪をひとつにまとめたみつあみで、瞳の色ははしばみ色。ラクレイド王の血筋の者に多い髪や瞳の色だと聞いた。

 実際、先代のスタニエールおじいさまも先々代のシラノール曾祖父さまも、肖像画で見ただけだけど、黄金の髪にはしばみ色の瞳でいらっしゃった。

 ふと、あごの線をたどる。

 ややえらの張った、たくましいような輪郭。

 何故ここがおとうさまやおかあさまのような繊細な造作じゃないのだろうかと、フィオリーナは時折思った。

 これはリュクサレイノによくある顔立ちで、フィオリーナはそちらの血が濃く出たのだろうと父にも言われた。

 だけど髪と瞳はラクレイド王家に多い色だと……。

 フィオリーナはもう一度、肖像画の青年を見た。


 黄金の髪。

 はしばみ色の瞳。

 リュクサレイノの血を思わせるえらの張ったあごの線。

 豪快な笑い声が聞こえてきそうな明るい笑顔。


 よく見ると絵の下の方に『馬上のライオナール・デュ・ラク・ラクレイノ王太子殿下』と書かれてあり、隅の方に小さく『シュルツ』と署名されていた。

(『シュルツ』……セルヴァンの公子でいらっしゃる肖像画家の)

 彼が慣習(ならい)により、十六歳までラクレイドで教育を受けていたのはフィオリーナも聞いたことがある。

 その間に描いた小さな肖像画を、近しい幾人かの貴人に贈ったのだという話も。


 頭の中がわんわんと鳴った。

 聞きかじった断片的な情報、頭の片隅に残る小さな違和感のあれこれが収斂してゆく。

 フィオリーナは半分無意識のうちに、震える指で肖像画を取り上げた。途端に、カサ、と乾いた音がした。音がした方を覗くと、折りたたまれた端の黄ばんだ便箋があった。

 肖像画を化粧台の上にそっと置き、さらに震えてしまう指で便箋を取り上げ、開く。


 書きなぐったに近い筆致の、短い文面の手紙だった。

『愛するアンジェリンへ

 今日、デュラ高原に着いた。

 ラクレイドの騎馬部隊が来るとは思っていなかったのだろう、敵はやや浮足立っている。

 早くこの戦いを終わらせ、戻るよ。

 フィオリーナは相変わらず走り回っているかい?

 あの子は私に似ているから、将来とんでもないおてんば娘になるかもしれないな。

 貴女に似た方が女の子とすれば幸せだったかもしれないが、こればかりは天の配剤、ラクレイアーンの御心だろう。

 なに、おてんばな女王陛下も悪くないさ。

 こんな所に独りでいると、私らしくもなく感傷的になるようだ。

 早く二人に会いたいよ。

  貴女の夫にして忠実なる騎士 ライオナールより』

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― 新着の感想 ―
学業生活、お退屈なようでありましたね。
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